◇ジル・ビルヌーブ列伝 (1980年)◇


前置き:「事故は僕に何の影響も与えない」という信念

1980年シーズン開始までのシーズンオフ最中に、ビルヌーブは今までのF1戦歴について、ジャーナリストのインタビューに答えたことがある。

 

 

事故を全く恐れないビルヌーブの信念は、昔初めてレースに出場した時から変わらなかった。レースの結果を優先するのではなく、レース中のスピードやタイムアタックやバトルに集中することこそが、彼の喜びだったからだ。その結果優勝することもあれば、クラッシュでリタイアすることもある。ビルヌーブのようなタイプのレーサーには、「優勝か無か」「優勝がダメならエンジンブローか大クラッシュ」という表現がよく似合う。

ビルヌーブには少なくとも表面上に現わす恐怖心が殆ど無いということになるが、それを裏付けるエピソ−ドがある。今シーズンも同じくチームメイトとなっているシェクターをビルヌーブが自家用ヘリコプターに乗せた時のことである。もちろん操縦はビルヌーブで、かなりの高度を飛行中にインパネの警告ランプが点滅し出した。シェクターがおそるおそる「ジル、これはなんだ? 何の警告ランプなんだ?」ときいたところ、「バッテリーが加熱して破裂する危険性がある、そういう意味のランプだよ。バッテリーが破裂しちゃったら墜落しちゃうよね」と平然と答え、次の瞬間ビルヌーブはなんとエンジンを切ってしまった。当然揚力を失ったヘリコプターはものすごい勢いで落ちていく。シェクターは「もうダメだ! もう死ぬ! もう終わりだ!」と半狂乱になっていた。ところがしばらく急降下した後、ビルヌーブは再びエンジンをかけてゆっくりと上昇していく。そんなことを数回に渡って繰り返した。ビルヌーブに言わせれば少しでもバッテリーを冷やすための行動だったらしいのだが、シェクターの肝はバッテリーよりも遥かに冷えたようで、「ジルには恐怖心が全く無い! 二度とジルの操縦するヘリになんて乗るものか!」という決意をシェクターはした。

もう一つのエピソードは、イタリアンレッドにペイントされたビルヌーブの自家用車フェラーリ308GTSにシェクターが初めて同乗した時のこと。混雑していて殆ど車の切れ目の無い高速道路を、ビルヌーブは時速220キロ以上のスピードで車の流れを目にも止まらない速さでジグザグ走行をしながらすり抜けていたのだ。その時、前を走る大型車がいきなり進路変更をしてきて308GTSの目の前をふさぎ、どう見ても308GTSが激しく追突してしまう状況になった。シェクターは両目を覆って、もはやこれまでと観念した。だがビルヌーブは少しも動揺せずにサイドブレーキを引いて瞬時に308GTSを真横に向け、ラリーでいう「直ドリ」状態のまま、ドリフトによる減速でこれを回避した。大型車のリアバンパーすれすれに308GTSのサイドボディが迫りながらも、ビルヌーブは余裕の表情を浮かべていた。目的地に着いて308GTSを降りたシェクターは「二度とジルの運転する車には乗らない!」と言ったそうな。だが車だけに利用する機会が多いので、仕方なく同乗を続けているうちにシェクターはビルヌーブの運転に少しは慣れたらしい。それでも毎回決まって「今日は死にませんように」と心の中で祈っていたという。

恐怖心を全く見せないビルヌーブの信念は、どんな場所でも同じだったのだ。だからF1レースにおいて「事故は僕に何の影響も与えない」と豪語できたのである。

そんな彼の信念や豪語を試すかのように、1980年シーズンが始まった。


試練の始まり(1980 アルゼンチンGP)

アルゼンチンGPが開催される前から、ビルヌーブとシェクターは、今シーズンのニューマシン312T5に対して失望していた。ビルヌーブとシェクターがフェラーリの自前のテストコースでテスト走行をやってみた結果、ダウンフォースは得られない、ハンドリングはめちゃくちゃ反応が悪い、エンジンパワーだけはなんとか旧マシンの312T4のままというひどい性能だったからだ。旧マシンの312T4よりも遥かに性能が劣っていたのだ。これではもはや312T5はニューマシンとは言えない。

この原因は、フェラーリのマシン開発スタッフが、性能のよかった旧マシン312T4に、数字上の計算だけで出したデータを元に手を加えたからに他ならない。間抜けなことにその肝心の計算が合っておらず、結果的にかなりの改悪状態になってしまったのだ。手を加えている途中で慎重にテスト走行を重ねて開発を続けていれば、これほどまでにひどい改悪にはならなかったはずなのに、である。結局、開発スタッフの自信過剰と怠慢さが招いた最悪の結果が、312T5だったのだ。

こんな状態のため、アルゼンチンGPの予選結果は望めそうも無い。シェクターは辛うじて15〜20番手あたりのグリッドを得られそうな有様だった。しかしビルヌーブは死にもの狂いで走り、8番手のグリッドを得た。この時点でビルヌーブの走りが尋常でないことがイヤというほど解る。

スタート直後の第一コーナーで早くも312T5の不安定さが出て、ビルヌーブはダートに飛び出して順位を落としてしまう。しかし彼得意の限界ギリギリのドリフト走行を駆使してじわじわと順位を上げ、終盤ではなんと2位にまで浮上した

だが、やがてビルヌーブの激しい走りに悲鳴をあげたのか、312T5のサスペンションが突然壊れてしまった。恐ろしいことに最高速の出るストレートエンドでサスペンションが壊れてしまったのだ。第一コーナーでビルヌーブの312T5は、完全にグリップとコントロールを失った超高速状態のまま横に吹っ飛び、バリアーに激しく叩きつけられた。大クラッシュだったが、ビルヌーブは無傷だった。

ピットに戻ってきたビルヌーブは言った。「312T5はマシンと呼べるほどの性能を持っていない、ただのクズ鉄さ。だけどクズ鉄なだけに頑丈でドライバーを守ってくれるんだね。おかげで僕は無傷なんだから。これで安心して事故を起こせるよ」と。もちろん開発スタッフに対する皮肉を込めた冗談である。

ビルヌーブもシェクターも、今後少しでも早く312T5の改良を進めてほしいとスタッフに願い出たが、基本的なシャシーからして設計ミスなのだからということで、今後の改良はあまり期待できそうもなかった。

ビルヌーブは、「今シーズンは極めて厳しい試練のシーズンになる。優勝なんてまず望めないだろう。それならばレース結果を完全に犠牲にしてもいいから、このクズ鉄312T5でどこまで速く走れるか、それだけに心血を注げよう」と思い、今まで以上の限界走行に挑戦する覚悟を決めたのだった。


本物のドリフト走行を極めた者(1980 ブラジルGP)

ブラジルGPが行われたインテルラゴス・サーキットは、タイトなコーナーが連続するサーキットで、ダウンフォースの少ないマシンにはそれほど不利にはならない特性を持っている。言い換えれば312T5のようなマシンでも少しは有利になるのだ。ビルヌーブはこのコース特性を最大限に生かした走りをして、予選では3位につけた。もちろんコース特性を生かしただけでなく、彼の本物のドリフト走行が物を言った結果だった。

今でも時折いろんなレースで話題に上がることだが、「グリップ走行よりも、本物のドリフト走行のほうが速い。ただしその本物のドリフト走行を極めることができるのはごく一握りのドライバーだけだ」ということである。当時のF1ドライバーに限って言えば、本物のドリフト走行を極めていたのは他界したロニー・ピーターソン、そしてビルヌーブくらいだった。

更にビルヌーブにはもっと強い、ロケットスタートという武器がある。これをスタートで生かさないテはない。

決勝でビルヌーブは、ジャン・ピエール・ジャブイーユとディディエ・ピローニの後ろから猛烈なロケットスタートを決めて、ジャブイーユとピローニのマシンの真ん中、しかもホイールとホイールが接触せんばかりのギリギリの隙間を見事にすり抜けてトップに立った。スタートでのドラッグレースが得意なビルヌーブの、おなじみの光景である。

しかし、観客の間からは「今のビルヌーブのスタートはあまりにも速すぎないか? フライングスタートじゃないのか?」との声もあり、競技委員の間でも同じことがささやかれた。にも関らずスタート時のビデオカメラに写ったビルヌーブのスタートの映像は、グリーンライトが点いた瞬間にスタートラインを超えていることが解り、本当にフライングギリギリというスタートだったのだ。

つまりビルヌーブは、シグナルが変わる瞬間を誰よりも正確に見極めるワザを身に付けるべく、なんと普段の私生活での公道走行で練習をしていたのだった。彼の自家用車308GTSで公道を走行していて、交差点の赤信号で一旦止まり、信号が青になる瞬間を一瞬のうちに読み取ってスタートしていたのだった。それをレースに応用したわけだ。というか、レースのスタートのテクニックを更に磨くために公道で練習をしていたのだ。

そんな努力を重ねた結果の、今回のスタートダッシュだったが、312T5のシャシーとミシュランタイヤの性能の悪さから余儀なくピットインをせねばならず、せっかくスタートでトップに立った努力もムダになってしまう。

それどころか、ピットアウト後の追い上げで果敢に先行車にアタックしていた最中、ビルヌーブのアクセル操作とは関係なく、突然リアタイヤが「ギャギャギャギャーーー!!」とホイールスピンをして、ビルヌーブのマシンは自動的にスピンをする状態になった。原因はコーナリング途中でスロットル・リンケージが開きっぱなしになってしまったためだった。

これはメカニックの整備ミスもあるだろうが、ビルヌーブの過激な走りにスロットル・リンケージが負けて壊れたという見方もある。


タイヤ交換の義務化は有利だが…(1980 南アフリカGP)

今回の南アフリカGPからは、レース中でのタイヤ交換が義務化された。他の(ミシュランタイヤを履いていない)ドライバーたちにとっては不利なルール変更だったが、ビルヌーブにとっては少しは有利になるルール変更だった。なにしろ、ただでさえレース中にミシュランタイヤがどんどんタレてきてイヤでもタイヤ交換をしなければならなかったのだから。だからタイヤ交換が正式に義務付けられれば、他のドライバーたちとあまり落差はなくなるだろう、とビルヌーブは思ったからだ。

しかし悲しいかな、シャシー性能の劣る312T5で限界ギリギリの走行を続けた結果、ギアボックスが壊れてしまい、ビルヌーブはピットインしてそのままリタイアしてしまう。

この原因は、タイヤ交換の面でややマージンができたとはいえ、それ以上に312T5の性能がひどかったからに他ならない。その大きなハンデを走りでカバーしようとしたビルヌーブのマシンのギアボックスが悲鳴をあげてしまったのである。ビルヌーブが言っていたとおり、正に312T5は使いものにならないクズ鉄と言っても過言ではない。


信念と決心は少しも変わらない(1980 ロングビーチGP)

ロングビーチGPでは、ビルヌーブは10位のグリッドにつけてスタートから猛烈に飛ばし、ありとあらゆるコーナーでドリフト走行を披露したが、またしてもビルヌーブの過激な走りに今度はドライブシャフトが折れてしまい、リタイアとなった。

かつてエンツオ・フェラーリが「ビルヌーブは頑丈なマシン作りに欠かせない、良い意味での破壊の王子である」と言ったことがあったし、開発スタッフやメカニックはその言葉に応えてマシンのシャシーを強化し続けていたが、さすがにドライブシャフトの強化までには手が回らなかったようで、それにより折れてしまったのだった。

一方、クレイ・レガゾーニが、ブレーキの故障からノーブレーキのままで、時速300キロ近い速度のままコンクリートウォールに激突するという大事故があった。レガゾーニは病院に運ばれて、結局両足を切断するはめになり、レースからは引退せざるをえなくなったのだ。幸いにも下半身不随だけで済み、それ以後はコメンテーターとしてF1レースの関係者となっている。

そんなレガゾーニの顛末を見ても、ビルヌーブは全く事故を恐れることはなかった。これは彼がシーズン前のインタビューで答えたとおりである。彼の「事故は僕に何の影響も与えない」という信念は変わっていなかった。それは自分だけでなく、レガゾーニのような他人の大事故を見た時も決して変わることはなかった。

ビルヌーブは事故を全く恐れないどころか、開幕戦のアルゼンチンGPで思った「このクズ鉄312T5でどこまで速く走れるか、それだけに心血を注げよう」という決心さえも少しも揺らぐことはなかったのである。


やっとの思いで1ポイント(1980 ベルギーGP)

ベルギーGPの予選ではビルヌーブは12位のグリッドにつけて、例によって果敢な走りを見せ、決勝では6位に入った。ポイントは1ポイントだが、クズ鉄312T5のことを考えれば相当上の順位である。なにしろチームメイトのシェクターは常にテールエンダーに近いような位置をいつもうろちょろしていたからだ。もちろんビルヌーブのウデがケタ外れだったことに尽きる。

こうなっては、本来ならばビルヌーブにナンバー1ドライバーの称号が与えられるべきなのだが、彼は相変わらずそんな称号には全く興味が無く、「ただ速く走れればいい」という考えでいた。

一方、優勝を飾ったのはリジェのディディエ・ピローニだったが、ピローニは地位欲と名誉欲に駆られてF1の世界に入ったようなものだった。もちろんピローニも速さではトップクラスのドライバーだったし、そういうドライバーは他にも居るのだが、今シーズンのピローニは速いマシンに恵まれていたことも、かなり優勝の助けとなったのだった。


跳ね返りドリフトコーナリング(1980 モナコGP)

モナコGPでもピローニの快調ぶりは見られて、ピローニはリジェをポールポジションにつけた。

一方のビルヌーブは、このモナコこそが彼にとって最高のパフォーマンスを見せる場所であり、昨年までのモナコで見せた走りよりも更に過激さを増していた。なにしろ昨年までは、ドリフト中のマシンのリアタイヤをガードレール数センチのところでコントロールしていたのが、今度はなんと、わざとガードレールにリアタイヤを「ドンッ!!」とぶつけて、その反動でテールを跳ね返らせて、次に迫る逆向きのコーナーに突入していくのだ。つまり前のコーナーでのリアタイヤの跳ね返りを利用して、次の逆向きのコーナーのドリフト走行に備えるという、とんでもない荒業を平然とやっていたのだから恐ろしい。もちろんこんなワザができるのはビルヌーブしか居ない。

こんな走りをガードレール越しに見ていたカメラマンは、昨年よりももっと恐れをなし、ビルヌーブがコーナーに入ってくるはるか前から逃げ出す始末だった。おそらく余程の勇気のあるカメラマンでなければ、ビルヌーブの「跳ね返りドリフトコーナリング」を撮影できなかっただろう。なんといっても、コーナーというコーナーで、ビルヌーブの312T5のリアタイヤが「ドンッ!! ドンッ!!」とぶつかる音がしていたのだから。

それでも予選の順位はあまり上がらないビルヌーブ。マシンの性能上で仕方が無いこととはいえ彼は焦ってしまい、あるコーナーでスピンをしてエスケープゾーンにはみ出た時に、うかつにも自動消火装置のボタンを押してしまい、燃えてもいない312T5を消化剤がくるんでしまった。ごくたまに見せるこういうドジなところにも、彼の人間臭さが感じられる。それでも彼は気を取り直し、得意のモナコのコースで6番目のグリッドを得た。

決勝では、スタート直後にトップグループで多重クラッシュが起きて、デレック・ダリーのマシンに至ってはハデに宙を舞い、コース上は大混乱だった。ポールからスタートしたピローニも結局、クラッシュでリタイアしてしまう。ビルヌーブはぶつけられこそしなかったものの、多重クラッシュをしたマシンにほとんど道を塞がれてしまった。だが僅かな隙間から猛烈な勢いで飛び出してコースに復帰した。

やがて雨が降り出したのだが、雨になるとビルヌーブは特に速い。他のマシンたちが無難にペースダウンして走る中、ビルヌーブだけは例によってウエットの路面を華麗に滑りながらコーナーを攻めて、スタート直後の多重クラッシュでかなり順位が下がった分を取り戻して、5位でチェッカーを受けた。もしスタート直後でのタイムロスをしなければ、もっと順位は上がっていただろう。

チームメイトのシェクターが中団グループから下位グループに甘んじてフィニッシュしたことを考えれば、改めてビルヌーブの異常な速さが浮き彫りにされるというものだろう。ビルヌーブが昨年以上の過激な限界ギリギリの走りに燃えている証拠である。

更に、この時期辺りになって、ビルヌーブへの評価が昨年よりも変わってきたのだった。報道陣やF1ファンの目から見て、ビルヌーブが過去最悪のマシンであるクズ鉄312T5でこれだけ速く走るのを見て、「昨年のワールドチャンピォンのシェクターがあんなに下方に沈んでいるのに、ビルヌーブはものすごく限界ギリギリの、いや既に限界を超えたドライビングをしている。見ているほうにもそれがひしひしと伝わってくるし、あの出来そこないの312T5であの順位はとんでもなく信じがたいことだ。もし他のマトモな性能のマシンに乗らせたらどれだけ速く走れるのか、考えただけでも恐ろしい。きっと誰もヤツには追いつけないだろう」という言葉を発した。これは当然、昨年までのビルヌーブに対する評価が更に上がったことを意味するのは言うまでも無い。


126Cの開発開始(1980 フランスGP)

本当はこの間にスペインGPが行われたのだが、FISAとFOCAとの対立でゴタゴタがあったため、スペインGPはノンタイトル扱いになってしまった。優勝したアラン・ジョーンズには気の毒なレースだったが、このフランスGPでがんばってもらうしかない。

この時期あたりから、早々と312T5の戦闘力に見切りをつけたフェラーリチームの開発スタッフは、ニューマシン126Cの開発に取り掛かっていた。126Cはフェラーリ初のターボエンジン搭載でパワーの面ではかなり期待ができそうだったが、完成&デビューまでにはまだまだ時間がかかる見込みだったので、今回のレースも312T5のままである。

ビルヌーブは「来シーズン、いやもしかしたら今シーズンにニューマシンの126Cのデビューが間に合うかもしれないし、先は明るいはずだよ。僕はフェラーリチームが気に入っているから今後もずっとここに在籍したい。312T5を開発した時のような、あんな設計ミスをやらかさないためにも、126Cのテスト走行は慎重にやっているよ。さて、それはともかく、いつまでクズ鉄312T5に乗らなきゃならないんだろうねぇ。早くポンコツ屋に売り飛ばしたいんだけど」と笑いながら冗談を言った。そんなわけで、すっかり312T5の愛称が「クズ鉄」に定着してしまった。

今回のレースでは、ビルヌーブは17番手のグリッドから得意のロケットスタートを決めた。第一コーナーの手前で既になんと10台近くも抜き去っていた。とにかく全くいいところのない312T5においてはスタートダッシュだけが頼りだったのだ。結果は6位入賞で、できすぎと言ってもいい。


結果だけが全てではない(1980 イギリスGP)

イギリスGPの前に、徹底的な312T5の改良テストが繰り返されていたのだが、失敗に次ぐ失敗で、結局シェクターとビルヌーブは、今までの仕様のままの312T5でレースに臨まなければならなかった。

このレースでビルヌーブはエンジンの回しすぎによるエンジンブローのためリタイア。片やシェクターは地道に10位で完走した。今まで言われてきたことではあるものの、ここまでビルヌーブの不振=レース結果が出ないことが続くと、さすがのエンツオ・フェラーリもビルヌーブの走り方に対して色々言うようになっていった。チーム全体の人間関係が少しギクシャクし始めていたのだ。そのためビルヌーブとエンツオ・フェラーリが直に連絡をし合うということも少なくなった。

これがよくなかったのだ。ビルヌーブはスクラップ寸前のガタガタのマシンで限界ギリギリの走りをしていたということ、そしてマシンを叩きのめすように走らせないといけないこと、当然エンジンブローなどのマシントラブルも常に背中にしょっていること、その感覚がエンツオ・フェラーリに伝わっていなかったのだ。

これにはビルヌーブもだいぶ焦ったようで、無理を言ってエンツオ・フェラーリと直に、頻繁に連絡を取り合うようにして、ようやく解ってもらうことができた。つまり、ドライバーが悪いのではなくマシンが悪いという単純な事実をだ。

この単純な事実は案外、見かけからでは解らないもので、ただ「ビルヌーブのウデが落ちた」「走りが荒くなっただけ」という風にしか見てもらえない。だが事実は全く逆で、昨シーズンよりももっと頑張って走っているのに、マシンのほうが貧弱すぎてネをあげて故障するのである。

ビルヌーブはエンツオ・フェラーリにまでドライビング・テクニックを疑われて、よっぽど「結果だけが全てじゃない。大事なのは過程だ」と言いたかったことだろう。

なんとかエンツオ・フェラーリにも事情が解ってもらえたおかげで、チーム全体に「また一緒に頑張ろう」という団結心が戻ってきたのである。と同時に、ビルヌーブは1981年もフェラーリチームに在籍するという意を表明して、記者会見でも正式に発表された。チームの雰囲気が元に戻ったおかげで、本来のアットホームな「ビルヌーブ&フェラーリ」の楽しさも戻ったのだ。一件落着である。


パトリック・デパイエの事故死(1980 ドイツGP)

ビルヌーブの安心感を叩き壊すように、ドイツGPの予選前のフリー走行でパトリック・デパイエが事故死するというショッキングな出来事があった。デパイエは昨年のハンググライダーでの大怪我から見事にF1へと復帰したドライバーだった。それだけに彼の死には皆ショックを受けた。

それとほぼ同時期に、チームメイトのシェクターが「今シーズン限りでF1から引退する」という声明をした。シェクターは「僕のF1キャリアもだいぶ長くなって年をとってしまったし、昨年ワールドチャンピォンを獲得したし、もういいんじゃないかなと思うんだ」と言ったのだが、312T5の不調ぶりが彼の引退に拍車をかけたことも充分考えられる。

そんな出来事が続いても、ビルヌーブのレースにかける闘争心は揺るがなかった。もう既にパターン化された…というよりパターン化するしかないレース戦略すなわちスタートでの一発勝負にビルヌーブは賭けていた。ビルヌーブは16番手のグリッドから猛烈なスタートを見せて、5位にまで順位を上げてチェッカーを受けた。

デパイエの事故死があったために、3位までのドライバーたちが力なくウイニングポーズをしていた。それを横目で見ていたビルヌーブは、一言報道陣に漏らした言葉がある。「今のような走り方をしていたら、いつか僕は取り返しの付かない大事故をやらかすかもしれないし、最悪の場合はデパイエのようになるかもしれない。だけどそんなことを考えていたらF1ドライバーが務まると思うかい? 僕は今までと同じ走り方を続けるよ」。

シーズンの初頭で豪語した「事故は僕に何の影響も与えない」というビルヌーブの信念は、どんな出来事が起きようとも変わらなかった。


余儀ないタイヤ交換(1980 オーストリアGP)

オーストリアGPでもミシュランタイヤの貧弱さは変わらず、ビルヌーブにとってはミシュランタイヤは、もはやスタートダッシュのためだけに使われていたと言ってもおかしくはない。毎レース毎レースで必要の無いタイヤ交換を余儀なくされていたためだ。そのために、せっかくスタートダッシュで稼いだ順位も、レースが終わる頃には水の泡となってしまっていた。

そんな経験をイヤというほど味わわされた今シーズンのビルヌーブは、決勝レースで予選用タイヤに近いコンパウンドのタイヤを履いた。どうせタイヤがタレてピットインを余儀なくされるのならば、開き直って、周回のもたない柔らかいコンパウンドのタイヤを履いてピットインしても大して変わらないと思ったようだ。

そのためにレースの序盤の数周でビルヌーブは6台ものマシンを抜いた。スタートダッシュ以外で抜くという芸当は、本来の312T5の性能では無理な注文だった。それならばタイヤの貧弱さを逆手にとった戦法でいこうとビルヌーブは思ったのだ。その結果、7位でフィニッシュ。さて、どちらの戦法が312T5に向いているのであろうか。元々がクズ鉄なだけに、あらゆる戦法を使ってもあまり効果は望めそうもなかった。


ミシュランの首の皮(1980 オランダGP)

ミシュランが新しいコンパウンドを開発して、ハイグリップの予選用タイヤをオランダGPまでに間に合わせてきた。

新しいミシュランタイヤのおかげでビルヌーブは予選で7番手のグリッドを得ることができた。決勝レース用のタイヤの性能もまぁまぁで、ビルヌーブはレース中3番手にまで上がった。ミシュランよ、やっとF1用のマトモなタイヤを開発したか、という感じだった。

それでも312T5のシャシー性能の低さをカバーしようとして限界ギリギリのドリフトコーナリングを続けていたビルヌーブ。さすがに新しいミシュランタイヤも悲鳴をあげて、やはりタイヤ交換のピットストップをしなければならなかった。それも二度もである。この結果ビルヌーブは予選と同じ7位でゴールした。

ミシュランタイヤの復活ぶりは素晴らしかった。今まで散々な目に遭わされてきたフェラーリチーム。もはやこれ以上我慢ならじ、と判断して来シーズンからはグッドイヤーと契約するつもりでいたらしい。しかし今回の新しいタイヤによって、ミシュランとしてはフェラーリチームの怒りを抑えることが出来、辛うじて首の皮が繋がった感じである。


今シーズン最大のクラッシュ(1980 イタリアGP)

フェラーリの地元イタリアGPのイモラサーキットでは、タイミングよくというべきか、遂にターボエンジン搭載フェラーリ126Cが登場した。ルノーの後を追ってフェラーリも本格的にターボ時代への参入を果たしたのだ。

126Cは予選前のフリー走行で、ビルヌーブによって初走行となった。今シーズンの裏方でテストにテストを重ねてきた126C、思ったとおり今までの312T5よりはラップタイムは上だった。というより、312T5がクズ鉄扱いだったのだから、126Cは普通の性能とも言うべきだろうか。

しかし、出来立てホヤホヤの126Cでさえも、手放しでニューマシンと喜べるほどの性能ではなかった。当然エンジンパワーは格段に上がっていたのだが、312T5の頃のシャシー開発スタッフと同じスタッフだったために、シャシーグリップが今ひとつだったのだ。名門フェラーリの期待に添うだけのシャシー設計・開発技術スタッフが居なかったのである。

それに、126Cはニューマシンなだけにどうしてもセッティングに手間がかかるし、予想し得ないマシントラブルの危険性も含んでいる。こういった理由から、ビルヌーブとシェクターは312T5で予選と決勝レースに挑むことにした。…結果論ではあるが、もし126Cのほうに乗って出走していたら、ビルヌーブもシェクターもあんな事態にはならなかったかもしれない。

予選が始まってから間もなく、シェクターのマシンはトサの超高速コーナーでいきなり後ろ向きになり、そのままの勢いでコンクリートウォールに叩きつけられた。タイヤが充分に温まっていない状態でトサ・コーナーに進入したために起きたクラッシュだった。シャシーグリップの足りない312T5の泣き所がモロに出てしまったのだ。シェクターはしばらく首の痛みを訴えていた。それでもシェクターは首を医療用具で固定して決勝レースに挑んだ。

そして決勝レース5周目、今度はビルヌーブに災難が降りかかった。しかも同じトサ・コーナーだ。ビルヌーブの312T5はトサ・コーナーを時速300km近いスピードで駆け抜けようとした。その時、突然右リアのタイヤがバーストし、ノーズの浮いた312T5はダウンフォースを失い、宙に舞い上がってそのままの勢いで左側からコンクリートウォールにクラッシュ。言わば揚力の無くなった飛行機が地面に叩きつけられるのと同じで、ビルヌーブの312T5の左側のボディワークは完全に千切れ飛んで無くなってしまった。モノコックまでもが激しく歪み、スクラップとなった312T5はコースを完全に塞いでしまい、後続車は障害物回避に必死だった。

ビルヌーブはしばらくマシンから降りることができなかった。このクラッシュで外れた左フロントタイヤが、ビルヌーブのヘルメットを強打したために、ビルヌーブはほんの数十秒間だが視力を失ってしまったのだ。しばし放心状態だったビルヌーブは、そのうちに我に返り、「どうやら助かったようだけど、目が見えない! このままヘタにマシンを降りたらかえって危ない! 仕方が無いから両手をできるだけハデに振り上げて後続車にアピールしよう」と、できるだけのことはした。しかし、体中に激痛が走り、ようやく視力が回復してマシンを降りようとした時も足を引きずるような格好でコース脇まで走っていった(この打撲の痛みが完治するまで三日かかったという)。

今シーズン最大のクラッシュだったにもかかわらず、ビルヌーブがなんとか動けたのは、312T5のモノコックの頑丈さにあった。頑丈さ「だけ」が売りの312T5は、思わぬところで二人のドライバーを守ってくれたのだ。

シェクターは地道に走り、8位でレースを終えることができた。しかしシェクターもビルヌーブも同じコーナーで同じような事故を起こすとなると、イモラサーキットは312T5で走るにはかなり無理があったと言えるだろう。終わったことを言っても仕方が無いが、二人ともニューマシンの126Cで出走していたら、ここまでひどい事故になることは免れたのではないだろうか。

フェラーリチームの考え方として、ニューマシン126Cをこのレースで登場させたのはファンへのサービスであって、実際には126Cは来シーズンから投入する、というものがあった。つまり後の2レースは312T5でいく、というものだ。

しかしこの考え方は、次のカナダGPの予選結果を見てみれば、相当後悔せざるを得ないものとなる。


シェクターの屈辱(1980 カナダGP)

ビルヌーブの母国カナダ。このGPだが、なぜフェラーリチームはさっさと312T5を博物館行きにして126Cをレースに投入しなかったのか、不思議でならない。なんとなれば、信じられないことだが、昨年のワールドチャンピォンでもあり長いキャリアを持つシェクターが予選落ちをしてしまったのだ。シェクターの長いレース人生における、初めての屈辱の予選落ちである。

一方のビルヌーブは、予選でどんなに頑張っても22位というグリッドしか得られなかった。カナダの観客や報道陣は「なぜ未だにクズ鉄312T5なんかで参戦するんだ? 126Cを投入すれば遥か上のグリッドを獲得できただろうに」と首をひねった。ビルヌーブもシェクターも同じ意見だったが、チームの方針なのだから仕方が無い。

こうして、決勝レースを走るのはビルヌーブだけとなってしまった。22位という、ほとんどテールエンダーとも言えるグリッドにマシンをつけたビルヌーブに対して、カナダの観客は、「よくやったぞ。チームメイトが予選落ちする傍ら、そのクズ鉄をよく決勝レースにまで持ってこられたな」と、痛々しいまでの悲壮感を漂わせるビルヌーブに声援を送った。

観客の思いはただ一つだった。ビルヌーブが22位というどん底からどこまで順位を上げられるか、である。ビルヌーブもそれはよく解っていて、優勝に向けて走るという観念は捨てていた。というより、捨てるしかなかったのである。いくら地元カナダとはいえ、クズ鉄312T5で優勝まで期待するのはあまりにも酷である。それは観客のみならず報道陣の誰もが解っていたのだ。

ワールドチャンピォンシップ争いは、アラン・ジョーンズとネルソン・ピケが競っていたのだが、決勝レースのスタートでは二人は互いに接近し過ぎて後続車に影響を及ぼし、後続車は多重衝突を起こしてコースを塞いだために、レースは一時中断となった。

再スタートではジャン・ピエール・ジャブイーユのルノーがコースアウトして壁に激突し、ジャブイーユは足にひどいケガをしてしまった(これが原因でジャブイーユは以後レースから引退するハメになった)。

ビルヌーブはそんな混乱を首尾よく避けて、可能な限りのペースで、スタートからゴールまで一瞬も休むことなく、限界ギリギリのドリフト走行を駆使していた。予選のタイムアタックと同じ状況が実に70周にも及んだ。

二年前のロングビーチGPで第一コーナーから早々にトップに立ったはいいが、中盤のレガゾーニとの接触でリタイアした時、ビルヌーブは陰口を叩かれたものだった。「ビルヌーブはきゃしゃな体つきだから体力が無いんだ。だから序盤は飛ばせても中盤になるとバテて集中力もペースも落ちてしまうんだ」などという陰口だった。

しかし今は、そんなことを言う者は誰も居ない。ビルヌーブの、レースの最初から最後まで全開ドリフト走行をしている様を見た観客は、「あんな陰口を言ったのは誰だ!? 見当違いも甚だしい!」という思いにかられていた。事実、当時の陰口は見当違いだったのだ。ビルヌーブは体力のなさが原因でリタイアするのではなく、あまりにも飛ばしすぎたためにマシントラブルや事故に見舞われたからだ。

そんな昔のことを思い出しながら観客はビルヌーブの順位上昇に見入った。そしてフィニッシュした時はなんと5位入賞である。312T5という絶望的なマシンに乗りながら、22位から5位でゴールするなどとは、誰が見ても信じられない結果だ。

「この5位という順位は優勝にも等しい! 素晴らしいぞビルヌーブ!」と観客は感激の拍手を送った。カナダ国民のひいきが多少入っているとはいえ、ビルヌーブのとんでもない速さは誰もが認めざるを得なかった。

このレースで優勝したアラン・ジョーンズは、今シーズンのワールドチャンピォンを決めた。しかし、観客の拍手と視線はビルヌーブの速さに釘付けとなっていた。そんな光景を見てジョーンズは言った。「ビルヌーブの速さは充分解るけど、僕はワールドチャンピォンなんだよ。お願いだから僕にも拍手を送ってくれ」。


気持ちは来シーズンへと(1980 東アメリカGP)

東アメリカGPでは、ビルヌーブは18位のグリッドからスタートして少しずつ順位を上げていたが、例によって無理をし過ぎてレース後半でスピンアウト&クラッシュし、リタイアとなった。

このレースでF1から引退するシェクターは地道に仕事をこなし、11位でフィニッシュした。少なくとも前回のカナダGPでの屈辱を晴らして、前ワールドチャンピォンの面目を保った。

キャリアの最後まで確実に堅実に走りきるという姿勢を変えなかったシェクターは、ビルヌーブに言った。「ジル、お前も俺やジョーンズみたいにワールドチャンピォンになりたかったら、マシンやタイヤをいたわって走ることを覚えろよ。それにペース配分も考えないと結果は出せないぞ。お前みたいに常にギリギリの全開走行をやっていたらマシンがもたない。それは解っているだろう?」。

ビルヌーブは答えた。「もちろん解っているよ、ジョディ。だけどね、僕は自分の走り方を変える気はさらさら無いよ。何かこう、うまく言えないけど、ジョディのような確実で堅実な走り方をすることは僕にもできるだろうけど、僕の気持ちの中で僕自身に対してそれを許さない何かがあるんだ。全開走行をしない自分が許せない、みたいな気持ちがね。きっとそれが僕の生き方なんだろうね」。

シェクターは「相変わらずだな」とでも言うようにビルヌーブに握手を求め、快く別れを告げようとした。しかし最後にビルヌーブは言った。「来シーズンはターボマシンになるし、ピーキーなエンジン特性を生かして、更にマシンをうまく滑らせる練習をするよ。そういう走りしかしたくないんだ。イタリアGPではひどい事故を起こしたけど、僕は今までの走り方を安全な方向に変える気は全く無いね」。

シェクターはヤレヤレという風に肩をすくめて笑いながら、パドックの奥へと消えていった。

シーズン初頭から持っていた、「このクズ鉄312T5でどこまで速く走れるか、それだけに心血を注げよう」という気持ちと、「事故は僕に何の影響も与えない」という信念は、シーズンを通して全く揺るがなかったのである。

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「ジル・ビルヌーブ列伝 (全文)」


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