◇ジル・ビルヌーブ列伝 (全文)◇


※このページは、「ジル・ビルヌーブ列伝」の全文を収録したページです。1977年から1982年までの各シーズンの内容を1ページにまとめたものです。「ログが重くなってもいいから、全てのシーズンの文章を1ページにまとめた状態のほうが読みやすい」という人のために作りました。「各シーズンごとにページが分かれていたほうがいい」という人は「ジル・ビルヌーブ列伝 (1977年)」からご覧ください。内容は全く同じです。ちなみに、この「ジル・ビルヌーブ列伝」だけはCSSを使っていません。


1977年


前置き

かつてF1の世界を驚愕させたジル・ビルヌーブというF1レーサーについての列伝です。古本屋で買い集めたいろんなモータースポーツ雑誌の記事を元に、当方なりにかなりアレンジして書いています。

彼が活躍していた時期(1977年から1982年まで)は、当方はまだ生まれる前か生まれたばっかりの頃だったので、リアルタイムでの走りを見られなかったのが残念…。最近F1動画サイトにアップされている彼の走りを見て、ファンになりました。

それでは、ジル・ビルヌーブ列伝いきます。


プロローグ

1977年の後半、一人の奇妙な名前のドライバーがF1の世界にデビューした。彼の名はジル・ビルヌーブ。デビューした時に乗ったマシンはマクラーレン。当時のマクラーレンといえば、ワールドチャンピォンとなったジェイムス・ハントが在籍していたチームである。ビルヌーブがF1界にデビューするきっかけを作った人物が、実は、このジェイムス・ハントなのだ。

話は少しさかのぼって、1976年、ビルヌーブがまだF1デビューする前、つまり彼がまだ無名だった時代の話をする。

ビルヌーブの地元であるカナダ国内でレース活動をしていた時期のことであるが、トロワ・リビエールというカナダの公道を閉鎖して作られたサーキットで行われたレースでの出来事について。

このレースには、F1のドライバーも数名招かれていた。アラン・ジョーンズ、ビットリオ・ブランビラ、パトリック・デバイエ、そしてジェイムス・ハント。予選走行では、これらのF1ドライバーを相手に、まだ無名だったビルヌーブは彼らを上回るタイムを叩き出し続けた。それもビルヌーブ独特の、マシンを真横にして走らせるドリフト走行で、時には後ろ向きになりそうなほど(!)マシンを滑らせて、ビルヌーブはトロワ・リビエールの狭い公道サーキットを激しく攻め立てた。

決勝レースでもビルヌーブは、現役のF1ドライバー達を押さえて、2位に10秒の差を付けて優勝したのだ。圧勝である。招待されたF1ドライバー達の誰よりもビルヌーブは速かったのである。この結果に驚いたジェイムス・ハントは、ビルヌーブが非常に速いドライバーで、F1でも充分に通用するドライバーだということを、彼ハントの在籍チームであるマクラーレンのボス、テディ・メイヤーに、強調して報告した。

この知らせを受けたマクラーレンのテディ・メイヤーは、それからビルヌーブに興味を示すことになる。こうして、当時F1ワールドチャンピォン最有力候補だったジェイムス・ハントがビルヌーブの速さを絶賛したことにより、ビルヌーブはF1の世界にデビューするきっかけを掴んだのである。


F1デビューするまでの道のり

前回の話をもう少し詳しく話しておこう。

1976年に行われたトロワ・リビエールでのレースは、「フォーミュラ・アトランティック」という、カナダ国内のシリーズレースのことで、このレースに使われるマシンは、当然のことながらF1マシンの性能とはほど遠いものだった。そしてこのレースでビルヌーブは彼らと全く同じ「フォーミュラ・アトランティック」のマシンに乗っていたのだ。全員が全く同じマシンに乗っているということは、言うまでもない、あとはドライバーのウデのみにかかっているレースだったのだ。

このレースで、まだ全くの無名だったビルヌーブはF1ドライバー達に圧勝した。これがどんなに凄いことかは解るだろう。

ヨーロッパ全土のモータースポーツ雑誌もこのことを大きく取り上げ、この無名の青年がなぜ簡単にF1ドライバー達を完全に打ち負かすことができたのか、ジャーナリスト達はどうしても理解できない様子だったようである。それに対してジェイムス・ハントは、やはりビルヌーブが速いからに尽きるという意見を変えなかった。まさにその通りだったのだ。全員が同じマシンで走ったこととレース結果を見れば一目瞭然である。

それにジェイムス・ハントは自分自身のためにビルヌーブのことを誉めちぎったとも言われている。ハントいわく、「いいかい? よく聞けよ。F1ワールドチャンピォン最有力候補のこの俺が完全に負けたんだぞ。信じられないよ。あのビルヌーブというカナダ人ドライバーはとんでもない才能を持っているに違いない」だった。ハントがビルヌーブを誉めちぎる発言の理由は、ハントが自分の名声とプライドを保とうとしていたことも理由のひとつだと思われる。

来たる1977年シーズンは、いくつかのF1チームがビルヌーブを採用するかもしれないという噂が飛び交っていた。カナダの大富豪ウォルター・ウルフ率いるウルフチーム、バーニー・エクレストン率いるブラバムチーム、そしてテディ・メイヤー率いるマクラーレンチーム。これらのチームのいずれかがビルヌーブを採用するかもしれなかった。

この中でウルフチームについては、ジョディ・シェクターという南アフリカ人ドライバーがウルフに入ることが正式に発表されたので、ビルヌーブがウルフチームに入る可能性は無くなった。また、ブラバムチームのボスのバーニー・エクレストンは、ビルヌーブとは性格的に合わず、とても穏便にはやっていけそうもなかったようだ。ビルヌーブではなく、エクレストンが非常に気難しい性格だったためだ(のちに、拍車をかけるように、このエクレストンはビルヌーブのレースでのクレイジーな走りに対して激しい嫌悪感まで抱くことになる)。

残された可能性がマクラーレンチームだった。1976年のアメリカのワトキンズグレンで、マクラーレンのボスのテディ・メイヤーは、そこで初めてビルヌーブと対面することになる。ビルヌーブはとても小柄で口数が少なく、すごくおとなしい印象をテディ・メイヤーは受けたと思うが、商談は成立し、ビルヌーブは1977年シーズンをマクラーレンのF1マシンで「オプション契約で参戦」という形で走ることが決定した。

オプション契約の内容は、1977年シーズンの後半辺りにおいて、任意的に選ばれた5つのレースに、ジェイムス・ハントとヨッヘン・マスに次ぐナンバー3ドライバーとして走るというものだった。

ビルヌーブが1977年シーズン初頭からすぐにマクラーレンのF1マシンで走れるという好条件は、なかったのだ。1977年の後半になるまで、ビルヌーブはF1ドライバーとしての称号は与えられなかったのである。

まだ1977年のF1シーズンは始まってさえいない。そこでビルヌーブは、1977年の前半は今まで通りカナダ国内で参加してきたフォーミュラ・アトランティックのシリーズに参戦することを決めた。F1で走るのを待ちきれないためか、もどかしい気持ちを紛らわせるために間を持たせるとでもいうのだろうか、おそらくそんな気持ちがビルヌーブにはあったのだと思われる。

この1977年前半でのフォーミュラ・アトランティックレースで、ビルヌーブはいかにも彼らしいクレイジーな走りを見せたのである。攻撃的などという生易しいものではなく、正に「クレイジー」といえる走りを見せたのだ。ビルヌーブがクレイジーな走りを実行した相手は、ケケ・ロズベルグだった(ケケ・ロズベルグは1982年のF1ワールドチャンピォンになっている)。

1977年前半にモスポートサーキットで開かれたフォーミュラ・アトランティックレースで、ケケ・ロズベルグは、ビルヌーブの「優勝に対する執念とクレイジーな走り」をイヤというほど味わわされるのだった。


フォーミュラ・アトランティックでの走り

モスポートで行われたフォーミュラ・アトランティックレースで、ビルヌーブは彼のマシンであるマーチ77Bの到着が遅れてしまったことに不安を抱いた。ろくに調整もしていない未完成なマシンで予選走行に挑まなければならなかったのだ。

それでもビルヌーブは予選で果敢にアタックし、未完成なマシンのテスト走行を兼ねるという荒業をやり遂げた。予選終了間際、ケケ・ロズベルグのタイムを何とか上回るタイムを叩き出し、ビルヌーブはポールポジションを得た。

決勝のスタートではビルヌーブはロズベルグに追い越されたが、ビルヌーブはすぐに真後ろに食らいつき、時折ロズベルグのマシンに並びかけ、挑戦的な突っ込みでホイールをぶつけ、その度に火花が飛んだ。それがずっと続き、何周か回った後、ビルヌーブはロズベルグと一緒に勾配のあるコーナーへ突っ込んだ。イン側がロズベルグ、アウト側がビルヌーブ。両車は接触して放り出された。ロズベルグはコントロールを取り戻して走行を続け、ビルヌーブはロズベルグにはじかれた結果コースアウト。砂ボコリを撒き散らしながらコースに復帰した時には数台に抜かれていて、かなり順位を落としていた。そこからビルヌーブはトップのロズベルグを猛追した。

やがて、ロズベルグのマシンは不運にも故障で止まってリタイアとなってしまったが、ビルヌーブはコースアウトした時の順位の遅れを取り戻そうと死にもの狂いで全開走行を続けた。その結果、なんとか2位でゴールすることができた。

次に行われたエドモントンのレースでもビルヌーブはポールポジションを獲得し、やはりロズベルグと激しい戦いをした。ビルヌーブの走りがクレイジーなのは、このレースでも見かけられた。トップ争いで、ロズベルグのマシンのサイドボディがむしり取られるほど、ビルヌーブはロズベルグのマシンにホイールをぶつけまくったのだ。

その結果ビルヌーブは優勝、ロズベルグは2位だった。ロズベルグがゴールした時のマシンは、ズタズタだった。ロズベルグは、ビルヌーブの「優勝への執念とクレイジーな走り」を痛感させられた。しかしロズベルグはビルヌーブの危険を省みない行動に対しては否定的で、「たぶんビルヌーブは恐怖心というものがあまりないのかもしれない。僕はああいう走りはできない。彼の走りはあまりにも危険すぎるよ。僕には相手のマシンのサイドボディをむしり取るようなクレイジーな走りはできない」というようなコメントをしたことがある。

その後も彼らはいろんなレースでやり合うのだが、そうこうしている内に月日は過ぎ、いよいよビルヌーブがマクラーレンのマシンでF1を走る時期がやってきた。1977年後半に差し掛かってきたのだ。


F1デビューレース(1977 イギリスGP)

ビルヌーブがF1にデビューした時のレースは、イギリスGPのシルバーストーンサーキットだった。そこで彼は予選前の練習走行で、見ている者たちをひやひやさせるような走りを続けた。それは、ありとあらゆるコーナーでビルヌーブのマシンはタイヤから白煙をあげて派手にスピンをしたのだ。

この練習走行での彼の走りを見ていた報道陣やチームスタッフは、始めのうちは、あまりにも荒っぽく危険でせっかちなドライバーだと批判した。しかし、それは浅はかな批判だった。

正確に言うとビルヌーブは「マシンをわざとスピンさせた」のであった。彼はありとあらゆるコーナーにわざとかなりのオーバースピードで突っ込んではスピンをして、その次にそのコーナーを回る時には少しだけスピードを落として進入する。それでスピンしなくなったら次からはそのスピードで入ればいい。…と、このような方法をとっていたのだ。かなり危険な荒業だが短時間でF1マシンの限界を知るためには非常に効果的な方法だった。それに、彼のこの方法をマネできるようなドライバーは一人も居なかった。

彼があらゆるコーナーでスピンしているのはその方法を実行しているからだと報道陣やチームスタッフは知り、それからは特に、彼のスピンから立ち直る時のテクニックに注目した。そのテクニックは、マシンがタイヤから白煙を上げてグルグルとスピンしている最中に「フォンフォンフォン!」とヒール・アンド・トゥを使ってシフトダウンし、マシンが進行方向に向いた瞬間に、何事もなかったかのようにまた全開走行を再開するというものだった。

このテクニックを見ていた者たちは、信じられないという様子だった。何せ他のF1ドライバー達は、超高速でスピンしている最中にマシンの向きを見極めながら冷静にヒール・アンド・トゥを使ってシフトダウンしてまた全開走行に移るというワザは誰もできなかったからだ。それほどまでにビルヌーブは冷静で、感覚が研ぎ澄まされていた。

予選でビルヌーブは更に人々の関心を誘う走りを見せた。F1マシンを横滑りさせて走らせるのはロニー・ピーターソンが有名だったが、ビルヌーブのそれは更に輪をかけたもので、ドリフト最中も決してアクセルは緩めずに全開で、ほとんど後ろ向きになりそうなほどマシンのテールを振り、カウンターステアリングは常にフルロック状態だった。他のカテゴリーのレースならともかく、F1でのこんな走行はそれまで誰も見たことがなかった。そして彼はそのクレイジーなドリフト走行で、初めて乗ったF1マシンで初めて走ったサーキットにも関わらず、予選9位のグリッドを確保した。

決勝レースでは彼のマシンにトラブルが発生し始めた。レース前半彼のマクラーレンの水温計の針がどんどん上がっていたのだ。オーバーヒートの危険性があると判断した彼は、即座にピットインした。しかし皮肉にも、水温計が壊れているだけで、実際の水温は正常だった。それをピットクルーから知らされた彼は、勢いよくコースに復帰。トップグループから脱落してレース結果は平凡なものに終わってしまったが、この不必要なピットインでのタイムロスがなければ、彼はデビューレースにして表彰台に登る可能性をも持っていたのだ。

F1という世界がどんなに厳しく過酷なものかは言うまでもない。この世界で、しかもデビューレースで速い走りを見せ付けたビルヌーブに対して報道陣は、「F1レーシングの新星であり、このレースの主役だった」という賞賛の言葉を記事にして、モータースポーツ雑誌で彼の才能を大きく取り上げた。


意外な人物からの電話

イギリスGPでの走りをF1関係者から認められたにも関わらず、ビルヌーブがF1をマクラーレンのマシンで走ったのは実はこれが最初で最後だった。マクラーレンのボスのテディ・メイヤーは、他の新人ドライバーを1978年シーズンに起用することを決めていたのだ。ビルヌーブはカナダ人だったが、テディ・メイヤーはどうやらフランス人ドライバーが欲しかったらしいといわれている(後にテディ・メイヤーは、ビルヌーブを手放したことをひどく後悔することになる)。

ビルヌーブはテディ・メイヤーから契約を断られ、とても落ち込んでいた。1977年シーズンはまだ残っているのに、F1の世界で何もできない、乗るマシンがない、自分のF1人生には未来がない、と嘆いていた。

彼が焦りを感じていたそんな折、1977年後半も残り僅かという時期に、予想もしていなかったとんでもない内容の電話がビルヌーブの自宅にかかってきたのだった、レーシング界の名門と言われてきたF1チームであるフェラーリ、そのフェラーリチームのボス、エンツオ・フェラーリ本人からの直々の電話だったのだ。エンツオ・フェラーリの言葉は、「ウチのマシンでF1を走ってみないかね?」だった。

その時のビルヌーブの気持ちは、F1界のゴッド・ファーザーとも呼ばれていたエンツオ・フェラーリ直々の電話ということもあり、かなり緊張していた(最初ビルヌーブはあまりの意外さに誰かのイタズラ電話ではないかと疑ったほどだったという)。しかしすぐに冷静になり、イタリアに飛んでいき、フェラーリの本部で契約書にサインをしたのだった。マクラーレンの時のようなスポット契約ではなかった。フェラーリのマシンで1977年後半そして1978年のレースの全てを走るフルシーズン契約だった。この時点でビルヌーブはやっと安心した様子だった。

ビルヌーブはその契約のことを、「フェラーリのF1マシンに乗るというのは、特別なことなんだ。フェラーリのドライバーになることは、それだけでとても名誉なことだ。スーパースターの勲章を貰ったような気分だよ。これはF1関係者の誰もが認めることだよね」と語った。F1関係者の言葉もまさしく彼と同じだった。

こうして、以後ビルヌーブは、F1人生をフェラーリという名門チームで過ごすことになる。


エンツオ・フェラーリの直感

エンツオ・フェラーリがビルヌーブを採用することに批判をする者もたくさん居た。まだまだ未熟で荒っぽく、走りがクレイジーで、しかも無名の青年だからという理由が主なものだった。しかしエンツオ・フェラーリの意見は、ビルヌーブがかつての天才ドライバー「ヌボラーリ」と非常によく似た外見的雰囲気や走り方だから採用した、というものだった。

エンツオ・フェラーリが出した答えは、「ニキ・ラウダがウチのチームに来た時は、彼もまた無名のドライバーだった。ウチでラウダをここまでのドライバーに育て上げることができたのだから、我々にはドライバーを育てる自信がある。ビルヌーブはあのヌボラーリとよく似ている部分があるし、ウチで速いドライバーに育て上げられる可能性は充分にある。だからビルヌーブに賭けてみよう。今彼がどういう状態かと言うような問題ではないのだ。これからの可能性の問題だ」というような内容だった。

ニキ・ラウダがどんなに凄いドライバーかについては何も話さなくてもお解りだろう。彼があれだけの偉大なドライバーにのし上がったのは、無名だったラウダを採用したエンツオ・フェラーリのおかげであると言われている。

話をビルヌーブに戻そう。彼が初めて乗ったフェラーリのマシンは312T2だった。フェラーリのテストコースで勢いよく走り出したビルヌーブは、とたんにコーナーでスピンをした。例の、わざとオーバースピードでコーナーに入り、わざとマシンをスピンさせ、超高速でタイヤから白煙をあげてスピンしている最中に「フォンフォンフォン!」とヒール・アンド・トゥでシフトダウンし、進行方向に向いた瞬間に全開走行を再開するという走りだ。エンツオ・フェラーリは彼のこのテクニックを間近で見て、そのあまりにクレイジーで恐れを知らない攻撃的かつ冷静な走りに、感動の笑いを浮かべていたという。

この時のエンツオ・フェラーリの気持ちは、「やはりビルヌーブを採用したのは正しかった。確かに危険でクレイジーだが、彼は今後大きく成長するドライバーだ」というものだったのであろうといわれている。


母国でのF1初レース(1977 カナダGP)

ビルヌーブがフェラーリで初めて走ったGPは、1977年のカナダだった。彼の母国だ。このレースでは、ニキ・ラウダ、カルロス・ロイテマン、そしてジル・ビルヌーブの3人で出走するということが決まっていたのだが、ラウダはビルヌーブがナンバー3ドライバーで走る・つまりフェラーリが3台走ることについて不満を持っていた。ラウダは既に来シーズンにブラバムチームに入ることが正式に発表されていたのだが、そのラウダの穴埋めとしてビルヌーブが入ること自体はラウダは文句を言わなかった。「どうしてラウダがフェラーリチームを去る前にビルヌーブをナンバー3ドライバーとして入れたのか」ということについて不満を持っていたのだ。ナンバー3ドライバーの管理までピットクルーがまかなえるはずがないとラウダは思ったかららしい。

それに対してフェラーリチームは、「ラウダは既に今年のチャンピォンが決定しているから、目的がなくてただイラついているんだろう」というような返事をしたのだが、この返事がラウダを激怒させた。その返事の直後、ラウダはチームに何も言わずに自宅に帰ってしまって、その瞬間、フェラーリチームと決別・フェラーリチームを離脱してしまったのだ。

このように、レース前にいろいろとゴタゴタがあって、結局カナダGPを走るのはカルロス・ロイテマンとジル・ビルヌーブの2人だけとなった。

予選では、ロイテマンはコースのグリップの低さのために順位を上げられず、またビルヌーブは、彼の312T2が今まで乗っていたラウダ用にアンダーステア気味にセッティングされていたため、彼本来の走り(オーバーステアにセッティングしてテールを大きく振ってフルカウンターステアリングを使ったドリフト走行)ができず、やはり順位を上げられなかった。それにビルヌーブは無理にそのアンダーステアなセッティングのマシンで自分の走りをしようとしてコースアウトし、マシンをぶつけて壊してしまった。そのため、決勝までにメカニック達は必死でビルヌーブの壊れたマシンを修理しなければならなかった。結局フェラーリの2台は、予選結果は全くサエなかった。

決勝では、かなりの混戦でいろんなマシンが接触・コースアウト・スピンなどをしながらコースを荒らしていたが、ビルヌーブはそれに巻き込まれることはなく、冷静にかわしながら走っていた。順位こそサエなかったが、なんとか走行を続けていた。その内にチームメイトのロイテマンのマシンは不調が出始めジリジリと後退していった。

やがてビルヌーブにも不運が訪れた。マリオ・アンドレッティのロータス78(1977年のロータスのマシンは78という名前が付けられていた)のエンジンが火を噴いてオイルをコース上に撒き散らし、そのオイルに乗ってスピンするマシンが続出し、中にはコースアウトしてクラッシュするマシンもあった。

ビルヌーブもアンドレッティのオイルを踏んでスピンした一人だったが、コースアウトはせずに、彼の得意なスピン中のヒール・アンド・トゥで勢いよく全開走行を再開しようと思ったその瞬間、彼の312T2のドライブシャフトが折れてしまったために、彼の母国でのGPはリタイアとなった。

ビルヌーブはその時のことを、「オイルフラッグに気づくのが遅れてオイルに乗ってスピンした。スピンした後についクラッチを急激に繋いでしまったためにドライブシャフトに過大な負荷がかかって折れたんだ。だからリタイアしたのは僕のミスだ」と語った。この態度に報道陣の誰もが驚いた。なぜなら、F1ドライバーたちの多くは、他人が原因(今回はアンドレッティ)でリタイアした場合にはひたすら他人のせいにして自分のミスを一切認めないドライバーが大半だったからで、そういうドライバーたちに報道陣は嫌気が差していたからだ。だからビルヌーブの素直さに驚いたのだった。

しかしビルヌーブは、次に行われるレースで、取り返しのつかないとんでもない失敗をやらかして、世界中の新聞のトップ記事にされるほど、悪名を売ってしまうのだった。それは今でも語り種となっている、1977年の「魔の日本GP」だ。


第1コーナーでの大惨事(1977 日本GP)

日本GPは、富士サーキット(富士インターナショナル・スピードウェイ)で開催された。既にニキ・ラウダはフェラーリから抜けてしまったのは先にも書いたとおりだが、そのラウダの乗っていたカーナンバー11のマシンにビルヌーブは乗っていた。偉大な帝王ラウダのマシン、そのマシンは皮肉にもビルヌーブにとってはこの上なく扱いにくいシロモノだった。

ビルヌーブは語った。「312T2は僕にはとてつもなく扱いづらいマシンだ。同じマシンでカルロス(ロイテマン)が速く走るのが信じられない。一体この312T2で、僕の走り方で、どうやったら速く走れるんだろう…。悩んでしまうよ」

そんな不安を抱えたまま、日本GPの予選は始まった。

富士サーキットの危険性についてカルロス・ロイテマンは語ったことがある。第1コーナーや最終コーナー(まだシケインが設けられていなかった頃である)の危険性は見逃せないし、気が抜けないとのことだった。フェラーリの2台はここでもいいところがなく、不安定な挙動のマシンに悩まされ、ロイテマンは辛うじて予選結果はトップ10以内、ビルヌーブはもっと後ろのグリッドしか確保できなかった。

決勝レースでは、スタート後間もなくマリオ・アンドレッティがクラッシュした。その時のロータスのタイヤがコースに残されてしまい、これをかわそうとしたハンス・ビンダーが高原敬武のコジマ009と衝突してクラッシュ。ビンダーも高原もリタイアとなった。しかしこのクラッシュは、この数周後に起こる大惨事の、ほんのイントロダクションでしかなかった。

ビルヌーブは予選でかなり後ろのグリッドしか確保できなかったため、必死に追い上げをしていた。彼はおそらくかなり焦りすぎていたのだと思われる。コーナーに進入するたびにタイヤからブレーキング・ロックによる白煙が上がった。それに彼は、アンダーステアが激しい312T2をドリフト走行で無理矢理ねじ伏せるようにして真横になってコーナーを抜けていた。それでも上位には追いつけない。不安定な312T2では、これが限界ギリギリのドライビングだった。

そして6周目、大惨事は起こった。

ピット前のストレートを、ロニー・ピーターソンのティレルの真後ろにピッタリとはり付いて走っていたビルヌーブは、第1コーナーのブレーキングでピーターソンをインから抜きにかかった。…おそらくビルヌーブは富士サーキットの第1コーナーの危険な路面状態を忘れていたのだろう。当時の富士サーキットの第1コーナーはとても路面が荒れていて、ブレーキング勝負に出るには極めて危険なコーナーだったのだ。そしてその直後、不安定なブレーキング状態のため、ビルヌーブのフェラーリの左前輪とピーターソンのティレルの右後輪が接触、ティレルはフェラーリに乗り上げられたためリアウイングがもげてスピンしたのみに収まったが、ビルヌーブのフェラーリは、そうはいかなかった。

ビルヌーブのフェラーリは時速250km以上の速度で空に舞い上がった。そしてノーズから地面に叩き付けられたフェラーリ312T2は狂ったようにトンボ返りをうちながら、激しく横転を続けた。コース外のダートに飛び出してもフェラーリはその横転をやめず、ダートの向こう側にあったキャッチフェンスに飛び込んでもまだ横転を続けた。そして、そのキャッチフェンスの向こうは立ち入り禁止区間だったにも関わらず、かなりの観客が居た。その観客が居る場所に横転を続けるフェラーリ312T2が突っ込んだ!

…この事故で、立ち入り禁止区間に入っていたカメラマンが即死。そして、この事故が起こる少し前から「ここは危険だから立ち去るように」と誘導していたコースマーシャルが即死。2人の命が奪われた。他にも多くの人間が、横転するフェラーリ312T2の下で重傷を負った。

やっと横転をやめて止まった312T2は、見るも無残な姿になっていた。タイヤやサスペンションやボディワークなどは全てちぎれ飛んで無くなって、エンジンやミッションまでズタズタに破損していた。辛うじてマトモに残ったのはアルミがむき出しになったモノコックフレームの一部だけだった。しかし、マシンに乗っていたビルヌーブは無傷だった。

すぐにビルヌーブはマシンから降りてピットへと歩いた。この時点では彼は観客が死んだとは知らずに、ただ自分自身に腹を立てていた。自分のブレーキングミスに腹を立てて、むすっとした表情でピットに帰ってきた。やってきた報道陣に囲まれても、これだけすさまじい大事故の直後だというのに、ビルヌーブは眉ひとつ動かさず、全く冷静だった。

普通のF1ドライバーならば、大抵はこれだけの事故の直後はひどく興奮して動揺してしまうものだが、ビルヌーブは平然としてピットクルーに伝えた。「第1コーナーでミスって事故を起こした。僕は見てのとおり無傷さ」。そして彼はぶつけてしまった相手のロニー・ピーターソンのピットへ行き、自分のミスであることを伝え、ピーターソンに謝罪をした。

やがてレース自体は終わったが、もちろんそれだけでは事は収まらなかった。ビルヌーブのマシンの下で死んだ・重傷を負った人間が居るという事実があるのだ。これについて日本の関係者はビルヌーブに激しく質問の嵐を投げかけた。調査も進んだが、結論は、ビルヌーブもピーターソンも悪質なことはしておらず、F1レーシングの規定に沿って走った結果の偶発的な事故だという結論になり、事故の原因のビルヌーブは書類送検をされただけにとどまった。

ピーターソンにも責任が無いとはいえなかった。ピーターソンはビルヌーブのラインを塞ぐような形でコーナーに進入していたのだ。だがこれは6輪車(当時のティレルは6輪車だった)を操るための独特のテクニックだったために、ピーターソンのことも責めようが無かった。いずれにしてもF1レーシングでの事故のひとつと捉えられ、結局2人とも責任は問われなかった。

1977年のF1シーズンはこの日本GPで終了したのだが、この日本GPの第1コーナーでのショッキングな事故シーンの写真は、後日、全世界の新聞のトップ記事を飾ってしまったのだった。


世界中からの非難の声

 

 

…こんな風に、ビルヌーブは世界中のレース関係者たちから非難を浴びた。確かに彼はまだF1の経験はほとんど無かったし、取り返しのつかない大事故を起こして彼の312T2の下で2人の観客が死んだのも事実である。

ビルヌーブが死亡事故を起こしたことについて、彼がいかにも無感情で平然としているかのように世界中のマスコミは騒いだが、実はビルヌーブは、自分の感情を表情に出すことが非常に苦手だったのだ。無感情だと言われるのはその性格のためだったのだ。もちろん死亡事故については彼自身かなりショックを受けていて、相当精神的に落ち込んでいたようである。その彼の精神的な落ち込み具合はエンツオ・フェラーリが一番よく知っていたとも言われている。

そして、今回の事故に関しての記者会見によるエンツオ・フェラーリ直々の言葉は、これはこれで世界中を驚かせた。

ビルヌーブを解雇する気など毛頭無い。彼はまだF1での経験が浅いだけだ。いずれ必ずウチのチームにふさわしいドライバーに成長させる自信が我々にはある。諸君は今回の事故で人が亡くなったことについてかなり感情的に騒ぎ立てているが、過去にもF1でドライバーや観客の死亡事故はたくさんあっただろう。忘れたかね? これがF1レーシングの世界なのだ。諸君は今までのF1レーシングをずっと見てきているのだろう? 違うかね?」

F1界のゴッド・ファーザーによる重く深みのある言葉は、ジャーナリスト達を一括して黙らせた。そして世界中のレース関係者も、ビルヌーブの才能に疑いを持ちながらではあるが、記者会見でのエンツオ・フェラーリの言葉により、ようやく気持ちを落ち着かせたようだった。

そのエンツオ・フェラーリの気持ちに答えるように、ビルヌーブはシーズンオフの最中、フェラーリのテストコースで他のどのF1ドライバーよりも長い走行距離をテストドライブし続けたのだった。一日中コクピットに収まり、食事もロクにせず、設備さえあれば深夜でもテストドライブをしそうなほどの勢いだった。それほど彼は練習に情熱をかけていた。

また、彼のチームメイトであるカルロス・ロイテマンは、例の事故については批判的だったが、ビルヌーブに接する時は意外にも友好的だった。気難しい性格で有名なロイテマンだが、物事に全力で真剣に取り組むビルヌーブのことを気に入った様子だった。こうして、だんだんとチームの中でビルヌーブは家族的な雰囲気で溶け込んでいくことになる。


1978年


フェラーリでの初の完走(1978 アルゼンチンGP)

1978年になり、ビルヌーブがフェラーリでフルシーズンを走る時がやってきた。第1戦はブエノスアイレスで開催されたアルゼンチンGP。ここはビルヌーブのチームメイトであるカルロス・ロイテマンの母国だ。まだフェラーリの新シーズンのマシンはレースには登場していないので、昨年のマシン(312T2)で2人はこのGPに挑まなければならなかった。

それでもロイテマンは予選で奮闘し、フロントローにマシンを置くことができた。一方のビルヌーブは、例によってスピンしまくり、それでマシンとコースの兼ね合いを掴んでいくという荒業をやっていた。相変わらずの方法だったが、昨年と比べると確実にスピンの回数が減ってきていた。これはおそらく、シーズンオフにおける相当な量の走り込みにより、彼にF1マシンを操るカンが養われたのだろうと思われる。

それでも彼はオーバースピードでコーナーに進入してはスピンをした。お得意のスピン最中のヒール・アンド・トゥのリズムも軽快に、タイヤから白煙をあげて立ち直り、何事も無かったかのように全開走行に移る。そのテクニックに観客は声援を送った。「いいぞビルヌーブ!」「いいぞスピン野郎!」という皮肉を込めた声援だったのが問題なのだが。

予選は結果を出さねば何の意味も無い。そんなことは百も承知のビルヌーブは自分なりにアタックし、4列目のグリッドを確保した。決して悪い順位ではない。走行方法は、もう完全に彼の定番になったフルカウンターとフルスロットルのドリフト走行だった。彼はこの走り方が自分でも気にいっているらしく、クレイジーな走り方が好きだったと思われる。

決勝レースでは、彼らしい派手なコースアウトもして順位を落としたが、それでも何とかチェッカーフラッグを受けることができた。順位は平凡なものだったが、フェラーリでの初の完走だった。レースは走りきらねば結果は出ないことはビルヌーブも頭では解っているのだろうが、どちらかというとレース中のアグレッシブな走り方を観客に見せたかったのかもしれない。自分の独特な走り方をみんなにアピールした結果の完走なので、ビルヌーブはとても喜んだ。


テール・ツー・ノーズの基準(1978 ブラジルGP)

ブラジルGPの予選では、ビルヌーブはグリッド3列目についた。決勝ではそこから追い上げをして、地元の英雄エマーソン・フィッティパルディのコパスカーを自力で抜いた。

エマーソン・フィッティパルディといえば、2度もワールドチャンピォンに輝いた男だ。現在とは違い、当時のF1のワールドチャンピォンになるためにはマシンの性能だけではなく、ドライビングテクニック・かけひきの知性・忍耐力が並外れていなければならなかったのだ。当時ワールドチャンピォンに2度も輝くというのは、とんでもなく優秀なドライバーという意味でもあった。そのエマーソン・フィッティパルディを自力で抜いたビルヌーブは、明らかに天賦の才を持っていた

ところが、上位陣に食い込んでいくにつれ、目の前にロニー・ピーターソンのロータスが現れた、この時点で彼らは4位争いをしていたのだが、ビルヌーブはまたしてもピーターソンのテールにぶつからんばかりのぎりぎりの距離まで接近してパスを試みた。コーナーに入った時は接触して両車スピン。ビルヌーブは再走行を続けたが、結局その後コースアウトしてクラッシュ。リタイアしてしまった。一方、彼のチームメイトのカルロス・ロイテマンは優勝した。

ビルヌーブはテール・ツー・ノーズの基準というものを極端に接近した状態とみていた。端から見れば完全にぶつかっているのではないかという状態が彼にとってのテール・ツー・ノーズの基準だった。そのためにピーターソンと接触したものとみられる。昨年の日本GPの時と同じく、ピーターソンはビルヌーブのテール・ツーノーズの基準を恐れていた。


フェラーリ312T3登場(1978 南アフリカGP)

南アフリカGPでやっと、1978年モデルであるフェラーリ312T3がレースに姿を見せた。今までの312T2に比べるとシャープなデザインでダウンフォースもだいぶ得られそうな印象で、ビルヌーブの好みにも合ったハンドリングだった。

決勝ではロニー・ピーターソンがトップを走行。それにマリオ・アンドレッティやパトリック・デパイエやリカルド・パトレーセが続いていた。リカルド・パトレーセはビルヌーブとほぼ同じ時期にF1デビューした男だったが、このレースではトップ陣営の仲間入りをするほど奮闘していた。

その後ろでビルヌーブは走っていたが、追い上げをしている最中、突然312T3のエンジンがブローアップしてオイルを派手にコース上に撒き散らしリタイアとなった。運の悪いことにチームメイトのロイテマンはそのオイルに乗ってスピン・クラッシュしてしまい、その衝撃で燃料に引火し312T3から炎が舞い上がった。すぐにマシンを降りたロイテマンは無事だったが、312T3のデビューレースは散々な結果に終わった。


初めてトップを走る(1978 ロングビーチGP)

アメリカの西にあるロングビーチでのレース。これは正式には「西アメリカGP」というようだが、「ロングビーチGP」という愛称で親しまれていた。ロングビーチの公道を閉鎖して作られたコースで幅は狭いし滑りやすいし、ほとんどのドライバーにとっては走りにくいサーキットだ。しかしビルヌーブは公の場で「公道サーキットは大好きだ」と明言して、実際に彼は公道サーキットでのドライビングがとても得意だった。予選でなんと彼はロイテマンに次ぐ2位についたのだ。

ビルヌーブが公道サーキットを得意とすることを証明する出来事が、決勝レースで、これでもかというほど見受けられた。

スタート直後トップ陣営は激しく接近し合ったのだが、チームメイトのロイテマン、ロータスのマリオ・アンドレッティ、ブラバムのジョン・ワトソンとニキ・ラウダ、これらのドライバー達が第1コーナーに向かってブレーキング競争をしていたその時、第1コーナーのイン側のコンクリート壁ギリギリに、本当に壁にこすれそうなくらいギリギリの位置にビルヌーブはマシンを飛び込ませた。これは感覚が飛びぬけて研ぎ澄まされているビルヌーブにしかできないワザだった。

こうして、他のドライバー達のブレーキング競争を一瞬で出し抜き、ビルヌーブはスタート直後の第1コーナー早々からトップにたったのだ。これには観客や報道陣の誰もが驚いた。「信じられないことだ! 新人のビルヌーブがトップ! ビルヌーブがトップを走っている!」と興奮していたようだった。トップに躍り出た彼を追いかけるのは、カルロス・ロイテマン、ニキ・ラウダ、ジョン・ワトソン、マリオ・アンドレッティ、アラン・ジョーンズ。しかしこれらのドライバーの追従を許さず、ビルヌーブは周回を重ねるごとにどんどん差を広げていき、なんとトップ独走体制に入っていた。

ビルヌーブが公道サーキットを得意と言っていたことに誰もが納得した。並み居る強豪たちをもってしてもビルヌーブの走りには追いつけないからだ。公道サーキットでのビルヌーブの走りは、どんなベテランドライバーよりも優れていた。当時「公道サーキットで速いドライバーは本物」という基準もあったからだ。

レースの実に約半分をトップで独走していたビルヌーブに、やがて周回遅れをパスする時がやってきた。シャドウのマシンに乗るクレイ・レガゾーニが最後尾を走っていた。そのレガゾーニを周回遅れにしようとして、ビルヌーブはシケインの入り口でレガゾーニのイン側に並びかけた。その時、ビルヌーブの右リアがレガゾーニの左リアに接触、皮肉なことにビルヌーブのマシンだけが弾かれて宙を舞い、レガゾーニの頭上を飛び、シケイン脇のタイヤバリアーにクラッシュした。

この瞬間ビルヌーブのロングビーチGPは終わってしまったのだが、クラッシュの直後彼はすぐにマシンから降りて、何事も無かったかのようにピットへと歩いた。1977年の日本GPでの大事故の時も同じだったが、F1数戦目にして初めて走ったトップの座を不本意な接触で失っても、彼は全く冷静だった。レガゾーニに腹を立てたりもしなかった。

レガゾーニいわく「あそこで抜くのはムチャというものだろう。彼は強引すぎるよ」だったが、レガゾーニは自分が遅いということを忘れてはならない。周回遅れにされそうな時は常にラインを意識して譲らなければならないのが規則だ。

他のドライバーやマスコミからも「ビルヌーブはもっと自分自身の焦りを抑えるべきだ」「速さは認める。確かに天才的な速さだが、抜き方が強引すぎる」「クレイジーな追い越し野郎だ」などの批判が出ていたが、その反面、新人がレースの約半分もの周回をトップで独走したことについて、ビルヌーブのF1界での評価は大幅に向上したのだった。


公道サーキットでの天才ぶり(1978 モナコGP)

ビルヌーブが公道サーキットで天才的な走りを見せるのは、モナコの公道サーキットでも同じだった。モナコの公道を封鎖して作られたこのコースが世界一難しいサーキットと呼ばれているのは有名だ。全てのコーナーの性質が異なり、それでいて勾配がキツく、コース幅も極端に狭い。エスケープゾーンなど全くなく、ほんのわずかでも操作を間違えれば即クラッシュ。僅かなミスも許されないという、ベテランドライバーでさえも敬遠するような難しいサーキットだ。

このモナコGPの予選走行でビルヌーブは、観客やコースマーシャルを震え上がらせる走りをこれでもかというくらいに見せ付けた。勾配のキツいコーナーに突っ込んだ時、フルスロットルのフルカウンターステアリングでドリフトしながら、312T3のリヤタイアがガードレール数センチのところまで接近! その状態からマシンを立て直して次のコーナーに向かってまた真横になってドリフト体制で入っていく。このガードレール数センチにまで312T3のタイヤが迫ってきた時には、激走するF1マシンを至近距離で見ることにかなり慣れているカメラマンやコースマーシャルでさえ恐れをなして逃げ出すほどだった。それほどまでにビルヌーブのドリフトコーナリングはクレイジーで過激だった。

こんなワザは誰にも真似はできない。この狭いモナコのコース全てをドリフトしながら、コーナー出口ではガードレール数センチのところでコントロールをする並外れたテクニック、限界ギリギリのゾッとする走りに観客は感動をおぼえた。

観客はこの時点ではまだ知らなかった。こんなとんでもなくアグレッシブな走りをする彼がマシンを降りたら、とても口数が少なく恥ずかしがりやで体もかなり小柄で細身で目立たないということに。走り終えてマシンを降りた彼を間近で見た観客は驚きながらも、彼にサインを求めた。他のドライバーの中にはサインを拒否するような近寄りがたい雰囲気があったが、ビルヌーブはそんなお高くとまっている雰囲気などカケラもなく、気軽にサインをして回った。

モナコでの予選結果は8位だった。F1参戦1年目で初めて走ったモナコのコースとしては悪くはない。それに何しろ決勝レース用にセッティングしてガソリンを満タンに積んだウォームアップ走行では、ビルヌーブのタイムがいちばん速かったのだから。

決勝では、ビルヌーブは5位にまで順位を上げていた。しかし終盤近くに予想していなかった出来事が起きた。逆バンクになっているトンネルコーナーの中で、時速300kmくらい出ている状態で、彼の312T3のサスペンションが突然壊れたのだ。トンネル内でコントロールを失った312T3は左右のガードレールに何度も激しくぶつかりながら滑っていき、トンネルを抜け出た辺りでやっと止まった。312T3は原形をとどめないほど破損していたが、ビルヌーブは無傷だった。

メカニカルトラブルとはいえこれだけの大事故を起こしたビルヌーブに、浅はかなドライバーだとマスコミは非難した。そしてエンツオ・フェラーリが今度こそビルヌーブを解雇するのではないかという噂まで飛び交った。

しかしエンツオ・フェラーリは言った。「諸君はずいぶん無責任で勝手な輩だな。少しでもビルヌーブが何かを起こすとすぐに浅はかだと非難する。特に今回はメカニカルトラブル故の事故だろう。ビルヌーブではなく、そんなことで非難をする諸君のほうが浅はかなのだよ。解雇など、とんでもない話だ。ビルヌーブには今後もずっとウチのチームで活躍してもらう」。

無責任なマスコミが居る一方、他のドライバー達はビルヌーブのことを受け入れてきているようだった。彼が本当に速いドライバーだということ、そして裏表の無い人間であること、レースのかけひきがどこまでも純粋でフェアだからというものだった。


激しいトップ争いを展開(1978 ベルギーGP)

ベルギーGPはゾルダーサーキットで行われた。モナコのコートダジュールのような華やかさはなく、工業地帯の一角に作られた、やや無機質な印象のサーキットだ。ビルヌーブは予選でニキ・ラウダに次ぐ4位のグリッドを得た。

決勝のスタートでは、2位からスタートしたチームメイトのロイテマンがシフトミス。これにより後続車が混乱しクラッシュも起きた。ビルヌーブは冷静にかわし瞬時に順位を上げ、そのままの勢いでトップのマリオ・アンドレッティを猛追した。ビルヌーブとアンドレッティは激しいトップ争いを演じた。アンドレッティのマシンはロータス79という、ダウンフォースをかせぐために開発された最新鋭のウイングカーだった。1978年であるがロータスのマシンは79というネーミングだった。そのロータス79のアンドレッティにビルヌーブは過激な走りで襲い掛かっていった。

激しいトップ争いはしばらく続いた。観客は極度に緊張して息を呑んだ。ビルヌーブがトップ争いをしていると、そのバトルは必ず他の誰よりもスリリングなものになる。それほどまでにビルヌーブは限界ギリギリの走りをするからだ。観客の視線はアンドレッティではなく、ビルヌーブがどういうスリリングな走り方でトップを奪い取るかに注目していた。

しかし、ビルヌーブにトップの座はこなかった。あるコーナーで彼の312T3のタイヤが突然バーストしたのだ。前回は突然のサスペンショントラブルだったが今度はタイヤだった。彼はスピンしたマシンを何とか立て直してピットへ向かった。順位がかなり落ちてしまったが、その後の追い上げで4位でチェッカーフラッグを受け、チャンピォンシップポイントも4ポイントを獲得することができた。初めてのポイント獲得である。タイヤのバーストがなければ表彰台にラクに登っていただろう。それどころか初優勝さえしていたかもしれないレースだった。

このベルギーGPでのアンドレッティとの激しいトップ争いは、純粋なドッグファイトとして語り種になっていった。


チームメイトの大事故(1978 スペインGP)

スペインGPでは、ビルヌーブは予選から決勝までマシントラブルに悩まされた。サスペンション・タイヤ・駆動系・エキゾーストマニホールドなど様々なトラブルが起きて、予選結果も決勝レース結果も満足のいくものは出せなかった。

ビルヌーブよりも更にマシントラブルの影響を受けたのは、チームメイトのカルロス・ロイテマンだった。決勝レースでロイテマンは走行中にドライブシャフトが外れてそれが引き金になり、コースアウトしてキャッチフェンスに突っ込みながら宙を舞い、地面に叩き付けられて止まった。大事故だったが、ロイテマンは軽い打撲で済んだのが救いだった。


ブラバムの「ファン・カー」登場(1978 スウェーデンGP)

スウェーデンでもフェラーリの2台は不調が続いていたが、ここで話題を集めた出来事があった。ブラバムから「ファン・カー」なるマシンが登場したのだ。これはマシンの最後部に巨大なファンを取り付けて回転させ、その状態で走ることにより、シャシー底面の空気を強制的に後ろへと吸い出し、結果的にダウンフォースを強くするという奇想天外な発想のマシンだった。このマシンに乗ったニキ・ラウダがここスウェーデンで優勝した。フェラーリの2台は全くサエなかった。

ブラバムのファン・カーは後続車にゴミや砂を撒き散らす厄介物で、設計的にも不当なものとして、その後禁止される運命となったマシンだったが、ウイングカー時代の本格的な幕開けを象徴するような出来事だった。


タイヤに振り回されるフェラーリ(1978 フランスGP)

フランスでもフェラーリの不調は治らず、タイヤに大きな問題を抱えていた。当時のフェラーリのタイヤはミシュランだったのだが、このミシュランのコンパウンドが曲者で、耐久性に欠けていた。

性能の劣るタイヤのためにロイテマンとビルヌーブは苦戦し、決勝レースでもタイヤ交換のための無駄なピットインを何回も余儀なくされ、決勝レース順位は散々だった。ミシュランの課題は、当時のライバルだったグッドイヤー勢にどうやって打ち勝つかだった。フェラーリはチームとしてなす術がなく、ただ今後のミシュランタイヤの性能アップに期待するしかなかった。


ミシュランのニュータイヤ(1978 イギリスGP)

今まで問題を抱えていたミシュランタイヤが新しいコンパウンドを開発し、イギリスGPに間に合わせた。これでフェラーリチームは一安心といったところだった。サーキットはブランズハッチというサーキット。F1のみならず他のカテゴリーのレースも盛んに行われているサーキットだ。

ここでロイテマンはニュータイヤを履いて優勝。ミシュラン勢の復活を見事に果たした。一方ビルヌーブは、まだ新しいコンパウンドで不安ということもありニュータイヤを選ばず今までのコンパウンドのタイヤを選んだのだが、これがモロに裏目に出た。ビルヌーブが思ったよりもはるかにミシュランのニュータイヤの性能はアップしていたのだ。

ビルヌーブにとっては、新しいことはどんどん試してみることも重要なのだと勉強になった一件だった。


来シーズンへの不安(1978 ドイツGP)

ドイツGPの成績は、ミシュランタイヤがまた調子を崩し、予選・決勝ともに平凡な結果に終わった。ビルヌーブのみが完走し、ロイテマンはリタイア。タイヤ不調だけでなく、2台とも燃料のベーパーロック(燃料がエンジンの高熱のために蒸発し、エンジンパワーが出なくなること)に苦しんだ決勝レースだった。

このドイツGPで、ビルヌーブにとって不安材料となる記者会見があった。それは、ウルフチームに在籍していたジョディ・シェクターが1979年シーズンにフェラーリに移籍する、というものだ。シェクターの移籍については正式に発表されたのだが、ロイテマンとビルヌーブのどちらがフェラーリチームを抜けるのかについては発表されていなかった。

ロイテマンはある程度の結果を残しているし、ビルヌーブは結果は残していないがロングビーチやベルギーで大活躍をして天才的な速さを見せている。あとはエンツオ・フェラーリの判断一つで、それがビルヌーブには不安だった


初めての表彰台(1978 オーストリアGP)

オーストリアGPの決勝は雨だった。雨のF1走行は別に珍しくもなんともないが、ここでビルヌーブには自分の速さをアピールするための条件が揃っていた。雨の走行というのはドライバーのウデがそのまま出ると言っても過言ではなく、雨のレースで速いドライバーは本物だという定説があった(その定説は現在のF1界でも続いている)。

決勝はスタートしてから間もなく突然のどしゃ降りになり、数台のマシンが急変したコンディションに対応できずコースアウトやクラッシュをした。そのためにレッド・フラッグが振られ、決勝は再スタートとなった。

再スタート後、ロイテマンは一度コースアウトしてエンジンストールさせてしまったのだが、コースマーシャルに押し掛けをさせたことがペナルティとなり、失格となってしまった。

予選でかなり後方のグリッドしか確保できなかったビルヌーブは、雨の中をトップに向かって猛追した。時折不安定な挙動も見せたが、レース終盤には、なんとトップグループにまで追い上げていた。雨の中を激走してどんどん追い抜いていき、最終的にトップグループにまで追いつき、チェッカーを受けた時は3位だった。初めての表彰台である

雨のレースでもビルヌーブは速いことを証明したレースだった。同時に、彼への評価が更に向上したのだった。


フェラーリチーム全員の意見の一致(1978 オランダGP)

オランダGPでもビルヌーブは不安定なミシュランタイヤにもめげずに走り、6位入賞。ポイントを獲得した。ロイテマンは惜しくもポイントを取れなかった。ビルヌーブはどんなにマシンが不利な状況でも絶対に諦めない人間だった

オランダGPは、ビルヌーブが抱えていた「来シーズンはフェラーリチームに残れるのだろうか?」という不安を一掃してくれるGPとなった。ジョディ・シェクターが来シーズンにフェラーリに来ることが決まり、そのためにはロイテマンかビルヌーブのどちらかがチームを出て行き、どちらか一人だけがチームに残ることになる。それについてエンツオ・フェラーリは、「ロイテマンかビルヌーブのどちらに残ってほしいか?」という質問をチームの全員にしてみた。そうしたら驚いたことに、チームスタッフの全員が「ぜひビルヌーブに残ってほしい」という意見だった。この全員の意見の一致にはビルヌーブ本人も驚いたらしい。

これでビルヌーブがフェラーリチームに残ることが決定し、契約も1980年まで更新。記者会見でも正式に発表された。


ロニー・ピーターソンの悲劇(1978 イタリアGP)

熱狂的なフェラーリのファンが溢れるイタリアGPは、一種独特の雰囲気だ。これほどF1というモータースポーツに熱狂している国は珍しいだろう。だがその熱狂ぶりは、1978年に限っては、悲しい叫びにしか聞こえないレースだった。

予選でビルヌーブはマリオ・アンドレッティに次ぐ2位のグリッドを得た。チームメイトのロイテマンはトップ10にも入れなかった。フェラーリチームを抜けることが決まってから間も無かったので、意気消沈していたのかもしれない。

決勝のスタートでビルヌーブは見事なスタートを決めて、第1コーナーでトップに躍り出て、観客は大歓声を上げた。しかしその直後、中段グループで多重クラッシュが起きて、ロニー・ピーターソンのロータス78(このレースではピーターソンは79ではなく78に乗っていた)が炎上した。そのために即座にレッド・フラッグが出てレースは中断された。ピーターソンは炎上したロータス78の中に取り残されていた。

ジェイムス・ハントを始めとするクラッシュしたドライバー達が慌ててピーターソンの救出作業にあたり、無事にピーターソンはマシンから救出された。ピーターソンは両足を骨折して痛みに顔をゆがめていたが、意識はしっかりしていたので、他のドライバー達は「とりあえずよかった。命に別状は無いようだから」と、ひとまず安心したようだった。

ピーターソンのことがとりあえず大丈夫だと解ったら、今度は、飛んできたタイヤが頭に当たって意識不明になっているビットリオ・ブランビラのことを心配する人間も多かった。なんとか意識が戻ってほしいと誰もが願っていた。

再スタートではビルヌーブとアンドレッティは勢いがよすぎて、2人ともフライングスタートをしてしまっていた。競技委員から2人にそれぞれ60秒加算のペナルティが出された。それでもビルヌーブとアンドレッティはできる限りの走りをして激しいドッグファイトを展開、観客を興奮させた。60秒加算のために正式な結果は2人とも下がってしまったが、激しい2人の戦いに観客は惜しみない拍手を送った。毎年恒例の熱狂的なイタリアGPの雰囲気だった。

しかし、その熱狂は翌日のニュースで一瞬にして悲しみの沈黙に変わってしまった。ロニー・ピーターソンが死亡したというショッキングなニュースが報道されたからだ。ドライバーや報道陣の誰もが信じられなかった。「最初のスタート時のクラッシュでは両足を骨折したものの、意識はしっかりあった。それなのに、なぜ!?」という声が各所から出た。

医者のミスだったのだ。絶対にあってはならないことが起きてしまったのだ。医者が正しい治療をしていればピーターソンは確実に回復するはずだった。それを知らされた人々は、やりきれない気持ちで悲しみにくれた。もちろん、ミスをした医者はそれ相応の処罰を受けたことは言うまでもない。

一方、意識不明だったブランビラはその後意識が戻った(やがてブランビラは完治した)。

ピーターソンの葬儀にはものすごい数の人々が訪れ、この天才ドライバーの死を悔やんだ。ピーターソンの走りは人気があり、天才的なひらめきを感じさせるものだった。ビルヌーブもピーターソンを見て憧れて育った人間だった。

こうして、1978年のイタリアGPは悲しみの中で幕を閉じたのだった。


つかの間の1-2ランデブー(1978 東アメリカGP)

東アメリカGPは、ワトキンズグレンサーキットで行われた。

予選ではロイテマンもビルヌーブも上位につけ、決勝ではロイテマンがトップを独走。それにビルヌーブが続くという、フェラーリの1-2体制で走行していた。実に理想的な体制だった。しかし、ビルヌーブの312T3のエンジンが突然ブロウアップしてビルヌーブはリタイア。フェラーリの1-2ランデブーはつかの間のものに終わった

ビルヌーブは「仕方が無いよ、これがレースだから」と語ったが、フェラーリのエンジンは信頼性に問題が残っていた。


壊れないでくれと祈りながら走る(1978 カナダGP)

1978年シーズンの最終戦は、カナダGPだ。ノートルダムサーキットという、自然の豊かなサーキット。ここはビルヌーブの母国で、観客は既にビルヌーブの今までの活躍を知っているため、ことさらに応援に熱心だった。

予選でビルヌーブはまたもやクレイジーなドリフト走行を披露した。これは地元ファンへのサービスなどではなく、彼特有の走り方なのだ。そのドリフト走行は今までよりも過激さが更に増していた。コーナーのかなり手前からマシンを真横に向け(ラリーでいうところの直ドリ)その勢いでコーナーに進入し、クリッピング・ポイントからアウト側の縁石ギリギリまで、時には縁石の外側の芝生地帯に至るまでリアのタイヤを振り、コースの幅以上に大胆なラインを描くドリフト走行だ。コーナーのはるか手前から出口までマシンを流しっぱなしだ

ポールポジションは、ロニー・ピーターソンの代役としてロータスにスポット加入したジャン・ピエール・ジャリエが取った。ジャリエはマシンのシートサイズが合わずに走行して背中を痛めてしまい、痛み止めの注射を背中にしていた。2位はジョディ・シェクター、そして3位をビルヌーブが取った。

決勝では、ジャリエは無難なスタートを決めてトップを保ったのだが、2位のシェクターがスタートでミスってマシンをスライドさせてしまい、直後のビルヌーブはこれをかわそうとして若干のタイムロスをしてしまった。このため、ジャリエはしばらくの間トップを余裕で走ることができた。

トップを独走するジャン・ピエール・ジャリエ。その後ろにはアラン・ジョーンズ、ジョディ・シェクター、そしてビルヌーブが居た。周回を重ねていく内に、ジョーンズのマシンはタイヤのエア漏れが出始め、グリップを失ってジリジリと後退していった。また、シェクターは燃料のベーパーロックでエンジンのパワーが出ない状態になっていった。

そんな中、ビルヌーブのマシンは何事も起きず、ジョーンズやシェクターを抜いて2位に上がることができた。それでもトップのジャリエには相当差を付けられている。ここからビルヌーブの猛烈な追撃が始まった

ロータス79は、速い。ビルヌーブのテクニックと312T3をもってしても、ジャリエのロータス79に追いつくことは至難の技だった。それでも決して諦めずにビルヌーブは懸命に飛ばした

やがてジャリエのロータス79に異変が出始めた。オイルプレッシャーが落ちてきていたのだ。エンジンから伸びているオイルのデバイスから少しずつオイルが漏れていて、更にそのオイルがブレーキディスクにまで付着してブレーキの状態までもがどんどん悪化していった。「極めて危険」と判断したジャリエはピットに向かい、そのままリタイアとなった。

その時点でビルヌーブがトップになり、観客は熱狂的になった。しかしビルヌーブのマシンも完璧な状態ではなかったのだ。マシンのありとあらゆる部分から怪しげな音が出ていて、いつどこが壊れてもおかしくない状態だったのだ。ビルヌーブは全神経を注いでマシンをいたわって走った。「頼むから壊れないでくれ! ゴールまで何とかもってくれ!」と祈りながら、アクセルワーク、ブレーキング、シフトチェンジ、クラッチミート、ステアリングの切り込み、どれも慎重に丁寧に操作していた。

ビルヌーブが祈りながら慎重にマシンをいたわって走ったのが幸いしたのか、ゴールラインまで彼の312T3は壊れなかった。ゴールする時、彼は両手を高々と上げて「バンザイ!」のポーズをしてチェッカーを受けた。待ち望んでいたF1での初優勝! しかも母国での優勝である! ウイニングランをするビルヌーブに観客は大声援を送った。

パドックに戻ってきた312T3をたくさんの報道陣が囲んだ。あの偉大なF1ドライバーであるジャッキー・スチュワートが彼にヒーローインタビューをした。ビルヌーブの友人はしきりに「信じられない! 凄い!」という言葉を連発していた。たくさんの賞賛の言葉を受けて、ビルヌーブは完全にトップドライバーの仲間入りを果たしたことに感動したのだった。その顔は感激の涙で濡れていた。

表彰台の真ん中に立ったビルヌーブ。その左右にはジョディ・シェクター、カルロス・ロイテマンが居た。フェラーリチームを去るロイテマンは、「ビルヌーブは今後チャンピォンになれるグレイトなドライバーだ」と賞賛の言葉を与えた。

この優勝を知ったエンツオ・フェラーリは、ビルヌーブを採用したことを心底よかったと思い、これからも更にビルヌーブが成長することを確信した。「昨年彼に初めて会った時の直感は正しかったのだ」とエンツオ・フェラーリは思った。

シーズン最終戦をこの上ない結果で終えることができたビルヌーブは、もう既に来シーズンのことを考えていた。新しいチームメイトとなるジョディ・シェクターとの相性はどうか、新しいマシンはシーズン初頭に間に合うのだろうか、その他いろいろなことを考えて、1979年シーズンに向けて万全の体制を整えるべく準備をしていたのだった。


1979年


余談:1979年シーズン開始前の内輪話

世間一般から言われていた「フェラーリチームは外部からの干渉を受け付けず、とても気難しいチームで、チーム内の雰囲気もきっと完全にドライなビジネスライクな重苦しい雰囲気に違いない」という評価を、ビルヌーブは「とんでもないよ!」と真っ向から否定した。というのも、ビルヌーブが実際にフェラーリチームで約一年間暮らしてみると、そのあまりにも家庭的な雰囲気に囲まれて幸せいっぱいの生活をしていたからだ。

もっとも、これにはビルヌーブだからこその理由がある。もともとフェラーリチームは(今はずいぶん違っているようだが)やはりビジネスライクな重苦しい雰囲気が基本的にあったのだ。それでもビルヌーブが「家庭的で楽しい」と言ったのは、何を隠そう、ビルヌーブがとことん裏表の無い真っ正直な性格のために、エンツオ・フェラーリはもとよりチームスタッフの全員が、その極めて素直で真摯で純粋な態度に心を許し、「ビルヌーブとならどんなことも胸を割って話せる・あいつは本当にいいやつだ・とても仕事が楽しくてやりやすい」という印象を持ったからだ。

もちろんフェラーリチーム自体は言うまでもなく、勝利への執念に燃えて全力で努力するチームで、F1チーム最高のテストコースを持つほどの、優勝への執念と緊張感の固まりのようなチームだが、その職場のムードメーカーとしてビルヌーブが居たために、チームメイトたちは仕事も楽しく続けることができたのだ。まさに理想的なチームの形態だった。

また、ビルヌーブの今年のチームメイトとなったジョディ・シェクターは、ビルヌーブがどこまでも「優勝か無か」という限界ギリギリの走りをするのに対し、あくまでも完走してポイントをかせぐタイプという、対照的なドライバーだった。その意味ではビルヌーブとシェクターはウマが合わないと思われがちだが、実際はとても仲がよく、二人ともマシンの調子が悪くとも不平を言わず、「文句を言うヒマがあったら自分達が原因を究明してチームメイトに伝えて少しでもマシンの状態を良くしていこう」という考えを二人とも持っていたために、尚更二人のウマは合ったのだった。

フェラーリチームがこれほどうまくいっていた時期は極めて珍しい。シェクターはフェラーリチームに入った当初、ビルヌーブのことを過小評価していたようだったが、その考えはすぐに改めざるをえなかった。なにしろ、実際に同じマシンに乗ったときビルヌーブのほうが遥かに速かったからだ。

カーナンバーはシェクターが11番、ビルヌーブが12番すなわちナンバー2ドライバーとなったが、それに対してビルヌーブは何一つ不平を言わなかった。「レースで速ければそれでいいのさ」という、実に単純明快な考えをビルヌーブは持っていて、肩書きなどはどうでもよかったのだ。このあたりにも彼の、ものにこだわらない素直な心がうかがえる。

このビルヌーブの素直な心こそ、彼の速さだけでなく人間性としても観客やジャーナリストたちの好感を得たのだった。それも助けとなって、現在でも彼を賞賛するファンは多いのである。

(さて、内輪話ばかりでは読者の人たちも飽きちゃうでしょうから(笑)、レースの話にいきまーす)


幸先の悪いシーズンのスタート(1979 アルゼンチンGP)

フェラーリのニューマシン(312T4)は、このGPには間に合わなかったため、前シーズンでの312T3で二人とも挑まねばならなかった。ビルヌーブの予選結果は10位で、シェクターも似たようなものだった。

スタート直後に多重クラッシュが起きたのだが、かなり大きなクラッシュだったにも関らず、どのマシンからも出火しなかったのがせめてもの救いだった。

クラッシュによって軽いケガをしたシェクターやネルソン・ピケは出場を断念。フェラーリでビルヌーブだけが決勝の再スタートを切った。しかし焦ったためか6週目にスピン。タイヤを痛めてしまったためにピットインしてタイヤ交換して追い上げを始めたはいいが、今度は彼のマシンをエンジンブローが襲い、リタイアとなった。旧型の312T3で周りのニューマシン群に打ち勝とうとするビルヌーブの意気込みも空回りに終わった


悪いレース結果ながらも、チームは明るい表情(1979 ブラジルGP)

ブラジルGPでは、ミシュランタイヤの性能の悪さのために苦戦を強いられ、ビルヌーブは5位、シェクターは6位という平凡な結果に終わったが、彼らのみならずチーム全体の表情も、レース結果とは裏腹に明るいものだった。なぜなら、いよいよ今シーズンのためのニューマシンである312T4が、次回の南アフリカGPに登場することになっていたからだ。

312T4はウイングカーそのもので、時代に合ったエアロダイナミクスを充分に考慮して設計されたものだ。今回のレース結果はみんな殆ど気にしていないくらいの嬉しい予定だった。

この312T4こそ、ビルヌーブがF1人生の中で最も輝いていた・またいろんな意味で、いかにも彼らしいアグレッシブでクレイジーな走りによる注目を浴びた時期のマシンになるのである。そのことはこの後のレース内容を見ていけばイヤというほど解るだろう。


「醜いアヒルの子」という汚名の312T4(1979 南アフリカGP)

南アフリカGPにデビューした312T4は、そのあまりの奇抜なデザインのために、外部のみんなから「醜いアヒルの子」とののしられた。しかし、実際の性能はずば抜けて優れていた。

ポールポジションはルノーのジャン・ピエール・ジャブイーユが取り、次にシェクター、ビルヌーブと続いた。

ビルヌーブは、「予選で決まったスターティンググリッドの順位のまま、お互いに追い抜きをしない」というチームオーダーをしっかり守っていた。これは彼が「レースは速く走るためのものであるが、あくまでも仕事であるから、オーダーはしっかり守るべきだ」という考えを持っていたからだ。ビルヌーブはどこまでもフェアだった。

にもかかわらず、おそらくビルヌーブの激しい闘争心のためであろう、ジャブイーユとシェクターとビルヌーブはスタート直後から壮絶なるバトルを演じた。ここでもビルヌーブがトップ争いをしているとレースが決まってスリリングなものになることが見られた。彼は二台に接触せんばかりに接近し、ハタから見れば危険極まりない走りのように見えたであろうが、彼はその接近戦を心から楽しんでいた。こういうことから考えても、彼はドライバーというよりは、限界ギリギリのバトルを心から楽しむ根っからの「レーサー」なのである

空模様は雨が降るのかやむのかハッキリしない天気だった。こんな状況では誰でもスリックタイヤに変えるかレインタイヤに変えるか迷うところであるが、シェクターがスリックタイヤを選んだのに対し、ビルヌーブはレインタイヤを選んだ

やがて雨がやんできて、誰もが「ビルヌーブはスリックタイヤにすぐさま変えるだろう」と思ったが、彼はレインタイヤのままで、それこそタイヤが熱でバーストする寸前のギリギリのところまで全開で走りつづけた。イチかバチかの賭けである。

ビルヌーブは、こういうタイプのドライビングだった。すなわち、タイヤをいたわって無難な順位でゴールするか、タイヤをバーストさせるかもしれない危険をおかしてまでも全力でトップを守ろうとするか、ドライバーとしてどちらを選ぶかと聞かれたら、ビルヌーブは迷うことなく危険をおかしてまでも全力でトップを守るタイプだったのだ。彼がドライバーではなく「レーサー」と今でも呼ばれているのは、その「優勝か無か」という姿勢の走りのためである。

それが効を奏したのか、結果的にシェクターは自分のささいなミスでタイヤにフラットスポットを作ってしまいジリジリと後退、ジャブイーユはタイヤ交換の戦略でミスり、思ったようにペースを上げられない。片やビルヌーブは2位以下に42秒の大差をつけて、見事に優勝を飾った。昨年のカナダGPから数えて2度目の優勝である。

ビルヌーブが「レーサー」としての走りをこれでもかというくらいに実行したために勝ち取った優勝の、典型的な例となるレースだった。


南アフリカに続いて2連勝(1979 ロングビーチGP)

ロングビーチGPでは、ビルヌーブは昨年のようなミス(周回遅れのレガゾーニと接触してリタイア)などをすることはなかったが、予選で312T4のフロントをクラッシュして壊してしまった。しかし気を取り直して果敢にタイムアタック。なんと予選の二日間ともトップタイムをたたき出し、堂々のポールポジションを得た。F1で初めての、しかもかなり難しいコースといわれているロングビーチの公道サーキットでのポール獲得である。

いまさら言うまでもないが、ビルヌーブは公道サーキットではずば抜けた速さを見せていた。ガードレールやタイヤバリアに囲まれた、エスケープゾーンなど殆ど無い、まるでクラッシュしてくれと言っているようなコースでもそれをものともせず、むしろ、その危険なコースを楽しむかのように、彼は例によってクレイジーなドリフト走行で、ガードレール数センチのところでマシンをコントロールしていたのだ。

オーソドックスなグリップ走行でさえガードレールに当たらないように気を使って走るのが一般のドライバーだが、ビルヌーブはどんなに逃げ場の無いコースでも完璧にドリフト走行をこなしていた

そのかたわら、ちょっと笑えるエピソードもある。F1で初めてポールをとったビルヌーブは、F1という特別な舞台で、先頭に立ってフォーメーションラップでみんなを引っ張ることには慣れていなかったのだ。フォーメーションラップの途中でロータス80のカルロス・ロイテマンが故障に見舞われ、ピットインしてしまったため、スターティンググリッドのポール位置につけたビルヌーブの真横には、2位のグリッドについているハズのロイテマンの姿は無く、これがビルヌーブを面食らわせた。「どういうことだろう?」と不安になったビルヌーブは、うっかりして、なんとなしにもう一度フォーメーションラップを回ってしまったのだ。いつも冷静な彼らしからぬミスであるが、こういう間の抜けたドジをするのも、却って人間臭くて親近感が沸くというものだろう。

おかげで彼は罰金を食らってしまったのだが、レース的なペナルティは課せられなかったため、ポールから見事なスタートを決め、全く問題なくパーフェクトなポール・トゥ・ウィンを飾った。南アフリカに続いて2連勝である。

このレースの時点で彼はなんと、早々にチャンピォンシップポイント争いで堂々の1位に踊り出たのだ。もはや彼をトップドライバーとして認めない者は誰も居なくなったのは言うまでも無い。


まさかのハットトリック(1979 イギリス・ノンタイトルGP)

次にイギリスのブランズハッチサーキットで行われたレースは、ノンタイトルGPといわれる、順位やポイントに関係ない、タイトル争いとは無関係の特殊なものだった。

ビルヌーブはこのレースでは新型の312T4ではなく、旧型の312T3で参加した。参加メンバーはマリオ・アンドレッティやニキ・ラウダやネルソン・ピケなどのF1ドライバーに加えて、イギリスのオーロラAFXのドライバーも多数参加した。もちろんマシンは全部F1マシンだ。

予選ではビルヌーブは3位につけた。スタートでアンドレッティがミスったため、これをかわしてラウダとビルヌーブがトップ争いを始めることになった。ラウダよりもビルヌーブのほうが遥かにアグレッシブかつ元気一杯で、ほどなくビルヌーブはトップを奪う。そのうちにアンドレッティもビルヌーブへと追い上げてきて一時はアンドレッティに抜かれもしたが、アンドレッティはマシントラブルのためジリジリと後退。難なくビルヌーブはかわして再度トップに立ち、そのままゴールイン。まさかのハットトリックである。

ノンタイトルGPのため獲得ポイントこそ無いものの、ビルヌーブは絶好調で波に乗っていた。

この知らせを受けた、今回のレースには参加しなかったチームメイトのシェクターは、複雑な気持ちだった。ビルヌーブがハットトリックを決め絶好調なのに対し、自分は納得のいく結果をまだ残せていないからだ。それにマスコミいわく、「本来は、フェラーリのナンバー1ドライバーの称号はシェクターではなく、ビルヌーブに与えられるべきではないのか? 戦歴を見ても明らかだろう」というコメントまでするほどで、これがシェクターの焦りをさらに募らせた。

しかし当のビルヌーブ本人は、「僕はあくまでもナンバー2ドライバーだよ。ただ1レース1レースを頑張って楽しんで走るだけさ」という、まるで冷めた言葉を発した。これは謙遜や思い上がりなどではなく、彼の本心だったのだ。ビルヌーブはレースをすること・レースでトップを走ることだけを目指しているのであって、どっちがナンバー1ドライバーかなどということには全く無頓着だったのだ。

ビルヌーブの頭の中には、仰々しい肩書きや名声やマスコミの評判などはどうでもよく、「レースでトップを走りたい。できれば優勝したい」という、レースそのものに対する純粋な闘争心しかなかったのである。彼が真の「レーサー」と呼ばれている理由はここにもあるのだ。


命をかけたタイムアタック(1979 スペインGP)

先に触れたとおり、シェクターはビルヌーブの活躍に対して激しいジレンマを感じていた。ビルヌーブ本人は無頓着だったのだが、シェクターのほうが「自分はナンバー1ドライバーなのに」という、ある種のコンプレックスを抱えてしまっていたのだ。

フェラーリのお家芸のようなもので、ある記者会見で発表があった。それは「どちらか速い・成績を残したほうのドライバーを事実上のナンバー1ドライバーにする」という発表で、これが実にタイムリーに発表されたのは、マスコミの「ビルヌーブとシェクターのどちらがナンバー1か?」という噂に反応するためだった。つまり、今後のレースの成績によっては、シーズン途中でありながらもビルヌーブがナンバー1ドライバーにのし上がる可能性も充分にある、という意味も込められていた。

この発表がされたからには、シェクターはナンバー1ドライバーの意地から、そしてビルヌーブは「純粋に誰よりも速く走りたい・もちろんシェクターよりも速く走りたい」という闘争本能から、二人の間の緊張感は高まった。もちろん良きチームメイトとして仲良くやってはいくが、レースではチームオーダーとは関係無しに火花を散らすということになる。

そんな緊張感の中、スペインGPは始まった。予選では二台の312T4はまるでレースのトップ争いをしているかのように、お互いに激しいタイムアタックを続け、これはこれで観客を熱狂させた。なにしろこざかしいチームオーダー無しに、同じマシンでどちらが速いタイムを出すか、観客はそれのみに集中できるからだ。

この予選でシェクターはプレッシャーのあまり自らミスをした。激しいスピンをして、シャシーやサスペンションまで痛めてしまう始末だっだ。シェクターはマシンにダメージを与えてしまった焦りが怒りに変わって、予選が終わってからはあちこちの物や人間に八つ当たりしてしまう。

この時点で当然ビルヌーブのほうが上のグリッドを獲得し、誰もが「ビルヌーブのほうが速いからナンバー1ドライバーだ」と思った。しかし、決勝レースの前半ではその評価が一時的に、あくまでも一時的にではあるが崩れてしまうのだ。

決勝レースでビルヌーブは例のごとく「誰よりも前を走りたい」という衝動から前を行くロイテマンを無理にかわそうとし、コーナーでこれまたかなり無理なブレーキング勝負に出たのだが、やはりビルヌーブはマシンの挙動を崩してスピンしてしまう。クラッシュ騒ぎにこそならなかったものの、かなりの数の後続車に抜かれてしまい、だいぶ順位が落ちてしまった。このために更に焦ってしまったビルヌーブは、スピン中に追い越されたネルソン・ピケを強引に抜こうとして、やはりスピンしてコースアウトまでしてしまう。前回のレースまではハットトリックを決めていたビルヌーブも、冷静さを欠いて二度も連続でスピンをしてしまっては、もはや勝ち目は無い。それでもコースに復帰する時に派手なスピンターンを決めて――見方によっては怒りのスピンターンに見えたかもしれないが――13位にまで後退してしまったにも関らず、少しでも速いラップタイムを出すことに専念することにした。

この二度のスピンでビルヌーブはある程度開き直ったせいもあって、「どうせ今回は優勝なんてできないんだから、レースの順位がどうなろうとも、たとえクラッシュしようとも、マシンが壊れるまで限界まで飛ばしてやろう」と心に決めたのだった。ビルヌーブは後にピットインをしてニュータイヤに履き替えて気を取り直して、今度はファーステスト・ラップをたたき出すことに集中した。

ただでさえ速いビルヌーブがレース順位を捨ててまで、完全に開き直ってファーステスト・ラップをたたき出すためだけに爆走する様は、それはそれは恐ろしいものだった。毎周毎周、完全に予選での限界ギリギリのタイムアタックをしているに等しかったからだ。予選での本気のタイムアタックの状態がレースを終えるまでずっと続いていたのだ。

こういう、毎周毎周のタイムアタック的な走り方は現在こそ主流になってきているが、当時のF1のマシンの安全性とエンジンやタイヤの耐久性では考えられないほど、あまりにも危険すぎる試みだったのだ。一つ間違えば即エンジンブロー。あるいは大クラッシュで最悪の事態――要するに事故死――も充分にあり得たのだ。だがビルヌーブは全く恐れることなく、毎周毎周ギリギリのタイムアタックを続けた。

一旦ビルヌーブのことを「二度もスピンしやがって、こりゃダメだ」と思った観客の誰もが、今度はそのあまりにもスリリングすぎるタイムアタックにゾッとするような緊張感、いや、殺気ともいうべきものをビルヌーブの走りから感じ取っていた。いつかは派手にエンジンブローを起こすか、あるいは大クラッシュをするかという殺気を観客は感じ取っていたのだ

それまでビルヌーブのスピンを見てせせら笑いしていた観客は、ビルヌーブの殺気立った走りを見て恐れをなし、「うわ…うわぁ…」という唸りしか上げられず、もう誰も微笑することすらできなかった。自然に観客も、純粋にビルヌーブのラップタイムが短縮される光景を追っていた。そういう意味では、ビルヌーブと観客の意識は一つになっていたのだ。観客にとっては今レースで誰がトップを走っているかなどということは、どうでもよかったのだろう。完全に観客の注目の的はビルヌーブのスリリングな走りだったのだ。

しかし、案の定というか、あまりにも飛ばしすぎたために、ビルヌーブの312T4はだんだんとギアボックスが不調になっていった。ついには2速ギアに入らなくなり、ビルヌーブは残りのギアのみで走らざるをえなかった。そのため最後のほうではラップタイムが落ちてしまい、最終的な順位は7位に留まってしまったものの、なんとか完走することができた。しかし、そんな結果などよりもギアボックストラブル前までのスリリングなタイムアタックは、観客にとっての最高のパフォーマンスとなり、レース順位とは関係なく、観客からビルヌーブに惜しみない沢山の拍手が送られた。このレースで、ビルヌーブのスリリングな走りに感情移入する観客が増え、いきおいファンも急速に増えていった。なにしろ、レース後半のビルヌーブの走りは、本当の意味で「命をかけたタイムアタック」と言っても過言ではなかったからだ。

レース前半ではビルヌーブはスピンによる笑いの的、反してレース後半ではタイムアタックによる感情移入の的、こういうレース展開もビルヌーブには珍しいことだった。しかしレース後半の「命をかけたタイムアタック」が観客やジャーナリストやマスコミには充分すぎるほど印象に残り、「純粋に、最も速く走れるドライバー」として、世間から極めて高い評価を得た。当然、今回のレース順位などというものは評価の対象外となり、「シェクターよりもビルヌーブのほうが遥かに速い」という評価が、今まで以上に強く世間に植え付けられた。

こうして、レース中のスピンで一時的に評価が落ちたものの、レースが終わってみれば「やはりナンバー1ドライバーはビルヌーブだ」ということになり、レース前からのビルヌーブへの評価が即刻復活したのは言うまでも無い。


過激な走りの代償(1979 ベルギーGP)

続くベルギーGPの予選第一セッションは雨だった。誰もが第二セッション、第三セッションに備えてクールダウンして走る中、ビルヌーブだけはストレートでもコーナーでも激しく水しぶきを上げ、果敢に攻めていたため、ビルヌーブは暫定ポールを取った。

しかし第三セッションになった頃には雨がやみ、ドライコンディションとなって各車タイムアタックを始めてからは、それまでのビルヌーブの派手な走りも暫定ポールのタイムも、他のマシンたちの中に霞んでしまう。結局フェラーリの履いていたミシュランの予選用タイヤの性能は、グッドイヤー勢に比べて遥かに劣っていたため、ただ雨に助けられていただけという事実が浮き彫りになってしまった。

このベルギーGPのあたりで、わずか2〜3周しかグリップしない予選用タイヤの危険性を、ドライバーたちやF1関係者は訴えていて、予選用タイヤの廃止を呼びかけていたのだが、当時は却下されてしまった。ビルヌーブも「もっとドライバーに安全を」と呼びかけていた一人だった(この3年後に、ここベルギーのゾルダーサーキットでビルヌーブが予選用タイヤの最大の犠牲者になってしまうとは、なんとも暗示的で皮肉なことである)。最終予選結果はビルヌーブが6位、シェクターが7位で、まったくパッとしなかった。

決勝での天気は晴れとなり、ドライコンディションで不利なミシュランタイヤを履いているフェラーリにとっては苦しいレースとなった。トップからパトリック・デパイエ、アラン・ジョーンズ、ネルソン・ピケ、ジャック・ラフィー、マリオ・アンドッレッティと続き、そしてシェクター、ビルヌーブと2台のフェラーリが続いた。2周目のシケインで、フェラーリ勢の間に割って入った形でウイリアムズのクレイ・レガゾーニがシェクターを抜きにかかり、狭いシケインなことも相まってレガゾーニとシェクターは接触、シェクターのマシンはわずかに挙動を乱しただけで済んだが、レガゾーニのマシンはスピンをしてクラッシュし、その直後に居たビルヌーブはモロにとばっちりを食らった

レガゾーニのマシンにビルヌーブのフロントウイングそして前輪が乗り上げ、昨年のロングビーチGPとまったく同じように、ビルヌーブの312T4はレガゾーニのマシンの頭上を飛び越えた。しかしコース脇にはクラッシュせずにコース上に着地。ビルヌーブは「フロントウイングさえ交換すれば何とか走れる」と判断して、急いでピットへと向かい作業を済ませたものの、順位は最下位になってしまった。

幸いレースは始まったばかりで、サスペンションなどの損傷は殆ど無かったので、ビルヌーブは飛ばすことだけに専念できた。ストレートでパワーにものをいわせて抜くのなら緊張感も半減するというものだが、たった一つのコーナーだけでビルヌーブが数台をゴボウ抜きする様は圧巻としかいえなかった。それでもまだ順位はかなり下のほうである。

その後トップ集団の5台がクラッシュ、そして更に6台がマシントラブルに見舞われ、ジリジリと後退していった。そのためビルヌーブの順位が自動的に5位にまで上がった。漁夫の利ではあるものの、それまで数台をゴボウ抜きするほどのすさまじい走りをしていなければ得られない順位である。

ビルヌーブはかつてのフォーミュラ・アトランティックでケケ・ロズベルグに対してやったように、前を行くリカルド・パトレーゼのアロウズに並びかけて激しくホイールをぶつけ、強引に抜き去って4位に上がった。このままいけば表彰台は確実だ。うまくすればトップ争いにも加われるだろう。ビルヌーブを始めとする誰もがそう思った中、トラブルは突然、しかも最終ラップのゴール直前にやってきた。

あまりにも飛ばしすぎたための、ガス欠だったのだ。最終ラップのゴールラインのわずか数百メートル手前で、ビルヌーブの312T4は「シュゴゴ、ゴゴゥ…ボボゥ…」と急激なサージングを起こし、コースをゆっくりと惰性で動いて、遂にはゴールラインの300メートル手前で完全に停止してしまった。それとは対象的に、シェクターはこのレースで勝利を飾った。

飛ばしすぎたためとはいえ、なぜビルヌーブのマシンだけがガス欠になったのか? その疑問の答えは、いかにもビルヌーブらしい理由だった。彼はシフトチェンジする際にアクセルを床まで踏みっぱなしにすることがクセになっていて、路面のバンプでマシンがジャンプする時もアクセルを床から離さなかったのだ。そのためにエンジンは一瞬とはいえオーバーレブし、当然その分燃費も悪くなる。こういうことが原因でビルヌーブのマシンだけがガス欠になったのだった。

優勝者のシェクターは言った。「ビルヌーブは自分の走り方を変えていかなければ勝つことはできないだろう。F1はただ速く走れればいいというものではないし、結果を出さなくては意味が無い。しかし、あの走り方があるからこそのビルヌーブでもある。事実彼はこのレースで誰よりも速いラップをたたき出したのだから」と、批判しているのか認めているのか、シェクターの複雑な心境をよく表したコメントだった。


「破壊の王子」という誉め言葉(1979 モナコGP)

モナコGPの予選では、ビルヌーブはあの狭くて曲がりくねったコースをドリフトさせながらも、観客の表情を読み取れるまでに余裕ができていた。「クレイジーな走りに恐れをなしている観客の表情を見て楽しむ」という意味で、ビルヌーブ自身も「観客」気分でいたのだ。公道サーキットでのビルヌーブは心底レースを楽しんでいるようだった。

しかし、ビルヌーブのマシンは予選で燃料漏れのトラブルがあり、スペアカーに乗り換えたもののセッティングが合わず、シェクターのタイムを超えることはできなかった。なんとか決勝までにはメインのマシンが修理されて間に合ったものの、決勝でのビルヌーブは焦りからスタートでミスをしてしまい、彼の得意技であるスタートダッシュを決めることができなかった。

ビルヌーブは気を取り直して追い上げ、再度トップグループに加わるものの、今度はギアボックスのトラブルに見舞われてしまい、ピットイン=リタイアとなってしまう。

前回のベルギーGPでも触れたように、ビルヌーブの走り方はエンジンをしばしばオーバーレブさせるもので、更にギアボックスにも負担がかかってしまう走り方だった。そのために今回のようなトラブルも、起きるべくして起きたようなものだった。

ビルヌーブはチームスタッフたちから「もっとマシンをいたわって走ってくれ。どんなに頑丈に作ってもお前にかかったら壊れてしまうよ」と言われたのだが、ビルヌーブは自分の走り方を変える気はさらさらなかった。「マシンを壊してもいいから少しでも速く走りたい」という彼の本能が、チームスタッフの言葉を受け付けなかったのだ。スタッフは仕方無しに、更に頑丈なマシンを作らざるを得なくなる。

ビルヌーブのオーバーレブな走り方をよく知っているエンツオ・フェラーリの意見はこうだった。「マシンが壊れるのも、いいではないか。ビルヌーブが運転しても壊れないマシンを作る、すなわち故障が極力出にくい頑丈なマシンを開発することも、これまた重要なことだ。設計者やメカニックの諸君、ビルヌーブが壊したマシンをよく研究して、もろい部分を強化するように、開発・改良に精を出したまえ」。

このように、エンツオ・フェラーリはビルヌーブのことを肯定的に見ると同時に、「ビルヌーブは頑丈なマシン開発に欠かせない。彼は良い意味で“破壊の王子”である」とまで言う始末で、まるでビルヌーブを自分の息子のように可愛がっている様がよくうかがえる。


F1史上に残る伝説の大バトル(1979 フランスGP)

1979年のフランスGP、ディジョン(プレノア)サーキットで行われたレースは、今でも伝説となっているほどのすさまじいバトルがあったレースだ。「ビルヌーブは紛れも無く真のレーサーだ」というイメージを世界中に決定付けさせたほど、印象深いバトルのあったレースである。

その傍ら、かつてワールド・チャンピォンにもなったことのあるジェイムス・ハントが引退する、という出来事があった。ハントは昨年のロニー・ピーターソンの死亡事故で真っ先に救出にあたった人間だったが、その時からハントはF1の世界に恐怖を感じていて、遂にこのフランスGPからはコントロールタワーでのコメンテーターとなり、完全にF1マシンの運転からは引退してしまったのだ。

その昔、ティレルで走っていたジャッキー・スチュワートがチームメイトのフランソワ・セベールの大事故を目の当たりにし、引退を決意した、それとほぼ同じような感覚をハントも抱いていたのだろう。

更に時を同じくして、パトリック・デパイエがハンググライダーの事故で大ケガをするというニュースもあった。デパイエのハンググライダー事故はF1とは直接は関係ないものの、まるでF1界全てが暗く重苦しい雰囲気に包まれたような様子だった。誰もが、人間の命のもろさというものを痛感させられていた。

しかし、このフランスGPは、そんな重苦しい雰囲気など吹き飛んでしまうかのような熱いレースとなった。

予選が始まり、地元フランスのルノーチームの二人、ジャン・ピエール・ジャブイーユとルネ・アルヌーがフロント・ローを獲得し、3位にビルヌーブが並んだ。シェクターは5位だった。

ルノーのマシンは当時初のターボエンジンでパワーに満ち満ちていたのだが、ルノーのターボエンジンはスタート直後やコーナー出口での立ち上がりが悪い、いわゆるターボラグがあり、そこにビルヌーブの勝機があった。

ディジョンサーキットは極めて勾配とコーナーの曲がり具合がキツく、ドライバーの体にかかるGは想像を絶するものだった。そのために多くのドライバーたちはヘルメットをロールバーに固定してGに耐えるという、今でいうHANSのようなものを装着しなければ、レースを完走するだけの体力がもたなかったのだ。モナコのコースなどは中低速コーナーが主体だが、このディジョンは高速サーキットな上にGのかかりが強いので、ディジョンのほうがはるかに大変な疲労度である。

そんなコース条件にもかかわらず、ビルヌーブはスタートから猛烈なダッシュを決め、2台のルノーのスタートでのターボラグを見逃さずトップに立ち、少しのペースダウンをすることもなくトップを走りつづけた。

だが、トップに立ったとはいえビルヌーブの心の中は、決して楽観的なものではなかった。なぜならターボエンジンのルノーはあまりにもパワーがあり、ルノーの2台がストレートでパワーに物を言わせてどんどんタイムを縮め、ビルヌーブのノンターボな312T4に追いついてくる可能性が充分にあったからだ。ジャブイーユは2位につけている。そしてアルヌーはスタートでかなり順位が下がったものの、彼もかなり順位を回復して迫ってきている。この2台のルノーのエンジンパワーはビルヌーブにとって脅威だった

だからビルヌーブはトップに立っている今のうちに少しでもルノーの2台を引き離しておく必要があった。ビルヌーブは予選走行さながらの猛烈なペースで周回を続け、後続をどんどん引き離していった。

しかし、312T4の信頼性自体はそれほど問題は無かったのだが、肝心のタイヤがタレ始めてきた。性能の悪いミシュランタイヤを履いた宿命といえるもので、どんなにエンジンやシャシーが頑丈に改良されていても、タイヤの悪さだけはフェラーリチームにとってはどうにもならなかった。実際、シェクターはタイヤのあまりの不安定さに緊急ピットインまでする始末で、これを見てもビルヌーブが置かれた境遇がいかに苦しいものかが解る。トップを走っているとはいえ、ビルヌーブの走りには余裕など全く無かったのだ。

そしてその時は訪れた。スタートからたった15周しか走っていないのに、もうルノーの2台がビルヌーブの312T4の真後ろに迫ってきていた。パワーの劣るマシンで、更に性能の劣るタイヤで、この2台とトップ争いをしなければならないビルヌーブ。こういう境遇になった時のビルヌーブは更に過激さを増し、走りが殺気立ってくるものなのだ。

観客は極度に緊張していた。地元のルノーチームももちろん応援したいところだが、ビルヌーブがどうやってトップを死守するかにも興味が大いにある。性能の劣るマシンで打ち勝とうとするビルヌーブの勇姿に、観客は国籍の違いなど関係なく見入った。

「絶対に負けるわけにはいかない」。ビルヌーブの心はそれ一つだった。と同時に、どんどんグリップが低下していく貧弱なミシュランタイヤを抱えての全開走行は、一歩間違えればコーナーで横っ飛びして大クラッシュという極限状態にまでいっていた。

312T4が履いているミシュランタイヤの貧弱ぶりは、それはそれはひどいもので、周回を重ねていくごとに、右コーナーでは極度のオーバーステア、左コーナーでは極度のアンダーステアになるという、本当にF1用のタイヤなのであろうか? と疑いたくなるほどのお粗末な性能だった。しかもエンジンパワーでも劣っている。そんなどうにもならないほどの絶望的な状態で、ビルヌーブは全神経を注いで懸命に飛ばした。

しかしビルヌーブの鬼のような走りもマシンの性能差をカバーすることができず、46周目、メインストレートの終わりのほうでルノーのターボエンジンのパワーを頼りに、ついにジャブイーユがビルヌーブを抜いてトップに立った。観客はビルヌーブに対し、「ここまで頑張ってきただけでも充分すぎるほどのパフォーマンスだ。よく頑張ったな、素晴らしいぞビルヌーブ!」という声援を送った。あとはジャブイーユが地元で無事に優勝するのを待つのみである。ビルヌーブのパフォーマンスはここで終わりだ、と誰もが思った

しかし、それはとんでもない勘違いだった。本当のドラマはここから始まったのだ。ジャブイーユに抜かれたビルヌーブは、マシンの性能上どうしても再度抜き返すことができず、2位をキープしていた。それどころかすぐ後ろには同じルノーに乗るルネ・アルヌーが居る。

「まんまとルノーの2台に1−2フィニッシュを譲ってなるものか」。そう決意したビルヌーブは、アルヌーと激しく競り合った。

アルヌーはどことなく、人間的にビルヌーブと似ているところがあった。マシンを降りている時は口数が少なく引っ込み思案で、いざマシンに乗ったらかなりの過激な走りをするというタイプだった。そういう似通った性格のドライバー同士だったために、お互いに一歩も譲らず、激烈な2位争いのドッグファイトがいつまでも続いた。

残りわずか3周というところで、とうとう、アルヌーのルノーがビルヌーブのフェラーリの真横にノーズを滑り込ませ、そのままアルヌーは2位へと順位が上がった。観客は大喜びし、「もう、やっとこれで本当に全てが終わった。ルノーの1−2フィニッシュは決定した」と信じ込んだ。

しかし、ビルヌーブは決して諦めなかった。抜いていったアルヌーのルノーが意外にペースが上がらないことにビルヌーブは気付いた(実はアルヌーのルノーは燃料タンクからの燃料の吸い上げが不調で、わずかなサージングを起こしていてエンジンパワーが上がらない状態だったのだ)。このためにフェラーリ312T4とルノーの性能差はほとんど無くなり、互角の性能のマシン同士となり、2台の2位争いのバトルは果てしなく続いた。

コーナーごとのビデオカメラだけでなく、レースを上空から実況するために、サーキットの上ではヘリコプターが飛び、上空からのビデオカメラで彼らのバトルを実況していた。

第一コーナーでビルヌーブはギリギリのブレーキング競争に出た。フェラーリのズタズタに痛んだミシュランタイヤをバーストさせるかのような激しい白煙があがり、マシンの挙動を乱しながらも、ビルヌーブはアルヌーのインを奪った。しかしアルヌーも負けじと食らいつき、2台はコーナーというコーナーで真横に並び合い、両車は全く横の間隔が無い状態で数え切れないほどホイールをぶつけ合い、その反動であわや2台ともコースアウトかという瞬間もあったほどである。

上空から実況しているヘリコプターのレポーターは、

と興奮していた。まさに、このバトルは今までのF1史上無かったほどの、ハイスピードかつ超接近戦だった。二百数十キロ出ているハイスピードバトルにもかかわらず、2台の間隔はものの数センチも無かった。このバトルでは2台が何度接触してホイールから火花を散らしたか、誰も数えることができないほど接触の多いものだった。

更にアルヌーはコーナーでビルヌーブにぶつけてダートに押し出し、ビルヌーブのマシンは一瞬真横になって姿勢を崩す。アルヌーも姿勢を崩してタイムロスをする。これでバトルは終わりか!? と思いきや、ビルヌーブはダートの土をけたたましく蹴飛ばしながらも再びアルヌーに接近。アルヌーも姿勢を立て直して先のようなバトルがまた繰り広げられた

遂に最終ラップ。ゴールラインの二つ前のコーナーで、ビルヌーブがほんのわずかに前に出ていた。アルヌーは最後のチャンスとばかりに、イチかバチかの賭けに挑み、インとアウトが入れ替わるカウンターアタックで勝負に出た。しかしビルヌーブのコーナリングスピードがわずかに上回っていたため、アルヌーのアタックは失敗に終わり、そのままの勢いでビルヌーブがゴールラインを通過した。ゴール時の両車の差はわずか0.24秒差という、最後の最後まで超接近戦だった。ビルヌーブはこの激烈なバトルに勝ったのだ

フィニッシュの瞬間、レポーターは「ビルヌーブが2位だ! アルヌーは3位…」という、嬉しいやら悔しいやら複雑な心境のトーンの声でレポートしていた。どちらも応援したい、という心境だったのだから無理も無いことである。と同時にレポーターは「二人ともありがとう! 素晴らしいバトルを見せてくれてありがとう!」と叫んでいた。

レースの終盤のわずか数周の出来事だというのに、とてもとても長く感じられた、極度に緊迫したバトルだった。ゴール後のスローダウン走行で、ビルヌーブとアルヌーはお互いに手を振り合い、お互いを祝福しあった。パドックに戻ってきてからも彼らは純粋なバトルを演じた満足感で笑顔に満たされて、彼らのバトルを心から祝福する観客に取り囲まれた。また、これを機会にビルヌーブとアルヌーは仲のいい友人にもなったのだ

このレースで優勝したのはジャブイーユではあるものの、事実上のスターはビルヌーブ、そしてアルヌーだった。それは報道陣や観客の視線や祝福の内容を見れば一目瞭然だった。

ただ、こういうバトルに付き物の批判の声があったのも事実である。他のドライバーたち、特にベテランドライバーたちは「ひとつ間違えば大事故になっていたのに嬉々としているなんて、二人とも危険意識のカケラもない!」と批判し、マリオ・アンドレッティに至っては「ただ単に、二頭の若いライオンが牙を向き合っただけだ。危険極まりないくだらないバトルだ」と批判した。

それに対してビルヌーブとアルヌーは、「僕たちはお互いに怯えなかった。尻込みして譲ることをしなかった。お互いにお互いのウデを信頼し合っていた。だからあのバトルができたんだし、心から楽しむこともできたんだ。あんたらにそれができるかい? あんたらなら、たぶん怯えてアクセルを緩めてしまっていただろうさ」と返事をしてケロッとしていた。実際、彼らのバトルをマネすることなど、他のドライバーにはできなかったのだ。ビルヌーブとアルヌーだからこそできたバトルだったのだ。

エンツオ・フェラーリの言葉は今回の二人のバトルを絶賛するもので、「我々はビルヌーブという、勇気と冷静さを併せ持つ素晴らしいドライバーを持っていることを誇りに思う」とコメントした。

確かに危険なバトルだった。テクニックと勇気と冷静さと判断力、すべてがうまく合わさっていなければできないことだ。しかしそれをやってのけた彼らに対し、マスコミは「まぁ、まだ若いから血の気が多いんだろう。事故にならなかったんだからいいじゃないか」と大目に見て、今回のレースの特ダネ記事ができたことを喜んでいた。実際のレース経験が無いマスコミなど、いいかげんなものである。

後日、モータースポーツ雑誌の「オート・テクニック」誌の見出しで、今回のフランスGPについて「ジャブイーユ&ルノーのフランス革命」という、ジャブイーユが優勝したことだけを伝える、いかにも雑誌の体面を守るためだけのような見出しが載せられていた。しかし実際にレースの現場でビルヌーブとアルヌーのバトルを見た人間から言わせれば、「オート・テクニック」誌のあまりに事務的な苦し紛れの見出しに笑ってしまうほどであった。誰もフランス革命などという言葉には反応せず、ビルヌーブとアルヌーのバトルのことで噂はもちきりだったからだ。

こうして、1979年のフランスGPは「ビルヌーブとアルヌー、伝説の大バトル」として語り継がれていくことになる。


走り方に合わないグランドエフェクト(1979 イギリスGP)

イギリスGPは超高速サーキットのシルバーストーンで行われたが、ここでは312T4のグランドエフェクトの性能が逆にアダになってしまった。サイドポンツーン内部に設けられたウイング機能やサイドスカートの機能が強すぎて、最高速が伸びなかったのだ。ビルヌーブもシェクターもこれには参ってしまったようだった。超高速サーキットで最高速が伸びないのでは話にならない。

フェラーリチームは、フロントウイングとリアウイングの角度をメいっぱい寝かせて少しでもダウンフォースを減らそうと試みたが、それでも最高速が伸びず、結局予選グリッドはシェクター11番手、ビルヌーブ13番手と、かなり悪い位置になった。

しかもビルヌーブの場合は超高速サーキットでもマシンをドリフトさせて走るクセがあったため、ダウンフォースを少なくし過ぎたマシンではハンドリングが不安定で、更に定番のお粗末ミシュランタイヤのせいで、更にハンドリングが悪くなっていた。そのため決勝レースでも思ったように走れず、ビルヌーブの決勝レース結果は予選グリッドよりも悪い14位になった。

これに対してとことんグリップ走行が基本のシェクターは、不安定なマシンをいたわりながらも無難に地味に走り、決勝レースでは5位の結果を得た。ビルヌーブにしてみれば、流行のグランドエフェクトカーもサーキットによって不利になる、と思ったレースだった。


リアウイングの損傷など眼中に無い(1979 ドイツGP)

続くドイツGPはホッケンハイムサーキット。このサーキットは前回のシルバーストーンほどの超高速サーキットではないため、312T4のグランドエフェクト機能が大体マッチングしており、予選はシェクターが5番手、ビルヌーブが9番手だった。

決勝レースではビルヌーブのマシンに異常が出始めた。なんと、ラップを重ねるごとにだんだんとリアウイングの一部が外れかかっていたのだ。当然リアタイヤのグリップがどんどん落ちてきてオーバーステアがひどくなっていった。ビルヌーブはリアウイングの損傷に気付いたもののピットインすることなく、構わずに飛ばした。「たかがリアウイングの損傷ごときでいちいちピットインするのはバカバカしい」とビルヌーブは思ったのだ。

普通ならば、リアウイングの損傷でオーバーステアがひどくなった時点ですぐに緊急ピットインをするのが常識なのだが、ビルヌーブの頭の中にはそんな「安全策」はカケラもなかった。危険をおかしてでもとにかくタイムロスをしないで走る、それがビルヌーブの考えだったからだ。

「僕の走行はドリフトが基本なんだから、リアウイングの損傷なんて眼中に無いよ。リアが派手に流れようが構わないさ。いつものようにフルカウンターを当てればいいだけの話さ」といわんばかりに、かなり派手なテールスライドをしながら、リアウイングが損傷した312T4をあえて放置し、まるでそれを楽しむかのような綱渡り的な走り方を続けた。おまけに、マシンがこんな状態にもかかわらず、ビルヌーブはなんとファーステスト・ラップを叩き出していたのだから恐ろしい。

しかし、やはりというか、リアウイングの損傷がひどくなっていくにつれて、どうしてもコーナリングが不安定になっていき、ペースがだんだんと落ちてきて、レース結果は8位に終わった。もし緊急ピットインをしてリアウイングを修理していたら、もっと悪い順位になってしまっていただろう。

順位はともかく、ビルヌーブがリアウイングの損傷を抱えながらもファーステスト・ラップを叩き出したことに、誰もが驚いたレースだった。


本物のロケットスタート(1979 オーストリアGP)

オーストリアGPのエステルライヒリンクサーキットでは、フェラーリ勢はハンドリングの不調に悩まされ、ビルヌーブの予選結果は5番手、シェクターはもっと後ろのグリッドしか確保できなかった。

「このレースでもフェラーリ勢はいいところがないか」と噂されたが、その噂を一瞬で跳ね除けるようなとんでもない走りを見せつけたのは、ビルヌーブだった。

決勝のスタート直前、グリッド最前列に居るアラン・ジョーンズとルネ・アルヌーは、共にスタートダッシュに集中するべく、「スタートでアルヌーには負けないぞ」「スタートでジョーンズを引き離すぞ」と、彼らは互いにシグナルが青に変わる瞬間を見つめていた。そしてスタート。…しかしジョーンズもアルヌーも全く不意をつかれることになった。はるか後方のグリッド3列目につけていたビルヌーブのフェラーリが一瞬で彼らの横をかすめていったからだ。スタートダッシュでビルヌーブが抜いていったのはレガゾーニ、ジャブイーユ、ラウダ、アルヌー、ジョーンズだった。抜かれた彼らだけでなく観客までもが「一体何が起きたんだ!?」という表情であっけに取られてしまった。まさに本物のロケットスタートと言うにふさわしいビルヌーブのスタートダッシュだったのだ。

決してフライングスタートではなかった。ビルヌーブはシグナルが変わる瞬間を神業のような正確さで読み取り、アクセルを床に踏んづけたまま目にも止まらない速さでシフトアップ、まるでドラッグレースさながらのスタートダッシュだった。

しかしマシンそのものの性能はジョーンズのウイリアムズのほうが上回っていたために、その後間もなくビルヌーブはジョーンズに抜き返されてしまい、ビルヌーブは2位でレースを終えた。

言い換えればビルヌーブはマシンの性能差をスタートダッシュでカバーしたわけだが、性能の劣るマシンでロケットスタートを決めたビルヌーブの恐ろしいまでのテクニックを誰もが味わわされたレースだった。

レース後のインタビューでアラン・ジョーンズは言った。「スタートでは本当に驚いた。てっきりアルヌーが並んでくると思ったらビルヌーブが真横に居るじゃないか! 一体どうやったらあんなスタートができるんだ!?」と。

これはジョーンズの個人的な感想などではなかったのだ。実際、後日のモータースポーツ雑誌で「20年に一度見られるかどうか解らないほどのすさまじいロケットスタート」と、ビルヌーブのスタートのことを絶賛する記事が載せられた。


ピットまでの激烈な三輪走行(1979 オランダGP)

1979年のオランダGPほど、ビルヌーブのクレイジーぶりを印象づけたレースはない。そのクレイジーぶりは派手に新聞のトップ記事にされ、良かれ悪かれ世界中から様々な評価を得たレースだった。

ビルヌーブは予選6位のポジションを得て、決勝では得意のスタートダッシュを決め、レガゾーニ、ジャブイーユ、アルヌーを次々と抜き去った。抜かれた彼らは「誰かと思ったらまたビルヌーブか! かんべんしてくれ!」と絶望的な気持ちになってしまったようだった。それほどまでにビルヌーブのスタートダッシュは素晴らしかったのだ。

間もなく、ルノーのアルヌーがウイリアムズのレガゾーニと接触、レガゾーニのマシンは一つのホイールが吹っ飛んだものの、なんとか無事に停止できた。レガゾーニのマシンはかなりのハイスピードで三輪状態になるという危険な状態だったのだが、レガゾーニはマシンをコントロールして無事に停車し、その場でマシンを降りた。

しかしこのレガゾーニの三輪状態でのリタイアは、この後に起きるショー・ラップのイントロダクションでもあったのだ。

6位からスタートダッシュを決めて2位にまでつけたビルヌーブだったが、彼は前を行くジョーンズのウイリアムズに追いつくまでには10周もかかってしまった。これはマシンの性能差によるものだが、本来ならばまず追いつけないほど、ウイリアムズのマシンのほうが性能が上だったのだ。そのハンデをビルヌーブは鬼のような走りでカバーしながらジョーンズのウイリアムズに追いついていた。これだけを考えても信じがたいことである。

ジョーンズに追いついたビルヌーブは、コーナーのアウト側に並びかけ、かなり無謀なブレーキングでタイヤを激しくロックさせて抜きにかかった。ビルヌーブは一瞬挙動を乱しながらもギリギリの突っ込みでジョーンズを抜き去った。限界走行を見せてトップを奪ったビルヌーブに観客は大声援を送った。

しかし、ビルヌーブがあまりにも激しくブレーキングしたためにタイヤにひどいフラットスポットができてしまったのか、それ以外の原因かは解らないが、ビルヌーブの312T4の左リアのタイヤからだんだんと空気が抜けていってしまったのだ。やがて左リアのタイヤは完全に空気が抜けてグリップしなくなってしまった。そしてビルヌーブは最高速の出るストレートの終わりでいつものようにフル・ブレーキングをしたのだが、三輪状態でのブレーキングでは減速しきれなかった。タイヤ一つ分ブレーキが利かない状態なのだから、減速しきれないのも当然である。

「まずい、進入スピードが高すぎる。このままの状態ではバリアーにクラッシュする」ととっさに判断したビルヌーブは、わざとコース上でマシンをスピンさせて減速をするという芸当をやってのけた。ビルヌーブのフェラーリは派手にグルグルとスピンをしてタイヤから白煙を上げながら首尾よく減速され、バリアーにクラッシュすることなく、コースを背にする状態でコース脇の草地に停まった。

この時ビルヌーブはエンジンまでストップさせてしまったのだが、観客は「どうせリタイアするのだからエンジンが止まっても関係ないよな。今のスピンテクニックは見事だったぞ、よくやったビルヌーブ!」という調子だった。端から見れば、どう見てもビルヌーブがマシンを壊さずに無難にリタイアしたように思えたからだ。「ビルヌーブでもマシンを壊さないでリタイアするような、そういうマシンへの心使いもあるんだなぁ」程度にしか観客は思っていなかった。

だが真相は全く逆だったのだ。ビルヌーブはタイヤ交換をするためにピットまで戻ろうと思って、そのためにマシンを壊さないようにしたのだった。彼は何度も何度もフェラーリのエンジンスターターのボタンを押しつづけ、それでもエンジンがかからないもどかしさから、彼は愛用のGPAヘルメットのシールドをカパッと開けて、スターターボタンを睨みつけながら押しつづけた

やがてエンジンがかかり、ビルヌーブは即座にバックギアに入れてコースまでバックをして戻った。もう、左リアのタイヤはぺしゃんこというよりも既にタイヤの形さえしておらず、ただホイールにゴムの破片がくっ付いているような状態だった。

観客は全員、「ああ、なるほど。タイヤが一つ無いから、極度のスローダウン走行でゆっくりゆっくりピットまで向かって、とりあえずタイヤ交換をして、レースの順位は捨てて完走だけを目指すつもりなんだな」という風に思ったのだが、次の瞬間、観客は呆然とするような光景を見てしまった。

バックしてコースに戻ったビルヌーブは、ギアを1速に入れて、急いでヘルメットのシールドを閉めると、なんといきなりアクセルを全開にしてフル加速に入ったのだ。2速、3速、4速とどんどんシフトアップしていき、ほとんどレーシングスピードといってもいいほどの走りでピットに向かったのだ。左リアのタイヤが無いためにデファレンシャルはLSDが利きっぱなしである。右フロントのタイヤも頻繁に地面から浮いた。であるから、常時マトモにグリップしているのは二輪だけということにもなる。

ビルヌーブはピットまで向かう途中のラップで、三輪状態のためにコーナーでは糸の切れた凧のようにフラフラと限界ギリギリの三輪ドリフト。そしてストレートでは完全にアクセル全開で312T4が出せる最高速を出していた。他のドライバーたちも「なんだ!? なんだあれは!? 奴は正気か!?」という表情でビルヌーブの三輪での全開走行を見ていた。

こんな状態で全開走行をすればマシンがタダで済むハズがない。サイドスカートはおろかサイドポンツーンまで激しく壊れ、左リアに至っては、サスペンションアームの前の部分が外れてホイールが真横を向き、そのホイールが引きずられた状態で路面と激しくこすれて火花を散らし、どんどん原型をとどめなくなっていった。やがてマシンの左リアのフロア部分からも激しく火花が散り、フロアまでもがメチャメチャに壊れ、ビルヌーブのフェラーリは左リア部分がクラッシュしたマシンと同様の状態にまで壊れていった。それでも彼は全開走行をヤメなかった。

観客は、完全に予想を裏切られ、あまりにもクレイジーなビルヌーブの行動に肝を冷やされたのだった。見ている観客のほうが寿命が縮まる思いだったことだろう。

全開走行のままピットまで戻ったビルヌーブは、ピットクルーに「タイヤ交換をしてくれ! 早く!」と告げた。しかしビルヌーブは、マシンが見るも無残な姿に変わり果てていたことを知らなかったようである。真っ青な顔をしたピットクルーから「左リアを見てみろ…」と言われて見てみたビルヌーブは、そこで初めて左リアの激しい損傷に気付いて、仕方なくリタイアを決断した。

ビルヌーブが言うには、「スピンしてエンストした時に、マシンがまだ走れる状態だと思ったから、急いでピットまで戻ってきたんだ。もちろんコースに復帰して少しでも上の順位でゴールするためさ。でも、まさかあんなに壊してしまっていたなんて知らなかったよ。せいぜいタイヤがぺしゃんこになっていてグリップしていないんだと思っていた」ということだった。周りの者達は「三輪状態なのにレーシングスピードで走るなんて、それだけで狂っている! 壊して当たり前だ! 気付いていなかったはずはない!」と怒っていたが、あまりにもレースへの執念が強いビルヌーブゆえに、本当に左リアの損傷に気付いていなかったのかもしれない。

後日、レース雑誌のコメント欄では、マスコミによる賛否両論が出された。

 

 

こんな風にビルヌーブは、マスコミから「勇者」とも「大バカ者」とも呼ばれた。しかし、エンツオ・フェラーリを筆頭とする古くからのF1を知っている者は、過去にローズマイヤーやアスカリが三輪走行をしたシーンとビルヌーブをオーバーラップさせていた。

エンツオ・フェラーリがマスコミに向けた言葉は、「確かにあの行為は危険極まりなかった。だがね諸君、思い出していただける方々もおられるだろう、ヌボラーリがかつて三輪走行をして優勝した事実を。これは、若い人たちに言っても解ってもらえないかもしれないが、あれくらいの執念と熱意を持ったドライバーというのは近年では稀なのだよ。その意味でビルヌーブは貴重なドライバーだ。今回のことで私が彼に罰を与えるというのかね? 貴重なドライバーに罰などは与えられない」という風に、ビルヌーブはお咎め無しになった。

エンツオ・フェラーリは、ビルヌーブの執念に燃えた走りに負けて無罪放免にしたフシがあったのだろうが、マスコミに向けて最後に一言だけ付け加えた。「諸君、このF1の世界には、レースをすぐに諦めてしまうドライバーが居る一方、ビルヌーブのような絶対に諦めることを知らないドライバーが居る。F1の世界にとってありがたいのは、もちろん後者なのだよ」。

この一言に、昔からのF1をよく知っている古い年代の人間たちが静かに頷いた。

残念なことに、今回のリタイア=無得点が原因で、ビルヌーブが1979年のワールドチャンピォンになる可能性はほとんど消えてしまったのだが、当のビルヌーブは落胆することもなく、「今後も、1レース1レースを誰よりも速く走れればそれでいいんだ」と考えていた。


セカンドドライバーとしての自覚(1979 イタリアGP)

イタリアGPは、毎年恒例の熱狂的なティフォシの声援でいっぱいだ。ここでシェクターが優勝すれば彼のワールドチャンピォンが決定する。場所がフェラーリの地元だけにティフォシにはたまらない興奮の、おあつらえ向きのシチュエーションだ。

ビルヌーブにもワールドチャンピォンの可能性が僅かにあったが、このレースを含めた残りの3レースを全て優勝しなければならないという条件付きの、まったくもって絶望的な状況だ。

予選でフロント・ローに並んだのはアルヌーとジャブイーユ駆る2台のルノー。高速サーキットでターボエンジンのパワーを生かした結果である。2列目にはシェクターとジョーンズ、そして3列目にレガゾーニと並んでビルヌーブが居た。

とことんエンジンパワーに物を言わせたルノー、せっかくのイタリアGPの雰囲気が白けてしまいそうなグリッド順位だったが、決勝スタートではシェクターがかなりの集中力を見せてトップを奪った。ビルヌーブもジャブイーユを抜いて、アルヌーに次ぐ3番手となって、ティフォシたちは満足したようだった。シェクター、アルヌー、ビルヌーブという順番がしばらく続いた。

やがてシビレを切らせたアルヌーがターボのパワーを限界以上にまで引き出して、アルヌーはエンジンパワーの助けを借りてシェクターを抜いてトップに立った。しかしこのオーバーテイクがアルヌーにとっての命取りとなってしまう。今で言う「オーバーテイクボタンを何回も使いすぎたためにエンジンが不調になる」という状態になったのだ。アルヌーのルノーはペースが落ちて、あっけなくシェクターとビルヌーブに抜かれた。いくらエンジンパワーがあるといっても、それに頼りすぎてしまっては痛い目にあうといういい例だろう。

これでシェクターとビルヌーブがワン・ツー体制となり、ティフォシは興奮のるつぼになった。しきりに「フェラーリ! ジョディ! チャンピォン! ジョディ!」というシェクターへの声援が続いた。

ビルヌーブはその気になればシェクターを抜くこともできた。事実彼らの距離はほんの1秒以内だった。しかしビルヌーブは自分の立場をよく解っていて、「僕はあくまでもセカンドドライバーに過ぎない。だから今、この状況で僕がやらなければならない仕事は、後続車をブロックしてシェクターの安全を確保すること、シェクターのワールドチャンピォン獲得に協力することだ」という、どこまでもフェアな考えでいた。

ビルヌーブには気持ちの余裕があり、「ただ後続車をブロックするだけじゃ退屈だ。ちょっとショー・タイムをティフォシたちに提供してあげよう」と思って、時折トップのシェクターに並びかけて、今にもトップを奪うような素振りを見せた。それによってティフォシたちや報道陣はヒヤヒヤさせられることになる。

しかしビルヌーブは決してシェクターの前には出ず、並びかけたと思ったらまた下がって…という走りを繰り返した。これはどう見てもティフォシたちへのサービスにしか見えない。その証拠に、このショー・タイムを披露するかなり以前からビルヌーブは「セカンドドライバーとしてシェクターを援護する」というゼスチャーをピットクルーに送っていたからだ。

ビルヌーブは「ただ速く走ればいい」という観念を持ちながらも、セカンドドライバーとしての自覚をしっかり持ち、決して目の前にちらつく優勝の誘惑に負けることなく、2位を走りながら自分の仕事を謙虚にキッチリこなしたのだ。その謙虚なフェア・プレイはティフォシたちから高く評価されたことは言うまでもない。

(ちなみにこの3年後、1982年のサンマリノGPで逆の立場になったビルヌーブだが、彼の生真面目さがアダとなって、チームメイトのピローニに裏切られてしまうとは、なんとも皮肉なことである)

そしてシェクターは無事にトップでゴールして、念願のワールドチャンピォンを決めた。表彰台ではシェクターへの祝福はもとより、ビルヌーブの理性的でサービス精神旺盛な行動にも惜しみない拍手を送った。イタリアGPとしては最高のシチュエーションだった。


晴れて大暴れできることの嬉しさ(1979 ノンタイトルGP)

次に行われたレースは、チャンピォンシップポイントとは無関係のノンタイトルGPで、やはりフェラーリの地元であるディノ・フェラーリ・サーキットで行われた。

ここでビルヌーブは、もうシェクターのサポートをする必要がなく、チームからも「チームオーダーは忘れて好きに走っていいぞ」と言われていた。その晴れて大暴れできることの嬉しさはビルヌーブをよりハイテンションにさせた。

ビルヌーブはそのハイテンションよろしく予選はポールをとり、決勝スタートでも元気よくトップを快走。そしてシェクターは2位につけるという、今度は前回のレースとは逆の配置でのフェラーリのワン・ツー体制だった。

しかし、フェラーリの履いた例の低性能ミシュランタイヤがまたしてもへたってきてグリップが下がり、シェクターはブラバムのニキ・ラウダに抜かれてしまう。

ビルヌーブもラウダに抜かれるかと思いきや、かなりの周回数抜かれなかった。これはグリップの下がったタイヤを逆に利用したもので、「タイヤがタレてきて滑り出したら、あえてそれを武器にしてドリフト走行しまくればいい」という、ドリフトのテクニックが飛びぬけて優れているビルヌーブだからこそできる走りによるものだった。

ラウダも果敢にビルヌーブにアタックしていき、二人の順位は度々入れ替わった。しかしラウダが前を走っている時に彼はブレーキングミスをし、ラウダのブラバムのテールぎりぎりにつけていたビルヌーブはノーズをぶつけて壊してしまう。ビルヌーブは仕方なくピットインしてノーズ交換をし、ファーステストラップを叩き出し続けながらレースを終えた。順位こそ下がってしまったものの、ラウダとのバトルで見せたドリフト走行は観客を大いに惹きつけた。ビルヌーブ本人も「なんだか走ることだけに集中できて、かえってスッキリしたよ」とあっさりしたコメントを見せ、晴れて大暴れできたことを満足していた。


双方対照的な表情の表彰台(1979 カナダGP)

カナダGPはモントリオール・サーキットで行われたのだが、レース期間の前からビルヌーブはヘトヘトになってしまっていた。彼の今までの活躍を知っている地元カナダのマスコミから引っ張りだこで、テレビ出演やイベントでの出演を始め、あちこちに出演させられたからだった。

ビルヌーブは「これにはまいった。体がいくつあっても足りないよ。もちろん地元でこんなに人気が出るのは嬉しいことだけど、これじゃ僕はF1レーサーじゃなくて芸能人だよ。早くレース期間に入ってほしいもんだね。僕は笑顔を売るためにカナダに帰って来たんじゃなくてレースをしに来たんだからね」とこぼした。

それでもマスコミは容赦してくれず、盛んにビルヌーブに出演依頼をした。どんなに疲れていてもそこにファンが居る限り気さくに応対するビルヌーブは断りきれずに、ついつい出演して更に疲れてしまうことになる。

やがてレース期間になり、「やっと開放された。サーキットだけが安堵の場所だ」とビルヌーブは喜んだ。しかしフェラーリ312T4の調子が今ひとつでセッティングがピッタリ決まらずにいた。エンジンやシャシーには問題はなかった。つまりお決まりのミシュランタイヤの粗悪ぶりが原因だったのだ。ここまで長い間フェラーリを不利にしてきた低性能のミシュランタイヤ、さっさとグッドイヤーに乗り換えればよさそうなものだが、グッドイヤーに乗り換えられないフェラーリチームの事情があったのかもしれない。どの道、今シーズンの残りはイヤでもミシュランタイヤで走らなければならないのだ。これはかなりキツいものがある。

このカナダGPで、なんとニキ・ラウダが引退を発表してしまうということがあった。ラウダは1976年のドイツGPでの大事故から見事に復活を果たしたドライバーだったが、だんだんとレースに対する情熱が消えつつあったらしい。また、斬新なデザインのブラバムのニューマシンが発表されて今レースから走ることになり、ラウダ本人が「やっと勝てるマシンに乗れる」と喜んでいたにもかかわらず、実際に走らせてみるとまったくの期待外れの性能だったことも、ラウダの意気消沈に追い討ちをかけてしまい、引退を決意させてしまったのだ。

それはともかくこのレースではビルヌーブが主役だ。観客はビルヌーブのことしか頭にない。

タイヤに問題を抱えた2台のフェラーリは、予選で見事にウイリアムズのアラン・ジョーンズに負けてしまった。とはいえ、ポールポジションがジョーンス、そして2番手にビルヌーブという状況なので観客の期待と緊迫感はそのまま保たれた。シェクターはずっと後ろのグリッドしか確保できなかったが、シェクターの表情は「チャンピォンも獲得したし、あとは気楽にシーズンを走りきろう」という印象でリラックスしていた。

そして決勝のスタート。2位につけていたビルヌーブは超人的なスタートダッシュを見せてジョーンズを抜き、スタート早々からトップに立った。

ビルヌーブのスタートダッシュが速いのにはいろんな理由がある。まるでドラッグレースのマシン操縦のように、シフトアップする時にアクセルを戻さないという、オーバーレブ承知の危険な方法。そして自分がフォーメーションラップでわざとホイールスピンさせて作ったタイヤのブラックマークの上に自分のタイヤを置き、スタートでのグリップを少しでもよくする方法である。しかし彼の集中力とテクニックがあって初めて有効になる方法なので、結局このスタートダッシュはビルヌーブにしかできないことになる。

ビルヌーブの真後ろに張り付いているジョーンズのウイリアムズは、明らかに性能ではフェラーリを上回っていて、シャシーだけでなくタイヤの性能でもかなり有利な立場に居る。にもかかわらずジョーンズは、いつまでたってもビルヌーブを抜けずにいた。ビルヌーブがコーナーというコーナーでマシンをドリフトさせて横を向き、完璧なブロックをしていたからだ。こういう形のブロックは正当なレーシング・テクニックであり、性能の劣るマシンで行うのは至難のワザである。それをビルヌーブは全てのコーナーで平然とやってのけて周回を重ねていた。まるで機械のように、毎周毎周正確にである。

このブロックテクニックにはジョーンズも困ってしまった。ジョーンズは「ビルヌーブがいつかミスをするのを待とうか」とも思ったが「いや、超人的な集中力を持つビルヌーブのことだ、こういう逆境に置かれた時は、ヤツは絶対にミスなんかしやしない。ミスを待っていたら僕は2位のままで終わってしまう! 何とかしたい!」と切羽詰っていた。

そこでジョーンズは作戦を変え、レースの終盤まで極力マシンをいたわって走り、パワーを温存することにしたのだ。ビルヌーブのスリップストリームから外れてあおるようなことはヤメて、じっと我慢しながらスリップストリームで引っ張ってもらうことにしたのだ。こうすればマシンは終盤までかなりパワーを温存できるので、「終盤でマシンのパワー差を頼りに抜けるかもしれない」とジョーンズは思ったのだ。

ジョーンズの作戦は成功した。終盤近くになって、ジョーンズはあるコーナーからの立ち上がり加速を利用してビルヌーブに並びかけ、それほど長くはない次のストレートでパワーに物を言わせて僅かにビルヌーブを引き離したのだった。

しかしそんなことで諦めるビルヌーブではない。ビルヌーブは激烈なドリフト・コーナリングを駆使して、挙動が不安定なマシンながらもジョーンズにぴったりと張り付き、今にもノーズがぶつからんばかりの距離で迫った。だが今まで存分にマシンを温存してきたウイリアムズを抜くには至らず、今度はビルヌーブがジョーンズのミスを待つかしかない状態になった。

どんなに集中力とテクニックがずば抜けているビルヌーブでも、マシンの大きな性能差まで覆せるほどF1は甘くない。しかもジョーンズは終盤の追い抜きに賭けていて、「この後も決してミスをするまい」と集中していた。

ゴールラインまで2台はまるで牽引フックで繋がれたような状態だったが、ジョーンズは最後の最後までミスをすることなく優勝を飾った。

表彰台で2位に立ったビルヌーブは悔しさの表情はほとんど無く、むしろ爽快な表情をしていた。「やれるだけのことはやった。これがレースだ。でもなんだか物足りない感じだなぁ。まだまだ全開走行ができるだろうな」とビルヌーブは思っていたのだ。

しかしジョーンズのほうは疲れきった表情で語った。「もう、本当にカンベンしてくれよ。どんな逆境に置かれても冷静でタフだし、あんなクソタイヤ(フェラーリの粗悪なミシュランタイヤのこと)を履かされても、絶対に最後まで諦めないんだからな。辛うじてトップに立てた僕の身にもなってくれ。一瞬でもミスをすればもう僕には優勝のチャンスは無かったんだから。あれじゃ一瞬足りとも集中力を切らせなくて、今はもうヘトヘトだよ」。そう言ってジョーンズは、疲れきった様子でビルヌーブの腕を掴みあげて祝福した。

マシンの性能差や表情を見るに、もしかしたら、精神的にはビルヌーブのほうがラクに優勝しているのかもしれない。そういう印象を受ける表彰台だった。


11秒もの大差(1979 アメリカGP)

最終戦となるアメリカGPはワトキンズグレン・サーキットで行われた。予選第一セッションは大雨となり、どのドライバーもコースに走り出るのを敬遠していた。走るには走るが、あまりにもひどいどしゃ降りのために、かなり安全マージンをとって走らないと即コースアウトしてしまう。各ドライバーは慎重に慎重に第一セッションを走っていた

そんな中、ビルヌーブだけは全く違っていた。彼は勢いよくコースに出ると、お構いなしにアクセルを全開にして、ものすごい勢いで水しぶきを上げながら走っていた。まるで革靴を履いてスケートリンクを駆け足で走るようなコース状態なのに、ビルヌーブはコーナーというコーナーを真横になって走り抜け、川になったコーナーの水を弾き飛ばしながら激走していた。

ビルヌーブは無理にこんなことをしているのではなく、心から楽しんでスケートリンク状態のコースを華麗に「滑って」いたのだ。その結果予選第一セッションのタイムは、ビルヌーブが2位のシェクターに11秒もの大差をつけるという、各車同じコンディションの予選では考えられない結果が出た。暫定ポールとはいえ、報道陣の誰もが「神業だ! こんなタイムを出すなんて、しかもヤツは楽しみながら余裕で走っているなんて、信じられない!」と叫んでいた。

そんな報道陣の声を聞いていたジャック・ラフィーは、「あれがビルヌーブなのさ。彼はね、僕たちとは全く別の世界に居るんだよ。もう言葉では表せないよ。あのコーナリング・テクニックは既に芸術の域に達していると言っても過言じゃないね」と言った。

第二セッションの天気は晴れになって、ビルヌーブはミシュランのドライタイヤの貧弱さに悩まされることになる。ドライコンディションではタイヤの弱点がモロに出るのだが、それでもビルヌーブは何とか最終予選3位のグリッドを手に入れた。

しかし決勝レースの前にいきなり激しい雨が再び落ちてきて、各チームは慌ててレインタイヤに交換。そしてこの雨はビルヌーブにとっては当然、絶好のチャンスとなる。

ビルヌーブはスタートダッシュでネルソン・ピケを難なく抜いて、更にトップのジョーンズに第一コーナー早々から襲い掛かった。勢いがよすぎたビルヌーブは片方のタイヤ2つをダートにはみ出させて挙動を乱すが、それでもアクセルを緩めずにジョーンズを抜いて、1周目からトップに立ち、30周以上もトップを保っていた。それでもジョーンズは速く、ビルヌーブに遅れてなるものかと意気込んで食らい付いて行った。とうとうビルヌーブとジョーンズは他のマシンたちを全て周回遅れにしてしまうほどの速さだった。

ワトキンズグレンの雨は実に気まぐれだ。決勝レースの中盤あたりで雨がやみ始め、各車次々とドライタイヤに交換するためにピットイン。ビルヌーブのタイヤ交換は無事に終わったが、ジョーンズのほうはアンラッキーとしかいえない結果になる。

ジョーンズのマシンはピットアウトしたとたんにホイールが外れてしまったのだ。ピットクルーが焦っていたために、ホイールナットを充分に締めなかったのが原因だ。とぼとぼとピットに戻ってきたジョーンズに、ピットクルーは「すまない。ビルヌーブがあまりにも速いから、こっちもタイヤ交換に焦ってしまって…ナットをよく締めなかったようだ」と言った。ビルヌーブの鬼のような走りが、ウイリアムズのピットクルーのミスまでをも誘ったのかもしれない。

その結果ビルヌーブは優勝。シーズンの最後をまたしても優勝で締めくくることができて、ビルヌーブは満足していた。

ジョーンズと同じくシェクターもホイールが外れてリタイアしたのだが、シェクターの312T4は間違ってもビルヌーブのような3輪走行はしなかった。もちろんジョーンズやシェクターの判断のほうが遥かに一般的なのだが。

今シーズンを振り返ってみれば、ワールドチャンピォンになったのはシェクターだが、シェクターに僅か4ポイント差でチャンピォンシップ2位につけたビルヌーブは、ポイント差だけを見れば実に惜しいシーズンだったとしか言いようが無い。しかし、各レースで見せた激烈な走りは、本物の「レーサー」として、また他のドライバーたちに対する「脅威」として人々の記憶に深く深く残った。1979年のシーズンは、ビルヌーブにとって最も恵まれていた時期であり、一段と評価が高まった時期でもあった。

こうして1979年シーズンは幕を閉じた。

しかし、ビルヌーブへの評価が更に高まるのは、実はこの後1980年シーズンのフェラーリ低迷期からで、そのひどい逆境における神業のような走りを人々から評価されることになるのだった。更なる逆境と試練が待っていることなど、今のビルヌーブ自身知る由もなかった。


1980年


前置き:「事故は僕に何の影響も与えない」という信念

1980年シーズン開始までのシーズンオフ最中に、ビルヌーブは今までのF1戦歴について、ジャーナリストのインタビューに答えたことがある。

 

 

事故を全く恐れないビルヌーブの信念は、昔初めてレースに出場した時から変わらなかった。レースの結果を優先するのではなく、レース中のスピードやタイムアタックやバトルに集中することこそが、彼の喜びだったからだ。その結果優勝することもあれば、クラッシュでリタイアすることもある。ビルヌーブのようなタイプのレーサーには、「優勝か無か」「優勝がダメならエンジンブローか大クラッシュ」という表現がよく似合う。

ビルヌーブには少なくとも表面上に現わす恐怖心が殆ど無いということになるが、それを裏付けるエピソ−ドがある。今シーズンも同じくチームメイトとなっているシェクターをビルヌーブが自家用ヘリコプターに乗せた時のことである。もちろん操縦はビルヌーブで、かなりの高度を飛行中にインパネの警告ランプが点滅し出した。シェクターがおそるおそる「ジル、これはなんだ? 何の警告ランプなんだ?」ときいたところ、「バッテリーが加熱して破裂する危険性がある、そういう意味のランプだよ。バッテリーが破裂しちゃったら墜落しちゃうよね」と平然と答え、次の瞬間ビルヌーブはなんとエンジンを切ってしまった。当然揚力を失ったヘリコプターはものすごい勢いで落ちていく。シェクターは「もうダメだ! もう死ぬ! もう終わりだ!」と半狂乱になっていた。ところがしばらく急降下した後、ビルヌーブは再びエンジンをかけてゆっくりと上昇していく。そんなことを数回に渡って繰り返した。ビルヌーブに言わせれば少しでもバッテリーを冷やすための行動だったらしいのだが、シェクターの肝はバッテリーよりも遥かに冷えたようで、「ジルには恐怖心が全く無い! 二度とジルの操縦するヘリになんて乗るものか!」という決意をシェクターはした。

もう一つのエピソードは、イタリアンレッドにペイントされたビルヌーブの自家用車フェラーリ308GTSにシェクターが初めて同乗した時のこと。混雑していて殆ど車の切れ目の無い高速道路を、ビルヌーブは時速220キロ以上のスピードで車の流れを目にも止まらない速さでジグザグ走行をしながらすり抜けていたのだ。その時、前を走る大型車がいきなり進路変更をしてきて308GTSの目の前をふさぎ、どう見ても308GTSが激しく追突してしまう状況になった。シェクターは両目を覆って、もはやこれまでと観念した。だがビルヌーブは少しも動揺せずにサイドブレーキを引いて瞬時に308GTSを真横に向け、ラリーでいう「直ドリ」状態のまま、ドリフトによる減速でこれを回避した。大型車のリアバンパーすれすれに308GTSのサイドボディが迫りながらも、ビルヌーブは余裕の表情を浮かべていた。目的地に着いて308GTSを降りたシェクターは「二度とジルの運転する車には乗らない!」と言ったそうな。だが車だけに利用する機会が多いので、仕方なく同乗を続けているうちにシェクターはビルヌーブの運転に少しは慣れたらしい。それでも毎回決まって「今日は死にませんように」と心の中で祈っていたという。

恐怖心を全く見せないビルヌーブの信念は、どんな場所でも同じだったのだ。だからF1レースにおいて「事故は僕に何の影響も与えない」と豪語できたのである。

そんな彼の信念や豪語を試すかのように、1980年シーズンが始まった。


試練の始まり(1980 アルゼンチンGP)

アルゼンチンGPが開催される前から、ビルヌーブとシェクターは、今シーズンのニューマシン312T5に対して失望していた。ビルヌーブとシェクターがフェラーリの自前のテストコースでテスト走行をやってみた結果、ダウンフォースは得られない、ハンドリングはめちゃくちゃ反応が悪い、エンジンパワーだけはなんとか旧マシンの312T4のままというひどい性能だったからだ。旧マシンの312T4よりも遥かに性能が劣っていたのだ。これではもはや312T5はニューマシンとは言えない。

この原因は、フェラーリのマシン開発スタッフが、性能のよかった旧マシン312T4に、数字上の計算だけで出したデータを元に手を加えたからに他ならない。間抜けなことにその肝心の計算が合っておらず、結果的にかなりの改悪状態になってしまったのだ。手を加えている途中で慎重にテスト走行を重ねて開発を続けていれば、これほどまでにひどい改悪にはならなかったはずなのに、である。結局、開発スタッフの自信過剰と怠慢さが招いた最悪の結果が、312T5だったのだ。

こんな状態のため、アルゼンチンGPの予選結果は望めそうも無い。シェクターは辛うじて15〜20番手あたりのグリッドを得られそうな有様だった。しかしビルヌーブは死にもの狂いで走り、8番手のグリッドを得た。この時点でビルヌーブの走りが尋常でないことがイヤというほど解る。

スタート直後の第一コーナーで早くも312T5の不安定さが出て、ビルヌーブはダートに飛び出して順位を落としてしまう。しかし彼得意の限界ギリギリのドリフト走行を駆使してじわじわと順位を上げ、終盤ではなんと2位にまで浮上した

だが、やがてビルヌーブの激しい走りに悲鳴をあげたのか、312T5のサスペンションが突然壊れてしまった。恐ろしいことに最高速の出るストレートエンドでサスペンションが壊れてしまったのだ。第一コーナーでビルヌーブの312T5は、完全にグリップとコントロールを失った超高速状態のまま横に吹っ飛び、バリアーに激しく叩きつけられた。大クラッシュだったが、ビルヌーブは無傷だった。

ピットに戻ってきたビルヌーブは言った。「312T5はマシンと呼べるほどの性能を持っていない、ただのクズ鉄さ。だけどクズ鉄なだけに頑丈でドライバーを守ってくれるんだね。おかげで僕は無傷なんだから。これで安心して事故を起こせるよ」と。もちろん開発スタッフに対する皮肉を込めた冗談である。

ビルヌーブもシェクターも、今後少しでも早く312T5の改良を進めてほしいとスタッフに願い出たが、基本的なシャシーからして設計ミスなのだからということで、今後の改良はあまり期待できそうもなかった。

ビルヌーブは、「今シーズンは極めて厳しい試練のシーズンになる。優勝なんてまず望めないだろう。それならばレース結果を完全に犠牲にしてもいいから、このクズ鉄312T5でどこまで速く走れるか、それだけに心血を注げよう」と思い、今まで以上の限界走行に挑戦する覚悟を決めたのだった。


本物のドリフト走行を極めた者(1980 ブラジルGP)

ブラジルGPが行われたインテルラゴス・サーキットは、タイトなコーナーが連続するサーキットで、ダウンフォースの少ないマシンにはそれほど不利にはならない特性を持っている。言い換えれば312T5のようなマシンでも少しは有利になるのだ。ビルヌーブはこのコース特性を最大限に生かした走りをして、予選では3位につけた。もちろんコース特性を生かしただけでなく、彼の本物のドリフト走行が物を言った結果だった。

今でも時折いろんなレースで話題に上がることだが、「グリップ走行よりも、本物のドリフト走行のほうが速い。ただしその本物のドリフト走行を極めることができるのはごく一握りのドライバーだけだ」ということである。当時のF1ドライバーに限って言えば、本物のドリフト走行を極めていたのは他界したロニー・ピーターソン、そしてビルヌーブくらいだった。

更にビルヌーブにはもっと強い、ロケットスタートという武器がある。これをスタートで生かさないテはない。

決勝でビルヌーブは、ジャン・ピエール・ジャブイーユとディディエ・ピローニの後ろから猛烈なロケットスタートを決めて、ジャブイーユとピローニのマシンの真ん中、しかもホイールとホイールが接触せんばかりのギリギリの隙間を見事にすり抜けてトップに立った。スタートでのドラッグレースが得意なビルヌーブの、おなじみの光景である。

しかし、観客の間からは「今のビルヌーブのスタートはあまりにも速すぎないか? フライングスタートじゃないのか?」との声もあり、競技委員の間でも同じことがささやかれた。にも関らずスタート時のビデオカメラに写ったビルヌーブのスタートの映像は、グリーンライトが点いた瞬間にスタートラインを超えていることが解り、本当にフライングギリギリというスタートだったのだ。

つまりビルヌーブは、シグナルが変わる瞬間を誰よりも正確に見極めるワザを身に付けるべく、なんと普段の私生活での公道走行で練習をしていたのだった。彼の自家用車308GTSで公道を走行していて、交差点の赤信号で一旦止まり、信号が青になる瞬間を一瞬のうちに読み取ってスタートしていたのだった。それをレースに応用したわけだ。というか、レースのスタートのテクニックを更に磨くために公道で練習をしていたのだ。

そんな努力を重ねた結果の、今回のスタートダッシュだったが、312T5のシャシーとミシュランタイヤの性能の悪さから余儀なくピットインをせねばならず、せっかくスタートでトップに立った努力もムダになってしまう。

それどころか、ピットアウト後の追い上げで果敢に先行車にアタックしていた最中、ビルヌーブのアクセル操作とは関係なく、突然リアタイヤが「ギャギャギャギャーーー!!」とホイールスピンをして、ビルヌーブのマシンは自動的にスピンをする状態になった。原因はコーナリング途中でスロットル・リンケージが開きっぱなしになってしまったためだった。

これはメカニックの整備ミスもあるだろうが、ビルヌーブの過激な走りにスロットル・リンケージが負けて壊れたという見方もある。


タイヤ交換の義務化は有利だが…(1980 南アフリカGP)

今回の南アフリカGPからは、レース中でのタイヤ交換が義務化された。他の(ミシュランタイヤを履いていない)ドライバーたちにとっては不利なルール変更だったが、ビルヌーブにとっては少しは有利になるルール変更だった。なにしろ、ただでさえレース中にミシュランタイヤがどんどんタレてきてイヤでもタイヤ交換をしなければならなかったのだから。だからタイヤ交換が正式に義務付けられれば、他のドライバーたちとあまり落差はなくなるだろう、とビルヌーブは思ったからだ。

しかし悲しいかな、シャシー性能の劣る312T5で限界ギリギリの走行を続けた結果、ギアボックスが壊れてしまい、ビルヌーブはピットインしてそのままリタイアしてしまう。

この原因は、タイヤ交換の面でややマージンができたとはいえ、それ以上に312T5の性能がひどかったからに他ならない。その大きなハンデを走りでカバーしようとしたビルヌーブのマシンのギアボックスが悲鳴をあげてしまったのである。ビルヌーブが言っていたとおり、正に312T5は使いものにならないクズ鉄と言っても過言ではない。


信念と決心は少しも変わらない(1980 ロングビーチGP)

ロングビーチGPでは、ビルヌーブは10位のグリッドにつけてスタートから猛烈に飛ばし、ありとあらゆるコーナーでドリフト走行を披露したが、またしてもビルヌーブの過激な走りに今度はドライブシャフトが折れてしまい、リタイアとなった。

かつてエンツオ・フェラーリが「ビルヌーブは頑丈なマシン作りに欠かせない、良い意味での破壊の王子である」と言ったことがあったし、開発スタッフやメカニックはその言葉に応えてマシンのシャシーを強化し続けていたが、さすがにドライブシャフトの強化までには手が回らなかったようで、それにより折れてしまったのだった。

一方、クレイ・レガゾーニが、ブレーキの故障からノーブレーキのままで、時速300キロ近い速度のままコンクリートウォールに激突するという大事故があった。レガゾーニは病院に運ばれて、結局両足を切断するはめになり、レースからは引退せざるをえなくなったのだ。幸いにも下半身不随だけで済み、それ以後はコメンテーターとしてF1レースの関係者となっている。

そんなレガゾーニの顛末を見ても、ビルヌーブは全く事故を恐れることはなかった。これは彼がシーズン前のインタビューで答えたとおりである。彼の「事故は僕に何の影響も与えない」という信念は変わっていなかった。それは自分だけでなく、レガゾーニのような他人の大事故を見た時も決して変わることはなかった。

ビルヌーブは事故を全く恐れないどころか、開幕戦のアルゼンチンGPで思った「このクズ鉄312T5でどこまで速く走れるか、それだけに心血を注げよう」という決心さえも少しも揺らぐことはなかったのである。


やっとの思いで1ポイント(1980 ベルギーGP)

ベルギーGPの予選ではビルヌーブは12位のグリッドにつけて、例によって果敢な走りを見せ、決勝では6位に入った。ポイントは1ポイントだが、クズ鉄312T5のことを考えれば相当上の順位である。なにしろチームメイトのシェクターは常にテールエンダーに近いような位置をいつもうろちょろしていたからだ。もちろんビルヌーブのウデがケタ外れだったことに尽きる。

こうなっては、本来ならばビルヌーブにナンバー1ドライバーの称号が与えられるべきなのだが、彼は相変わらずそんな称号には全く興味が無く、「ただ速く走れればいい」という考えでいた。

一方、優勝を飾ったのはリジェのディディエ・ピローニだったが、ピローニは地位欲と名誉欲に駆られてF1の世界に入ったようなものだった。もちろんピローニも速さではトップクラスのドライバーだったし、そういうドライバーは他にも居るのだが、今シーズンのピローニは速いマシンに恵まれていたことも、かなり優勝の助けとなったのだった。


跳ね返りドリフトコーナリング(1980 モナコGP)

モナコGPでもピローニの快調ぶりは見られて、ピローニはリジェをポールポジションにつけた。

一方のビルヌーブは、このモナコこそが彼にとって最高のパフォーマンスを見せる場所であり、昨年までのモナコで見せた走りよりも更に過激さを増していた。なにしろ昨年までは、ドリフト中のマシンのリアタイヤをガードレール数センチのところでコントロールしていたのが、今度はなんと、わざとガードレールにリアタイヤを「ドンッ!!」とぶつけて、その反動でテールを跳ね返らせて、次に迫る逆向きのコーナーに突入していくのだ。つまり前のコーナーでのリアタイヤの跳ね返りを利用して、次の逆向きのコーナーのドリフト走行に備えるという、とんでもない荒業を平然とやっていたのだから恐ろしい。もちろんこんなワザができるのはビルヌーブしか居ない。

こんな走りをガードレール越しに見ていたカメラマンは、昨年よりももっと恐れをなし、ビルヌーブがコーナーに入ってくるはるか前から逃げ出す始末だった。おそらく余程の勇気のあるカメラマンでなければ、ビルヌーブの「跳ね返りドリフトコーナリング」を撮影できなかっただろう。なんといっても、コーナーというコーナーで、ビルヌーブの312T5のリアタイヤが「ドンッ!! ドンッ!!」とぶつかる音がしていたのだから。

それでも予選の順位はあまり上がらないビルヌーブ。マシンの性能上で仕方が無いこととはいえ彼は焦ってしまい、あるコーナーでスピンをしてエスケープゾーンにはみ出た時に、うかつにも自動消火装置のボタンを押してしまい、燃えてもいない312T5を消化剤がくるんでしまった。ごくたまに見せるこういうドジなところにも、彼の人間臭さが感じられる。それでも彼は気を取り直し、得意のモナコのコースで6番目のグリッドを得た。

決勝では、スタート直後にトップグループで多重クラッシュが起きて、デレック・ダリーのマシンに至ってはハデに宙を舞い、コース上は大混乱だった。ポールからスタートしたピローニも結局、クラッシュでリタイアしてしまう。ビルヌーブはぶつけられこそしなかったものの、多重クラッシュをしたマシンにほとんど道を塞がれてしまった。だが僅かな隙間から猛烈な勢いで飛び出してコースに復帰した。

やがて雨が降り出したのだが、雨になるとビルヌーブは特に速い。他のマシンたちが無難にペースダウンして走る中、ビルヌーブだけは例によってウエットの路面を華麗に滑りながらコーナーを攻めて、スタート直後の多重クラッシュでかなり順位が下がった分を取り戻して、5位でチェッカーを受けた。もしスタート直後でのタイムロスをしなければ、もっと順位は上がっていただろう。

チームメイトのシェクターが中団グループから下位グループに甘んじてフィニッシュしたことを考えれば、改めてビルヌーブの異常な速さが浮き彫りにされるというものだろう。ビルヌーブが昨年以上の過激な限界ギリギリの走りに燃えている証拠である。

更に、この時期辺りになって、ビルヌーブへの評価が昨年よりも変わってきたのだった。報道陣やF1ファンの目から見て、ビルヌーブが過去最悪のマシンであるクズ鉄312T5でこれだけ速く走るのを見て、「昨年のワールドチャンピォンのシェクターがあんなに下方に沈んでいるのに、ビルヌーブはものすごく限界ギリギリの、いや既に限界を超えたドライビングをしている。見ているほうにもそれがひしひしと伝わってくるし、あの出来そこないの312T5であの順位はとんでもなく信じがたいことだ。もし他のマトモな性能のマシンに乗らせたらどれだけ速く走れるのか、考えただけでも恐ろしい。きっと誰もヤツには追いつけないだろう」という言葉を発した。これは当然、昨年までのビルヌーブに対する評価が更に上がったことを意味するのは言うまでも無い。


126Cの開発開始(1980 フランスGP)

本当はこの間にスペインGPが行われたのだが、FISAとFOCAとの対立でゴタゴタがあったため、スペインGPはノンタイトル扱いになってしまった。優勝したアラン・ジョーンズには気の毒なレースだったが、このフランスGPでがんばってもらうしかない。

この時期あたりから、早々と312T5の戦闘力に見切りをつけたフェラーリチームの開発スタッフは、ニューマシン126Cの開発に取り掛かっていた。126Cはフェラーリ初のターボエンジン搭載でパワーの面ではかなり期待ができそうだったが、完成&デビューまでにはまだまだ時間がかかる見込みだったので、今回のレースも312T5のままである。

ビルヌーブは「来シーズン、いやもしかしたら今シーズンにニューマシンの126Cのデビューが間に合うかもしれないし、先は明るいはずだよ。僕はフェラーリチームが気に入っているから今後もずっとここに在籍したい。312T5を開発した時のような、あんな設計ミスをやらかさないためにも、126Cのテスト走行は慎重にやっているよ。さて、それはともかく、いつまでクズ鉄312T5に乗らなきゃならないんだろうねぇ。早くポンコツ屋に売り飛ばしたいんだけど」と笑いながら冗談を言った。そんなわけで、すっかり312T5の愛称が「クズ鉄」に定着してしまった。

今回のレースでは、ビルヌーブは17番手のグリッドから得意のロケットスタートを決めた。第一コーナーの手前で既になんと10台近くも抜き去っていた。とにかく全くいいところのない312T5においてはスタートダッシュだけが頼りだったのだ。結果は6位入賞で、できすぎと言ってもいい。


結果だけが全てではない(1980 イギリスGP)

イギリスGPの前に、徹底的な312T5の改良テストが繰り返されていたのだが、失敗に次ぐ失敗で、結局シェクターとビルヌーブは、今までの仕様のままの312T5でレースに臨まなければならなかった。

このレースでビルヌーブはエンジンの回しすぎによるエンジンブローのためリタイア。片やシェクターは地道に10位で完走した。今まで言われてきたことではあるものの、ここまでビルヌーブの不振=レース結果が出ないことが続くと、さすがのエンツオ・フェラーリもビルヌーブの走り方に対して色々言うようになっていった。チーム全体の人間関係が少しギクシャクし始めていたのだ。そのためビルヌーブとエンツオ・フェラーリが直に連絡をし合うということも少なくなった。

これがよくなかったのだ。ビルヌーブはスクラップ寸前のガタガタのマシンで限界ギリギリの走りをしていたということ、そしてマシンを叩きのめすように走らせないといけないこと、当然エンジンブローなどのマシントラブルも常に背中にしょっていること、その感覚がエンツオ・フェラーリに伝わっていなかったのだ。

これにはビルヌーブもだいぶ焦ったようで、無理を言ってエンツオ・フェラーリと直に、頻繁に連絡を取り合うようにして、ようやく解ってもらうことができた。つまり、ドライバーが悪いのではなくマシンが悪いという単純な事実をだ。

この単純な事実は案外、見かけからでは解らないもので、ただ「ビルヌーブのウデが落ちた」「走りが荒くなっただけ」という風にしか見てもらえない。だが事実は全く逆で、昨シーズンよりももっと頑張って走っているのに、マシンのほうが貧弱すぎてネをあげて故障するのである。

ビルヌーブはエンツオ・フェラーリにまでドライビング・テクニックを疑われて、よっぽど「結果だけが全てじゃない。大事なのは過程だ」と言いたかったことだろう。

なんとかエンツオ・フェラーリにも事情が解ってもらえたおかげで、チーム全体に「また一緒に頑張ろう」という団結心が戻ってきたのである。と同時に、ビルヌーブは1981年もフェラーリチームに在籍するという意を表明して、記者会見でも正式に発表された。チームの雰囲気が元に戻ったおかげで、本来のアットホームな「ビルヌーブ&フェラーリ」の楽しさも戻ったのだ。一件落着である。


パトリック・デパイエの事故死(1980 ドイツGP)

ビルヌーブの安心感を叩き壊すように、ドイツGPの予選前のフリー走行でパトリック・デパイエが事故死するというショッキングな出来事があった。デパイエは昨年のハンググライダーでの大怪我から見事にF1へと復帰したドライバーだった。それだけに彼の死には皆ショックを受けた。

それとほぼ同時期に、チームメイトのシェクターが「今シーズン限りでF1から引退する」という声明をした。シェクターは「僕のF1キャリアもだいぶ長くなって年をとってしまったし、昨年ワールドチャンピォンを獲得したし、もういいんじゃないかなと思うんだ」と言ったのだが、312T5の不調ぶりが彼の引退に拍車をかけたことも充分考えられる。

そんな出来事が続いても、ビルヌーブのレースにかける闘争心は揺るがなかった。もう既にパターン化された…というよりパターン化するしかないレース戦略すなわちスタートでの一発勝負にビルヌーブは賭けていた。ビルヌーブは16番手のグリッドから猛烈なスタートを見せて、5位にまで順位を上げてチェッカーを受けた。

デパイエの事故死があったために、3位までのドライバーたちが力なくウイニングポーズをしていた。それを横目で見ていたビルヌーブは、一言報道陣に漏らした言葉がある。「今のような走り方をしていたら、いつか僕は取り返しの付かない大事故をやらかすかもしれないし、最悪の場合はデパイエのようになるかもしれない。だけどそんなことを考えていたらF1ドライバーが務まると思うかい? 僕は今までと同じ走り方を続けるよ」。

シーズンの初頭で豪語した「事故は僕に何の影響も与えない」というビルヌーブの信念は、どんな出来事が起きようとも変わらなかった。


余儀ないタイヤ交換(1980 オーストリアGP)

オーストリアGPでもミシュランタイヤの貧弱さは変わらず、ビルヌーブにとってはミシュランタイヤは、もはやスタートダッシュのためだけに使われていたと言ってもおかしくはない。毎レース毎レースで必要の無いタイヤ交換を余儀なくされていたためだ。そのために、せっかくスタートダッシュで稼いだ順位も、レースが終わる頃には水の泡となってしまっていた。

そんな経験をイヤというほど味わわされた今シーズンのビルヌーブは、決勝レースで予選用タイヤに近いコンパウンドのタイヤを履いた。どうせタイヤがタレてピットインを余儀なくされるのならば、開き直って、周回のもたない柔らかいコンパウンドのタイヤを履いてピットインしても大して変わらないと思ったようだ。

そのためにレースの序盤の数周でビルヌーブは6台ものマシンを抜いた。スタートダッシュ以外で抜くという芸当は、本来の312T5の性能では無理な注文だった。それならばタイヤの貧弱さを逆手にとった戦法でいこうとビルヌーブは思ったのだ。その結果、7位でフィニッシュ。さて、どちらの戦法が312T5に向いているのであろうか。元々がクズ鉄なだけに、あらゆる戦法を使ってもあまり効果は望めそうもなかった。


ミシュランの首の皮(1980 オランダGP)

ミシュランが新しいコンパウンドを開発して、ハイグリップの予選用タイヤをオランダGPまでに間に合わせてきた。

新しいミシュランタイヤのおかげでビルヌーブは予選で7番手のグリッドを得ることができた。決勝レース用のタイヤの性能もまぁまぁで、ビルヌーブはレース中3番手にまで上がった。ミシュランよ、やっとF1用のマトモなタイヤを開発したか、という感じだった。

それでも312T5のシャシー性能の低さをカバーしようとして限界ギリギリのドリフトコーナリングを続けていたビルヌーブ。さすがに新しいミシュランタイヤも悲鳴をあげて、やはりタイヤ交換のピットストップをしなければならなかった。それも二度もである。この結果ビルヌーブは予選と同じ7位でゴールした。

ミシュランタイヤの復活ぶりは素晴らしかった。今まで散々な目に遭わされてきたフェラーリチーム。もはやこれ以上我慢ならじ、と判断して来シーズンからはグッドイヤーと契約するつもりでいたらしい。しかし今回の新しいタイヤによって、ミシュランとしてはフェラーリチームの怒りを抑えることが出来、辛うじて首の皮が繋がった感じである。


今シーズン最大のクラッシュ(1980 イタリアGP)

フェラーリの地元イタリアGPのイモラサーキットでは、タイミングよくというべきか、遂にターボエンジン搭載フェラーリ126Cが登場した。ルノーの後を追ってフェラーリも本格的にターボ時代への参入を果たしたのだ。

126Cは予選前のフリー走行で、ビルヌーブによって初走行となった。今シーズンの裏方でテストにテストを重ねてきた126C、思ったとおり今までの312T5よりはラップタイムは上だった。というより、312T5がクズ鉄扱いだったのだから、126Cは普通の性能とも言うべきだろうか。

しかし、出来立てホヤホヤの126Cでさえも、手放しでニューマシンと喜べるほどの性能ではなかった。当然エンジンパワーは格段に上がっていたのだが、312T5の頃のシャシー開発スタッフと同じスタッフだったために、シャシーグリップが今ひとつだったのだ。名門フェラーリの期待に添うだけのシャシー設計・開発技術スタッフが居なかったのである。

それに、126Cはニューマシンなだけにどうしてもセッティングに手間がかかるし、予想し得ないマシントラブルの危険性も含んでいる。こういった理由から、ビルヌーブとシェクターは312T5で予選と決勝レースに挑むことにした。…結果論ではあるが、もし126Cのほうに乗って出走していたら、ビルヌーブもシェクターもあんな事態にはならなかったかもしれない。

予選が始まってから間もなく、シェクターのマシンはトサの超高速コーナーでいきなり後ろ向きになり、そのままの勢いでコンクリートウォールに叩きつけられた。タイヤが充分に温まっていない状態でトサ・コーナーに進入したために起きたクラッシュだった。シャシーグリップの足りない312T5の泣き所がモロに出てしまったのだ。シェクターはしばらく首の痛みを訴えていた。それでもシェクターは首を医療用具で固定して決勝レースに挑んだ。

そして決勝レース5周目、今度はビルヌーブに災難が降りかかった。しかも同じトサ・コーナーだ。ビルヌーブの312T5はトサ・コーナーを時速300km近いスピードで駆け抜けようとした。その時、突然右リアのタイヤがバーストし、ノーズの浮いた312T5はダウンフォースを失い、宙に舞い上がってそのままの勢いで左側からコンクリートウォールにクラッシュ。言わば揚力の無くなった飛行機が地面に叩きつけられるのと同じで、ビルヌーブの312T5の左側のボディワークは完全に千切れ飛んで無くなってしまった。モノコックまでもが激しく歪み、スクラップとなった312T5はコースを完全に塞いでしまい、後続車は障害物回避に必死だった。

ビルヌーブはしばらくマシンから降りることができなかった。このクラッシュで外れた左フロントタイヤが、ビルヌーブのヘルメットを強打したために、ビルヌーブはほんの数十秒間だが視力を失ってしまったのだ。しばし放心状態だったビルヌーブは、そのうちに我に返り、「どうやら助かったようだけど、目が見えない! このままヘタにマシンを降りたらかえって危ない! 仕方が無いから両手をできるだけハデに振り上げて後続車にアピールしよう」と、できるだけのことはした。しかし、体中に激痛が走り、ようやく視力が回復してマシンを降りようとした時も足を引きずるような格好でコース脇まで走っていった(この打撲の痛みが完治するまで三日かかったという)。

今シーズン最大のクラッシュだったにもかかわらず、ビルヌーブがなんとか動けたのは、312T5のモノコックの頑丈さにあった。頑丈さ「だけ」が売りの312T5は、思わぬところで二人のドライバーを守ってくれたのだ。

シェクターは地道に走り、8位でレースを終えることができた。しかしシェクターもビルヌーブも同じコーナーで同じような事故を起こすとなると、イモラサーキットは312T5で走るにはかなり無理があったと言えるだろう。終わったことを言っても仕方が無いが、二人ともニューマシンの126Cで出走していたら、ここまでひどい事故になることは免れたのではないだろうか。

フェラーリチームの考え方として、ニューマシン126Cをこのレースで登場させたのはファンへのサービスであって、実際には126Cは来シーズンから投入する、というものがあった。つまり後の2レースは312T5でいく、というものだ。

しかしこの考え方は、次のカナダGPの予選結果を見てみれば、相当後悔せざるを得ないものとなる。


シェクターの屈辱(1980 カナダGP)

ビルヌーブの母国カナダ。このGPだが、なぜフェラーリチームはさっさと312T5を博物館行きにして126Cをレースに投入しなかったのか、不思議でならない。なんとなれば、信じられないことだが、昨年のワールドチャンピォンでもあり長いキャリアを持つシェクターが予選落ちをしてしまったのだ。シェクターの長いレース人生における、初めての屈辱の予選落ちである。

一方のビルヌーブは、予選でどんなに頑張っても22位というグリッドしか得られなかった。カナダの観客や報道陣は「なぜ未だにクズ鉄312T5なんかで参戦するんだ? 126Cを投入すれば遥か上のグリッドを獲得できただろうに」と首をひねった。ビルヌーブもシェクターも同じ意見だったが、チームの方針なのだから仕方が無い。

こうして、決勝レースを走るのはビルヌーブだけとなってしまった。22位という、ほとんどテールエンダーとも言えるグリッドにマシンをつけたビルヌーブに対して、カナダの観客は、「よくやったぞ。チームメイトが予選落ちする傍ら、そのクズ鉄をよく決勝レースにまで持ってこられたな」と、痛々しいまでの悲壮感を漂わせるビルヌーブに声援を送った。

観客の思いはただ一つだった。ビルヌーブが22位というどん底からどこまで順位を上げられるか、である。ビルヌーブもそれはよく解っていて、優勝に向けて走るという観念は捨てていた。というより、捨てるしかなかったのである。いくら地元カナダとはいえ、クズ鉄312T5で優勝まで期待するのはあまりにも酷である。それは観客のみならず報道陣の誰もが解っていたのだ。

ワールドチャンピォンシップ争いは、アラン・ジョーンズとネルソン・ピケが競っていたのだが、決勝レースのスタートでは二人は互いに接近し過ぎて後続車に影響を及ぼし、後続車は多重衝突を起こしてコースを塞いだために、レースは一時中断となった。

再スタートではジャン・ピエール・ジャブイーユのルノーがコースアウトして壁に激突し、ジャブイーユは足にひどいケガをしてしまった(これが原因でジャブイーユは以後レースから引退するハメになった)。

ビルヌーブはそんな混乱を首尾よく避けて、可能な限りのペースで、スタートからゴールまで一瞬も休むことなく、限界ギリギリのドリフト走行を駆使していた。予選のタイムアタックと同じ状況が実に70周にも及んだ。

二年前のロングビーチGPで第一コーナーから早々にトップに立ったはいいが、中盤のレガゾーニとの接触でリタイアした時、ビルヌーブは陰口を叩かれたものだった。「ビルヌーブはきゃしゃな体つきだから体力が無いんだ。だから序盤は飛ばせても中盤になるとバテて集中力もペースも落ちてしまうんだ」などという陰口だった。

しかし今は、そんなことを言う者は誰も居ない。ビルヌーブの、レースの最初から最後まで全開ドリフト走行をしている様を見た観客は、「あんな陰口を言ったのは誰だ!? 見当違いも甚だしい!」という思いにかられていた。事実、当時の陰口は見当違いだったのだ。ビルヌーブは体力のなさが原因でリタイアするのではなく、あまりにも飛ばしすぎたためにマシントラブルや事故に見舞われたからだ。

そんな昔のことを思い出しながら観客はビルヌーブの順位上昇に見入った。そしてフィニッシュした時はなんと5位入賞である。312T5という絶望的なマシンに乗りながら、22位から5位でゴールするなどとは、誰が見ても信じられない結果だ。

「この5位という順位は優勝にも等しい! 素晴らしいぞビルヌーブ!」と観客は感激の拍手を送った。カナダ国民のひいきが多少入っているとはいえ、ビルヌーブのとんでもない速さは誰もが認めざるを得なかった。

このレースで優勝したアラン・ジョーンズは、今シーズンのワールドチャンピォンを決めた。しかし、観客の拍手と視線はビルヌーブの速さに釘付けとなっていた。そんな光景を見てジョーンズは言った。「ビルヌーブの速さは充分解るけど、僕はワールドチャンピォンなんだよ。お願いだから僕にも拍手を送ってくれ」。


気持ちは来シーズンへと(1980 東アメリカGP)

東アメリカGPでは、ビルヌーブは18位のグリッドからスタートして少しずつ順位を上げていたが、例によって無理をし過ぎてレース後半でスピンアウト&クラッシュし、リタイアとなった。

このレースでF1から引退するシェクターは地道に仕事をこなし、11位でフィニッシュした。少なくとも前回のカナダGPでの屈辱を晴らして、前ワールドチャンピォンの面目を保った。

キャリアの最後まで確実に堅実に走りきるという姿勢を変えなかったシェクターは、ビルヌーブに言った。「ジル、お前も俺やジョーンズみたいにワールドチャンピォンになりたかったら、マシンやタイヤをいたわって走ることを覚えろよ。それにペース配分も考えないと結果は出せないぞ。お前みたいに常にギリギリの全開走行をやっていたらマシンがもたない。それは解っているだろう?」。

ビルヌーブは答えた。「もちろん解っているよ、ジョディ。だけどね、僕は自分の走り方を変える気はさらさら無いよ。何かこう、うまく言えないけど、ジョディのような確実で堅実な走り方をすることは僕にもできるだろうけど、僕の気持ちの中で僕自身に対してそれを許さない何かがあるんだ。全開走行をしない自分が許せない、みたいな気持ちがね。きっとそれが僕の生き方なんだろうね」。

シェクターは「相変わらずだな」とでも言うようにビルヌーブに握手を求め、快く別れを告げようとした。しかし最後にビルヌーブは言った。「来シーズンはターボマシンになるし、ピーキーなエンジン特性を生かして、更にマシンをうまく滑らせる練習をするよ。そういう走りしかしたくないんだ。イタリアGPではひどい事故を起こしたけど、僕は今までの走り方を安全な方向に変える気は全く無いね」。

シェクターはヤレヤレという風に肩をすくめて笑いながら、パドックの奥へと消えていった。

シーズン初頭から持っていた、「このクズ鉄312T5でどこまで速く走れるか、それだけに心血を注げよう」という気持ちと、「事故は僕に何の影響も与えない」という信念は、シーズンを通して全く揺るがなかったのである。


1981年


前置き:フェラーリ126Cの武器と弱点

当時のF1界のエンジニアに、ハーベイ・ポストレスウェイト博士という人物が居た。この人物は後にフェラーリのシャシー開発部門を担当することになるのであるが、フェラーリ126Cが設計・開発された頃はまだフェラーリチームには入っていない部外者だった。

そのポストレスウェイト博士が部外者ながらも、今シーズンからF1GPに出走することとなったフェラーリ126Cを見た感想は、「いかにも! そう! いかにもダウンフォースの少なさそうなシャシーだ。フェラーリのシャシー開発陣営はあの程度のレベルなのであろうか? ドライバーの立場を考えたら気の毒としか言いようがない。ターボエンジンの完成度は素晴らしいが、シャシーのほうはお粗末に過ぎる」だった。

また、ロータスチームを運営するコーリン・チャップマンは、やはり部外者ながらもフェラーリ126Cを見てこう言った。「なんというか、有り余るターボエンジンのパワーに対してシャシーが完全に負けているように見えるな。例えて言うならば一般公道を走る乗用車に1000馬力のパワーボートのエンジンを載せたようなもので、結果としてコーナーでは駆動輪が空転してどこに横っ飛びするか解らないジャジャ馬マシンとでも言おうか。シャシーグリップがエンジンパワーに全く追いついていないマシンだ。フェラーリもずいぶんとアンバランスなマシンを作ったものだ。そうだな………ウイリアムズのマシンのように、当たり前すぎて参考点が全く無いつまらないマシンのほうが、トータルバランスという面ではよっぽどマシだろう」。

このように、今シーズンから投入されたフェラーリ126Cは、パワーに満ち満ちているターボエンジンであるにもかかわらず、そのパワーを100%は生かせないような貧弱なシャシーだったのだ。

もっと悪いことにこのターボエンジンは極めてピーキーな、いわゆるドッカンターボだったため、シャシーはますます負けてしまい、結果としてトータルバランスの極端に悪いマシンとなっていた。

126Cの武器は、その完成度の高いターボエンジンのパワーにある。サーキットを一周する際に、エンジンパワーによって2秒は有利になりそうなほどの素晴らしいエンジンだった。片や弱点は、シャシーグリップの貧弱さからコーナリングスピードがなかなか上がらず、サーキットを一周する際に、シャシーの貧弱さゆえに4秒は不利になり、結果として一周につき2秒も不利になってしまうというデータが出された。

このデータを出したのはビルヌーブだった。彼はシーズンオフの間フェラーリのテストコースで走り込み、126Cのアンバランスさを痛感したのだった。であるから、ポストレスウェイト博士やチャップマンの言葉を聞いても「まったくもって妥当なコメントだね」と苦笑せざるを得なかった。

今シーズンから新しいチームメイトとなったディディエ・ピローニも、アンバランスな126Cには失望させられたという。ピローニは昨シーズンはリジェに在籍していたのだが、「名門と言われるチームに入りたい」という気持ちが強くあり、昨シーズンの半ばからフェラーリチームと交渉をし、契約にこぎ付けたのだった。もちろんピローニも超一流の速さを持ったドライバーだ。そうでなければエンツオ・フェラーリが契約に応じるハズはない。

ピローニはフェラーリチームに入ったばかりの頃、正直言ってかなりオドオドしていたらしい。なぜなら、チームの中では完全にビルヌーブがムードメーカーでチームの輪を作っていたからだ。だからピローニは「この輪に溶け込んでいけるのだろうか?」と不安になったという。

しかし、誰にでも同じように接するビルヌーブは「ディディエ(ピローニのこと)、126Cはサーキットで2秒も不利な出来損ないのジャジャ馬マシンだけど、どうやったら速く走らせることができるか、一緒に考えてがんばっていこう」という風に、ピローニがチームの輪に溶け込めるように、いつもながらの分け隔てしないオープンな態度で接した。これにはピローニも大いに喜んでリラックスできたようだった。

ちなみに今シーズンでのカーナンバーは、コンストラクターズ・ポイントの関係で、昨シーズンにアラン・ジョーンズの付けていたカーナンバー27番がビルヌーブに回ってきた。そして28番をピローニが付けることになった。

そう、ビルヌーブのカーナンバーは27番なのである。ビルヌーブはこのシーズンになって初めて、フェラーリでのナンバー1ドライバーとして正式に扱われることになったのだ。


ターボエンジン用のドリフト走行(1981 ロングビーチGP)

今シーズン最初のGPはロングビーチだ。ビルヌーブの得意とする公道サーキットである。ビルヌーブは相変わらず「公道サーキットは性に合っていて大好きだ」と公言してはばからない。

今シーズンからはグッドイヤーが一時的にF1から撤退したために、タイヤメーカーは全チームともミシュラン一色になり、タイヤに関する条件は全チームとも同じになった。今までミシュランの理不尽なまでの不利さに悩まされていたフェラーリチームは、これで悩みのタネが一つ減ったというところだ。

それでもフェラーリ126Cには深刻な問題が二つほど残っている。シャシーグリップの無さと、ピーキーなターボエンジンが持つターボラグである。この二つの問題を可能な限り解決させようとして、ビルヌーブはシーズンオフの最中に新しいテクニックを身に付けていた。

そのテクニックとは、まず、コーナーの遥か手前からマシンを真横に向けて直ドリ状態に入り…と、ここまでは今までのビルヌーブのやり方だが、その次にはブレーキングを殆どせずに、つまりヒール・アンド・トゥでのブレーキング踏力をほんの僅かにして、更に次の瞬間にはなんとアクセルを全開にしてコーナーに入っていくというものだ。観客の立場から見た場合、コーナー手前でビルヌーブの126Cがロクに減速されないまま、アクセル全開のまま直ドリ状態になり、どう見てもそのままコースアウトするとしか見えないようなスピードでコーナーに入っていく。つまりコーナーへの進入スピードが異常なまでに高いのだ。

その状態で今度は左足ブレーキのテクニックを使い、ドリフトコーナリング中に「ポン! ポン! ポン!」と断続的に左足でブレーキペダルを踏んで減速しながら、同時にドリフト中のマシンの向きも微調整する。結果的にコーナーのクリッピング・ポイント辺りになる頃にはマシンは首尾よく減速されていて、なおかつアクセルは全開のままなのだからエンジンの回転数も落ちておらず、ターボラグも発生せず、コーナーからの立ち上がりでモタつくことは無くなる。

コーナー手前でしっかり減速するのではなく、直ドリでのタイヤの摩擦とドリフトコーナリングによる摩擦そしてコーナリング中での左足ブレーキの補助的な僅かな減速、これらが全て重なり合ってやっとマトモな減速になるというものだ。コーナーへの進入スピードも高い、コーナリングは今まで以上のハイスピードなドリフト走行、そしてターボラグが発生しないのだから立ち上がり加速にもロスがない、こういうテクニックをビルヌーブは身に付けていた。ラリーのテクニックを応用したものだったのだ。

ビルヌーブの126Cのエンジン音を傍から聞いていれば、コーナーが連続しているにも関わらず、アクセルを全開にしている状態が異常なまでに長いということだ。126Cを速く走らせるためにビルヌーブが編み出した「ターボエンジン用のドリフト走行」と言ってもいいだろう。ロングビーチのコーナーというコーナー、というよりもコース全体において、ビルヌーブはその走行を実行しており、マシンが真横を向いている状態のほうが遥かに多かったのだ。

今回のGPのフリー走行でビルヌーブのこの走り「ターボエンジン用のドリフト走行」を初めて見た観客たちは、126Cのブレーキが壊れただのアクセルが戻らなくなっただのと悲鳴を上げることもしばしばで、観客たちはコンクリートウォールの奥の安全地帯に居るにも関わらず、ビルヌーブの126Cがコーナーに迫ってくると「こっちに突っ込んでくる!」と怯えて逃げ出す始末だった。それほどまでにビルヌーブの「ターボエンジン用のドリフト走行」は過激でクレイジーそのものだった。今年でF1キャリア5年目になるビルヌーブだが、デビュー当初の過激さやクレイジーぶりは少しも衰えていない。むしろ更に増してきていた。もちろんこんなワザができるのはビルヌーブだけである

チームメイトのピローニは愕然として「僕にはあんなクレイジーな走り方は到底できない。ジルには恐怖心が無いんだろうか?」とコメントした。

それでもピローニには地味ながらも潜在的な速さがあり、かなりの実力を持っている。予選ではビルヌーブが5位、そしてピローニは奮闘して6位に付けた。ビルヌーブのクレイジーなドリフト走行の速さも、ピローニのオーソドックスなグリップ走行の速さも、タイプこそ違えど共にチーム内での良きライバルと言っていいだろう。

ビルヌーブとピローニの速さをもってしても、予選グリッドが5位と6位しか得られなかった原因は、ひとえに126Cのアンバランスさに尽きる。少ないシャシーグリップの126Cを考えたら、彼らのグリッドはできすぎと言ってもいいだろう。126Cは少なくとも昨シーズンの「クズ鉄312T5」に比べれば、だいぶ期待できそうなマシンだ。

決勝では、ビルヌーブはスタート早々から得意のロケットスタートを見せて第一コーナーでトップに躍り出たが、レースの前半でドライブシャフトが折れてしまいリタイア。ピローニもほどなくして燃料系のトラブルでリタイアとなった。126Cには、ニューマシンに付き物である耐久性の問題も残されていたのだった。


126Cの愛称「ガラクタ」(1981 ブラジルGP)

ブラジルGPが始まる少し前の話である。

フェラーリのテストコースで、ビルヌーブは126Cのシャシーグリップの貧弱さを少しでも改善すべく、テスト走行を延々とやっていた。前回のロングビーチGPで、実戦でのシャシーグリップの無さがどれほど深刻な事態なのか、ビルヌーブにはよく解ったからなのであった。何せ、あれだけ過激なターボエンジン用のドリフト走行を駆使してもタイムは思ったほどには上がらなかったのだから。

ビルヌーブは、テストコースで周回を重ねてはピットインし、メカニックや設計者にシャシー性能改善のアドバイスを伝えることを続けていた。それが何日も何日も続いた。しかし、決定的な改善策は見出せなかった。せいぜい、ほんのちょっとだけシャシーグリップが良くなったという程度で、少なくともレースで上位を狙える可能性は殆どゼロに等しかった

そんなテスト走行の最中に、ビルヌーブはピットインして、マシンからは降りずに、ヘルメットだけを脱いで、メカニックや設計者に向かってこう言った。「このマシンはガラクタだよ」。

しかしビルヌーブは、それ以上の文句は言わず、マシンから降りて憤まんやるかたなくホイールを蹴飛ばしたりは決してしなかった。彼はボスのエンツオ・フェラーリにも面と向かって言った。「このマシンはガラクタだ。でも僕は一日中テスト走行をするよ。無理な運転をしてスピンもするだろうし、キャッチフェンスに突っ込むこともあるだろう。それでも少しでも改善策が見出せれば嬉しいし、それにこれは僕の仕事で、僕は仕事が好きだからね。だけどこのガラクタマシンではレースには勝てないってことを言いたかったんだ。ボス、これだけは解ってほしい」。

エンツオ・フェラーリはビルヌーブのこの言葉を潔く、そして深刻に受け止めた。ビルヌーブが嫌味を込めて発した言葉ではなく「少しでも速く走りたい」という意思が、エンツオ・フェラーリにもひしひしと伝わってきたからだ。

しかしやはりこれ以上の改善策は見つからず、結局、僅かな改良を加えただけの状態でフェラーリチームはブラジルGPに挑まなければならなかった。ビルヌーブは昨シーズンの312T5の愛称を「クズ鉄」と名づけたが、126Cの愛称は「ガラクタ」と名づけたのである。マシンの問題点こそ違えど、どっちのマシンも似たり寄ったりの愛称&妥当な評価である。

こんな希望の無い状態で、ブラジルGPの予選は始まった。ビルヌーブはなんとか予選7位につけ、決勝では得意のスタートダッシュを決めて、前を行くアラン・プロストのテールギリギリにくっ付いていた。しかし、ビルヌーブよりもプロストのほうがブレーキングのタイミングが早かったために、ビルヌーブはプロストに追突してスピンしてしまった。その結果、後続車は大混乱となり、後続車の内の数台がクラッシュした。

ビルヌーブのスピンのあおりを食らってクラッシュした後続車のドライバーたちは、「ジルの奴め! 少しはプロストとの車間距離を開けておけ! 相変わらず危ない走りをする奴だ!」と怒っていたが、反面、彼らは「でもまぁ、あれがジルのドライビング・スタイルなんだから仕方が無いか…はぁ〜…」と諦めていた。

一方、後続車の多重クラッシュの原因を作った張本人のビルヌーブは、フロントウイングが曲がってしまい、極度なアンダーステアのまま苦しみながら走行を続けていたが、奮闘むなしく、ターボトラブルのために白煙をモウモウと上げながらリタイアするハメになった。

プロストのマシンだが、ビルヌーブに追突された時のダメージを負っていなかったのはプロストにとっては救いだった。しかし、ビルヌーブと同じ126Cに乗るピローニが、プロストに周回遅れにされそうになった時、ピローニは焦りからによる自らのスピンをしてしまった。周回遅れにされそうだったピローニは、本来ならばプロストに素直に道を譲って然るべきなのに、どこをどう焦ったのか、プロストに抜かれまいとして無理をしてしまい、その結果スピンして、あろうことかプロストまでをも巻き込んでクラッシュしてしまった。当然両者ともリタイアである。ピローニはあまりにもプライドが強すぎると思われる。周回遅れにされそうな時には、素直にラインを変えるか減速するかして抜かせるのが、F1だけでなくレースの世界の常識である。

ビルヌーブはピローニの行いについては何も言わなかった。というより、先のテスト走行でガラクタ126Cに失望し、ガラクタはガラクタなりにどこまで速く走れるかだけを考えていたために、ピローニの些細な行動まで考える余裕が無かったのかもしれない。

こうして126Cは、デビュー2戦目にして、早々にビルヌーブから「ガラクタ」という愛称を付けられてしまったのだった。これも仕方の無いことである。


すり板のごとき花火大会(1981 アルゼンチンGP)

アルゼンチンGPでも、ビルヌーブは予選7位と、全くふるわなかった。それでも決して諦めることなく、決勝レースではビルヌーブは大胆なコーナリングラインを見せていた。

少しでもコーナリングスピードを稼ごうとして、ビルヌーブはコーナーの途中から出口に至るまで、片側のリアタイヤを芝生地帯に落としこんでドリフト走行をしていた。これはコーナリングラインのRを少しでも大きくしてコーナリングスピードを稼ぐためだった。アクセル全開の状態で芝生はけたたましく刈り取られて空中に激しく散乱し、観客にとっては見応え充分なショーになった。

それだけではなく、芝生地帯にリアタイヤを落とし込んでいるために、126Cの地上高が一瞬下がり、アンダーボディが縁石に激しく擦れて、マシンの底からハデに「ババババッ!!」と火花が飛んだ

(1990年代に入る頃のF1で使われていた金属製の「すり板」による火花のようなもので、燃料を満タンにした状態での決勝レースで、序盤は車重が重いためにすり板と地面が擦れてあちこちのマシンの底から火花が飛んでいた、あれと同じような状態だった)

1981年当時はすり板のようなレギュレーションは無かったので、観客たちはビルヌーブの演出する花火大会も楽しむことができた。珍しい光景をシャッターに収めようとしてカメラマンたちはあちこちのコーナー脇を行ったりきたりすることになる。

しかし、そんなムチャなコーナリングが災いしたのか、ビルヌーブの126Cはドライブシャフトが折れてしまい、リタイアとなった。

後日のレース雑誌で「ビルヌーブ、花火屋を開店」という冗談の見出しが載せられたのだが、それほどまでに彼のコーナリングラインは大胆だったのだ。


希望の兆し(1981 サンマリノGP)

次なるサンマリノGPはフェラーリの地元イタリアだ。予選結果はティフォシたちにとって、まるで「待ってました」と言わんばかりの結果となった。ピローニは地道に頑張って6位のグリッドを得たのだが、ビルヌーブはなんとポールポジションを取った。

ビルヌーブ本人が「ガラクタ」と名づけた126Cをサンマリノのコースで堂々のポールにつけることができたのは、かなりの幸運が重なったためだった。たまたま126Cとサンマリノのコースとの相性がよく、更にビルヌーブの弾き出したセッティングデータがものを言った結果だったのだ。

ところがこのビルヌーブの出したセッティングデータは、ピローニのマシンには合っていなかった。ピローニにはピローニなりの走り方があるからで、少なくともビルヌーブのドリフト走行に基づいて出されたセッティングデータは参考にならなかったのだ。これはこれで仕方が無い。

決勝では、ビルヌーブは得意のスタートダッシュを見せて、レース序盤はトップを独走。ティフォシたちは熱狂した。だが、間もなく雨が降り出してきて、各車レインタイヤに交換するべくピットインをした。ビルヌーブはピットインのタイミングがやや悪かったために順位を下げてしまったのだが、気を取り直して本来の過激極まるドリフト走行を駆使し、不安定な路面状況ながらもファーステスト・ラップを叩き出しながら全開走行を続けてトップグループを追った。

片やピローニはといえば、地道なドライビングが功を奏して、素晴らしいことにこの時点でトップに躍り出ることも幾度かあったのだ。ピローニもようやく126Cに慣れてきたと見え、ターボエンジンのパワーをうまく引き出していた。しかし終盤までタイヤがもたず、ジリジリと順位を下げてしまった。

トップグループの仲間入りを目指していたビルヌーブは、やがてその希望が叶えられそうになった途端に126Cのクラッチディスクがタレてきた。レース終盤になるにつれ、どんどんクラッチディスクが加熱して滑り出していってしまい、やはりジリジリと順位を落としてしまう。

結果として、ピローニが5位、ビルヌーブは7位でフィニッシュとなったのだが、ビルヌーブのポールポジションや序盤でのトップ独走やファーステスト・ラップ、そして一時的にピローニがレースのトップを走ったことを考えれば、運に助けられたというものの、フェラーリチームにとって少しずつ希望が見えてきたようなGPだった。


ピローニの機転(1981 ベルギーGP)

ベルギーGPは、FISAとGPDAの対立が際立ったものだった。出走台数の多すぎによるレースでの危険性を全く省みないFISA、そのFISAの権威主義的で高圧的な態度に対し、ドライバー側の団体であるGPDAは抗議の意思表示として、決勝のフォーメーションラップでストライキ運動を起こす計画を練っていた。

GPDAの委員長に立候補したのは、政治的なことに関心が深いピローニだった。ピローニはビルヌーブに対して「ジル、君もストライキ運動に参加しなよ。FISAのお偉方はレースの危険性を完全にナメてやがる。あのバカなお偉方に痛い目を見せてやろうぜ」と誘ったのだが、レースそのもの(走りやバトル自体)にしか興味の無いビルヌーブは、最初はすごく嫌がっていたといわれる。しかしピローニの熱意に負けて「しょうがないなぁ。付き合おうか」というかんじでビルヌーブもストライキ運動に参加することになった。

ストライキ運動とは、運動に参加しているドライバーたちはフォーメーションラップを回らないというものだった。決勝グリッドにはビルヌーブが7位、ピローニは3位につけていたのだが、それだけでなく、他のストライキ参加マシンたちも、フォーメーションラップを回らなかった。つまりグリーンフラッグが振られても発進しなかったのだ。

その結果、ストライキ運動に参加していないマシンだけが、停まっているマシンたちをすり抜けながらフォーメーションラップを回るという、非常に奇妙な光景が見られた。まるでグリッドについた半分のマシンが同時にスターティング・マシントラブルを起こしたかのようだった。

これにはFISA側も困ってしまったのだが、「こんな挑戦をされてレースを一時中断するわけにはいかない」と意地になり、そのままレースをスタートすることに決めた。しかし、意地になったこのFISAの判断がマズかった。

スタートの直前、リカルド・パトレーゼのアロウズのエンジンがストール。本当にスターティング・マシントラブルが起きてしまった。もっとマズいことにアロウズのメカニックがパトレーゼのマシンのエンジンをかけようとしてコースに入ってしまい、それとほぼ同時にレースはスタートとなって、アロウズのメカニックは後続車に軽くはねられてコース上に倒れ込んでしまった

この光景をミラー越しに見て一瞬で判断したのは、パトレーゼの前のグリッドにつけていたピローニだった。ピローニは「このまま全車がスタートするとアロウズのメカニックは轢き殺される!」と判断して、わざとコース上を大々的に横切る形で、ゆっくりとジグザグ走行し、後続車の動きを強引に止め、強制的にレースを一時中止に導いたのだった。ピローニのこの機転は素晴らしいもので、ドライバー仲間からも観客からも「人間の安全を第一に考えた素晴らしい機転」と賞賛された(その後アロウズのメカニックは無事に助け出され、幸いにもケガは回復した)。

FISA側は怒鳴りつけてきた。「何が機転だ! もともとスターティング・マシントラブルを誘発させたのは、ストライキをしたドライバー本人たちじゃないか! パトレーゼのマシンはエンジンのアイドリング状態が長かったためにオーバーヒートして、そのためにエンジンが止まったんだろう。それに、スタート直前にコースに乱入するメカニックもメカニックだ。轢いてくださいと言わんばかりじゃないか! 全てがくだらない茶番劇だ!」。

それに対してピローニは言った。「もともと? じゃぁきくが、もともとの出走台数の多さを省みないで、多すぎる台数でレースを開始させたあんたらはどうなんだ? あんたらお偉方が危険を省みないから、こういう結果になったんだろ。もともとはバカな判断をしたあんたらに落ち度があったんだよ。レースをしたことのないお偉方には解らないだろうけどね」。

双方ともに罵声を浴びせ合う、これではまるで泥試合である。

ビルヌーブはこの泥試合にうんざりして、早く決勝の再スタートがきられないか、ピットでいらついていた。こういうところも、レース自体にしか興味の無いビルヌーブらしい部分である。ビルヌーブはこんな泥試合など見たくも聞きたくもなかったのだ。

やがて決勝の再スタートがきられ、ビルヌーブは4位で、ピローニは8位でチェッカーを受けた。ビルヌーブはガラクタ126Cで、今シーズン初のポイントを何とか獲得することができたのだ。今の126Cの性能では、これがやっとなのだろう。

こんな状態ではまだまだフェラーリチームの先行きは暗く、まして優勝などは夢のまた夢に思えた。

しかし、次のGPでフェラーリチームは、ビルヌーブの成し得た神業のような快挙により、一気に明るい表情になるのだった。


スキッピング・ドリフトによる快挙(1981 モナコGP)

ビルヌーブは、他の数人のF1ドライバーがしていたのと同じように、モナコの街に自宅を構えて家族全員で住んでいた。そういう意味ではモナコのコースは彼のホームサーキットとも言える。

モナコGPの話をする前に、ここでちょっとビルヌーブの普段の食事について話してみよう。

ビルヌーブは昔から、ステーキとポテトを主食にしていて、他の料理には興味を示さなかった。モナコに住んでいながら高級なフランス料理にも全く関心が無く、どんなに高級な料理を出されてもステーキとポテトしか食べないことが大半だった。ビルヌーブは特にステーキとポテトが大好物だったから食べていたのではなく、食事そのものに執着が全く無かったのだ。

ビルヌーブはよく、ジャーナリストからのインタビューで語ったものだった。「僕は食事をするということには興味が無いんだ。とりあえずステーキとポテトが手軽で好きだから、いつもそれを選んでいるだけなんだ。毎年F1サーカスで世界中を旅行しているようなものだけど、どこの国に行っても、その国の名物料理なんて興味が無いね。妻のジョアンナに“いつものヤツでいいよ”と言えば彼女はすぐに近くのスーパーに行ってステーキ用の肉とポテトを買ってきてくれる。ジョアンナがどんなに名物料理を奨めても断ってきたよ」。

ジョアンナ夫人もジャーナリストに語ったことがあった。「ジルはいつでもそうだわ。せっかく珍しい名物料理があるのに、他にもっと美味しい料理があるのに、彼は、私に近所の適当なスーパーでステーキ肉とポテトだけを買ってこさせるのよ。私は珍しくて美味しい料理を食べたいから、世界各国を回っている時には彼をホテルに置き去りにして、子供たちを連れて名物料理を出すレストランに行くことも多いわね。彼はそれでも全然不平を言わないわ。なぜなら、彼にとって食事というのは、生きるために仕方なくやっている作業に過ぎないのよ。彼は、食事を楽しむ時間があったらその分マシンに乗っていたい、という考え方なの。別にわざとステーキとポテトだけを選んでストイックぶってカッコつけてるわけじゃなくて、本当に食事には興味が無いのよ。でもあれじゃ栄養のバランスが悪すぎだわね」。

そんな調子でビルヌーブはモナコGPの前座であるパーティーに出席しても、相変わらず「ステーキとポテトだけを食べたら後はさっさと帰って、レースのことを考えたい」という具合だった。しかし、各国の首相が参加するパーティーでそんなことを言うわけにもいかず、ビルヌーブは仕方なく、興味も無い高級料理を一緒に食べなければならなかった。この食事は彼に言わせれば、味などどうでもよく、かなり退屈だったらしい。

しかし、ここモナコGPはドライバーの持久力が大切なネックとなることも確かだ。ジョアンナ夫人はそれをよく知っていて、ビルヌーブにできるだけいろんな料理を食べてスタミナを付けるように奨めた。ビルヌーブはただ料理を奨められるだけでは断っていたところだが、レースのためという理由が入れば、率先していろんな料理を食べた。ジョアンナ夫人もなかなかに、彼の扱い方を心得ていた。

さて、そうこうしているうちにモナコGPの予選が始まった。

予選でビルヌーブは、ターボエンジン用のドリフト走行をこれでもかというくらいに爆発させた。第1戦のロングビーチGPで披露したあの走行に更に磨きがかかったもので、マシンを真横にしてコーナーに入った際に、モナコのコースのバンピーな路面のせいで、ビルヌーブの126Cは真横になったまま一瞬空中に浮き、そして着地。このアクションが繰り返された。コーナーごとに彼の126Cは猛烈な勢いでスキップしながら空中に浮いては着地を繰り返すという、スキッピング・ドリフトとでも言うべきコーナリングを見せた。というより、ビルヌーブの走り方でバンピーな路面のモナコを走ると、自然にマシンが激しくスキップするのだ。

直線など全く無いに等しいコースなのに、相変わらずアクセルを全開にしている時間が異常なまでに長く、そのフルパワーを伝えられたリアタイヤからはコンパウンドのカスが飛び散り続けた。もちろんコース上の殆どにおいてビルヌーブのマシンは横を向きっぱなしである。

そして、昨シーズンの312T5で実行した、わざとリアタイヤをガードレールに「ドンッ!」とぶつけて、その反動でマシンの向きを変えて次のコーナーへの進入に備えるという、跳ね返りドリフトまで織り交ぜて見せた。

観客たちはただただ呆然とするばかりで、ビルヌーブのこの激烈なパフォーマンスに見入った。

一般的には、「低中速コーナーが連続するモナコのコースほど、ターボエンジンのマシンにとって不利なコースはない」と言われていた。「ターボラグによるコーナー出口での立ち上がりの悪さは、ドライバーのテクニックだけでは到底克服できず、よってターボエンジンのマシンはモナコでは遅い」とまで言われていた。

にも関わらず、ビルヌーブは先述の走り方でなんと予選2位のグリッドを獲得した。ポールポジションはブラバムのネルソン・ピケだったが、そのすぐ隣のグリッドである。この予選結果には誰もが驚かされた。「ターボエンジンのマシンはモナコでは遅い」という常識に加えて、「どんなに頑なな常識にも例外はあるものだ」と誰もが認めざるを得なかったのだ。とあるジャーナリストに至っては「ステーキとポテトを主食にしていれば不利なモナコでも速く走れるんだなぁ」と冗談で誤魔化し、ビルヌーブの神業な走りに対して、ただもう笑うしかないというほどだった。

チームメイトのピローニは、ビルヌーブの強烈な速さとクレイジーなコーナリングに圧倒されて焦ったのか、予選走行で3回もクラッシュしてしまった。そのためにスペアカーのセッティングに手間取り、ピローニは予選17位のグリッドに沈んだ。たとえピローニがクラッシュせずに順調に予選を走っていたとしても、ガラクタ126Cましてターボエンジンでは、せいぜいピローニは予選10番以内に入れるかどうかも怪しかっただろうし、それがモナコでの本来の妥当なグリッドというべきだろう。それほどまでにビルヌーブの速さが異常なのである。

決勝のスタートでは、ビルヌーブはロケットスタートを決めることができず、ピケを抜いてトップに躍り出ることはできなかったが、ピケの真後ろにピッタリと張り付いて、トップを奪うべく何度もアタックを仕掛けた。

それとほぼ同じくして中団グループでは多重クラッシュが起き、数台がリタイアした。アラン・ジョーンズとピローニはこのクラッシュに巻き込まれることなく、自動的に二人とも順位が上がった。

ビルヌーブは相変わらずトップのピケを猛追していたのだが、126Cのブレーキの利きがだんだん弱くなっていってしまった。ブレーキのフェード現象である。モナコはブレーキを酷使するサーキットでも有名だが、126Cのブレーキの耐久性や信頼性は低かったのだ。これもシャシー設計でのミスの一つに入る。

ブレーキのフェード現象のためにビルヌーブは少しだけペースを落とさなくてはならず、そのために後ろに迫ってきていたジョーンズにブレーキング競争で抜かれてしまい、ビルヌーブは3位に落ちてしまった。

一度フェードを起こしたブレーキというものはなかなか制動力が回復しないどころか、レース終了までフェードが悪化していくものである。ビルヌーブはこのままジリ貧になっていくだろう、と誰もが思った。

しかしこの時点でビルヌーブは、「スタートから今まではピケを突っついていたから、思ったようなレコードラインを取れなかったけど、これで予選と同じ走り方ができるじゃないか」と考え方を変えた。彼得意の、予選さながらのギリギリのドリフト走行をレース終了までずっと続けるというレース運びに切り替えたのだ。

ここからのビルヌーブの走りは、予選で見せた激烈なスキッピング・ドリフトと跳ね返りドリフトを織り交ぜたものに変わっていった。なんとなればこの走法は、ブレーキにそれほど負担をかけずにすむので、ブレーキがフェードしていてもタイムにはあまり影響は出なくなるのだ。ビルヌーブはこれを生かした。観客からしてみれば、ビルヌーブの走りが予選走行と同様の過激なものに変わったことは、この上なくスリリングなショーだった。

一方、2位のジョーンズは(序盤でビルヌーブがやったように)トップのピケに張り付いてプレッシャーをかけ続けていた。やがてピケは冷静さを失ってクラッシュという自滅の道をたどる。

この時点でトップはジョーンズ、2位がビルヌーブとなった。しかしジョーンズは30秒近くもビルヌーブを引き離していた。先ほどから走り方を変えたビルヌーブは、過激でクレイジーなドリフト走行で追い上げ、少しずつジョーンズとの差を縮めていった。フェードした126Cのブレーキを抱えながらの追い上げは、かなり危険な雰囲気が漂っていた。

やがて、ジョーンズのマシンにも不具合が出始めた。ジョーンズのウイリアムズは燃料がベーパーロックを起こし始めて、エンジンパワーが上がらない状態になっていったのだ。これでビルヌーブのマシンもジョーンズのマシンも、共にトラブルを抱えたままトップ争いをすることになったのだが、ジョーンズのペースが僅かに落ちているので、今までのビルヌーブの追い上げが更に功を奏するものとなった。

まるで、必死になって逃げるジョーンズ、地の果てまでも追いかけるビルヌーブというかんじで、観客たちはビルヌーブの追い上げに熱狂的になった。こういう時の観客の心理は決まっている。ビルヌーブがトップ争いに関わると、レースは他の誰よりもスリリングなものになるということだ。実際ビルヌーブの走りはスリリングそのものだった。

ビルヌーブの126Cはコーナーごとに真横になり、空中に浮いては着地して狂ったようにスキップし、リアタイヤがガードレールにぶつかり、その反動で全く逆の方向にマシンが向いて次のコーナーに突入、この情景が際限なく繰り返された。こんな極めてクレイジーな走り方でトップを追うというのは、観客にとっては熱狂的以外の何物でもない。

そして、その時は訪れた。残りわずか4周というところの第一コーナーで、とうとうビルヌーブはジョーンズを抜いた。そのままジョーンズの追従を許さず、ビルヌーブはトップでチェッカーを受けた! 本当に久しぶりの優勝である。

ターボラグという致命的な宿命を抱えたエンジン、そのエンジンには全く不利なモナコのコース、シャシーグリップの貧弱さ、そしてブレーキのフェード。126Cが抱えたこれら全ての逆境とデメリットを、ビルヌーブはずば抜けたテクニックと集中力で見事に克服したのだ。序盤でジョーンズに抜かれた後、走り方を変えたことが優勝のカギとなったのだった。

他のチームどころか、フェラーリチームのスタッフでさえも、「126Cなどという絶望的なマシンで優勝とは、信じられない!! 神業だ!!」と驚愕していた。

126Cのとことん不利な性能をいちばんよく知っているエンツオ・フェラーリは、この奇跡的な優勝に感涙を禁じえなかったという。記者会見でエンツオ・フェラーリはジャーナリストたちのインタビューに答えた。「諸君、今シーズンの初めに私はビルヌーブから“126Cはガラクタだ”と言われたのだ。とてもF1マシンとは思えないほどの、ひどい出来だということだ。しかし我々には殆どなす術がなかった。何しろシャシーの改善は思ったようには進まなかったからだ。だがビルヌーブは絶対に諦めることなく、ガラクタのひどいマシンで、しかも極めて不利なこのモナコで優勝を遂げた。これは、神業、奇跡、快挙、どんな言葉でも表現しきれない」。

エンツオ・フェラーリまでもが認めた126Cの出来損ないぶりは、ビルヌーブがモナコで優勝したことの凄さを証明するのに充分すぎるほどだった。

ビルヌーブも記者会見で優勝の喜びを表していたが、一言、「やっぱりステーキとポテトばっかり食べてたんじゃダメだね。ジョアンナに奨められて他の料理を食べたことも勝因の一つだよ」と冗談を言って報道席を笑いに包んだ。こういうユーモラスな一面も、彼の人間的な印象を良くすることに一役買っていた。

こうしてビルヌーブは、今までよりも更にF1界での評価が上がったのである。彼のテクニックと速さを否定する者は、もはや一人も居なくなった。

また、チームメイトのピローニは、スタート直後の多重クラッシュのおかげで労せずして順位を稼いだとはいうものの、地道に頑張って4位入賞を果たした。これでフェラーリチームはコンストラクターズ・ポイントを大幅に獲得することができたのだった。


ジャック・ラフィーの絶句(1981 スペインGP)

前回のモナコGPでは、ビルヌーブの常軌を逸した速さに加えて彼の大得意なコースだったこともあり、126Cでもなんとか優勝できた。しかしピローニのほうは、スタート直後の多重クラッシュによって順位が自動的に上がったに過ぎず、ピローニは運に助けられたゆえの4位だったのだ。つまり、マシン自体のシャシーグリップは相変わらずガラクタ同然だったのだ。

モナコGPで結果を得たとはいうものの、フェラーリチームのシャシー開発スタッフにしてみれば、126Cのシャシー改善は相変わらず見出せずに困っていた。その状況を知っている外部のレース関係者たちに言わせれば、「もうフェラーリは、前回のモナコGPのようにはウマくはいかないだろう」というのが大方の意見だった。126Cのシャシー性能は相変わらずダメなままで、レース関係者からまでもガラクタ呼ばわりされていた。

そんな、マシン的に希望の見えない状態で、スペインGPの予選が始まったのだが、やはりここでは前回のような奇跡は起きなかった。どんなに頑張ってもビルヌーブは予選7位、ピローニは予選13位のグリッドしか得られなかったのだ。

ポールポジションを取ったのはリジェに乗るジャック・ラフィーだった。その後のグリッドにアラン・ジョーンズ、カルロス・ロイテマン、ジョン・ワトソン、アラン・プロスト、ブルーノ・ジャコメリと並び、その次がビルヌーブだった。

しかしビルヌーブは決して諦めなかった。決勝でフォーメーション・ラップを回り終えて再びグリッドについた時、「スタートダッシュでどこまで抜けるか、イチかバチかの賭けをしてやる」と、ビルヌーブはコクピットの中で静かに燃えていた

そしてグリーンライトが点灯してスタート。ポールのラフィーがスタートをミスり、ジョーンズとロイテマンに抜かれて、彼らウイリアムズの2台が先頭に踊り出た。各車そのままの順位で第一コーナーに突入かと思われたが、ビルヌーブだけは違っていた

ビルヌーブは126Cのアクセルペダルを床に踏んづけたまま、シフトアップの時も決してアクセルを緩めることなく、エンジンを大幅にオーバーレブさせて、物凄い勢いで車線変更しながら、ジャコメリ、プロスト、ワトソン、ラフィーを第一コーナーの手前で抜いていった。そしてビルヌーブは、先頭を走るウイリアムズの2台を猛追した。ビルヌーブ得意のロケットスタートがほぼ100%発揮されたといってもいい、素晴らしいスタートダッシュだった。ビルヌーブは、今まで実行したスタートダッシュの中でも取り分け危険度の高い、限界を超えたと言ってもいいスタートダッシュに賭けていたのだ。そしてその賭けは成功したのだ。

2週目、コーナーの突っ込みでビルヌーブはロイテマンを抜いて2位になった。しかしトップのジョーンズはだいぶ先を行ってしまっている。ウイリアムズのマシンの完成度は素晴らしく、126Cのようなシャシーグリップの大幅に劣るマシンで追いつくのは至難のワザだった。ビルヌーブは諦めずに懸命に飛ばしたのだが、やはりマシンの大幅な性能の差はカバーできず、少しずつジョーンズとの距離が離れていってしまう。

しかし、スペインの高い気温がジョーンズを襲った。ジョーンズはコクピット内のあまりの暑さに頭がぼやけて、一瞬反射神経が鈍り、コーナリングをミスってコースアウトしてしまった。ジョーンズは何とかダートから飛び出したが、トップグループからは完全に脱落した。ジョーンズにとって今回のスペインGPでの気温はあまりにも過酷だったのだ。

この時点でビルヌーブがトップとなったのだが、一瞬でも油断は許されない状態だ。何しろ126Cは一周に付き、エンジンパワーの面では他のマシンよりも2秒以上は有利だったのだが、コーナリングスピードの面では4秒以上も不利だったからだ。結果として一周につき2秒以上も不利ということになる。126Cは極度に不安定なコーナリング性能のために、普通にコーナリングしていたのでは、たちまち後続車たちに抜かれてしまう。トップに立ったとはいうものの、このままでは、お先真っ暗も同然だ。ましてビルヌーブの真後ろには、4〜5台の後続車が既に追いついていて、トップグループは団子状態になっていた。126Cは一周につき2秒以上も不利なのだから、ビルヌーブがたちまち後続車に抜かれるのは目に見えている。

そこでビルヌーブは、今まで以上にマシンをハデに横に向けてドリフトし、ブロック走行を開始した。もちろんブロックは正当なレーシングテクニックだ。

ただ、126Cという、明らかにコーナリング性能の数段劣るマシンでブロックを続けることは、いつコントロールを失ってコースアウトするか解らないことを意味する。こんな極めて危険な状況でも、ビルヌーブは臆することなくブロック走行を続けた。

ここまでならば、まだ他のドライバーたちにもチャンスがあった。なぜなら、ブロックをしているマシンというのは明らかにコーナリングスピードが遅く、よって若干レコードラインを外して突っ込めばコーナリングスピードで勝てる=抜けるからである。

しかしビルヌーブのブロック走行は普通ではなかった。本来のレコードラインを縦横無尽に横切り、どこから攻められても126Cの車体の一部が障壁となってブロックできる、こういうテクニックをビルヌーブは駆使していた。

つまり、不安定なコーナリング性能の126Cでは到底考えられないことだが、ビルヌーブはブロック中のドリフト走行におけるラインを自由自在に操っていたのだ。これが事実なのだから恐ろしい。

このテクニックには、ビルヌーブの後ろに張り付いているドライバーたち全員が驚いた。「信じられない。126Cなんていう不安定なコーナリング性能のマシンでドリフト中のラインを自由自在に変えるなんて! しかもその時々のあらゆる攻めに応じた柔軟性のあるブロックだ。奴は一体どんな魔法を使っているんだ? こっちのほうが明らかに速いのに、どうしても抜けない。このブロックを打開できない。どうすればいいんだ!?」。

後続車のドライバーたちが焦りを感じている中、その後続車たちの中では順位が数回変わることがあった。しかし、ビルヌーブがトップだという状況はいつまでも変わらなかった。ちなみにスタートで出遅れたラフィーはジワジワと追い上げてきていて、トップグループの仲間入りをして、ビルヌーブに次ぐ2位のポジションにまで上がってきた。ビルヌーブを攻め落とせそうなのは、勢いのあるラフィーしか居なかった。

ゴールまであと18周というところで、しびれを切らせたラフィーは、思いつく限りのあらゆる方法と走行ラインでビルヌーブを抜きにかかったが、もう少しのところで抜けなかった。どう攻めても、126Cの車体のどこかが邪魔をしてブロックされてしまうのだった。

126Cというマシンでドリフト中のラインを自由自在に操るだけでも驚異的なのに、もっと信じられないことに、ビルヌーブが走るブロック走行のラインは、誰がどう見ても不当な部分や強引な部分が全く無く、極めて自然なラインで、100%純粋なレーシングテクニックだったことだ。他のドライバーならば、ちょっと小ずるい、やや走路妨害とも思える方法でブロック走行のラインを変えることも時々あるのに、ビルヌーブに限っては走路妨害のカケラも感じさせなかった。FISA、ドライバー、観客、テレビ視聴者の誰が見ても、ビルヌーブのブロック走行は、どこまでもフェアなものであり、かつ完璧のガードだったのだ。

ここまで正当で完璧なブロックをされているからには、後続車にとってはもうビルヌーブがミスをするのを待つしかなかった。ビルヌーブが一瞬でもドリフト中のマシンの挙動を乱したり、一回でもシフトミスをすれば、後続車の誰か、特に一番気合の入っているラフィーに抜かれることはまず間違いない。

ラフィーはレースが残り少なくなっていくにつれ、果敢にリジェのノーズをねじ込ませて、ビルヌーブにプレッシャーを与え続けた。だがビルヌーブは全く動じず、平然としてブロック走行を続けた

いよいよ最終ラップがやってきた。ラフィーは最後のアタックとばかりに、126Cのアウト側一杯のラインを取った限界ギリギリの追い抜きに挑戦したが、ビルヌーブの走りの限界のほうがもっと高かったためにラフィーの追い抜きは失敗し、そのままトップグループは団子状態でチェッカーを受けた。トップはビルヌーブだ! ビルヌーブは、このスペインでも奇跡的な優勝を遂げた! モナコに続いて二連勝である!

トップグループであるビルヌーブ、ラフィー、ワトソン、ロイテマン、デ・アンジェリスの差は1.24秒差という、とんでもなく接近したゴールだった。1.24秒の中にトップグループ集団が全て入っていたのだ。

レースを見ていた関係者、マスコミ、観客の全てが、ビルヌーブの人間離れしたテクニックを認めた。観客も報道陣も、他のチームの関係者も、そこらじゅうで驚きの声を上げた。

優勝したビルヌーブ、2位のラフィー、3位のワトソンは表彰台でシャンパンファイトを繰り広げた。ビルヌーブのF1界での評価は、モナコの時よりも更に上がったのだった。エンツオ・フェラーリは、「今日のビルヌーブの走りは、かつての天才ドライバー、ヌボラーリの再来と言っても過言ではない」と、極めて高く評価した。

ちなみにチームメイトのピローニは、自らのミスでノーズを壊してしまい、ノーズ交換のためにピットインをしてタイムロスをしてしまい、レース結果は15位だった。しかしこのピットインが無かったとしても、ピローニは上位でフィニッシュはできなかっただろう。126Cの性能を考えれば、それが普通なのである。同じマシンに乗るピローニと比べてみてもビルヌーブの異常なまでの速さとテクニックが解るというものだ。

惜しくも5位でフィニッシュしたエリオ・デ・アンジェリスは報道陣にコメントした。「まいったよ。僕はわずか1.24秒差の中に居て、もしジルがミスをしようものなら、場合によっては僕が優勝していてもおかしくはなかった。だけどジルは要所要所をキッチリ完璧にブロックで押さえて、明らかに僕たちよりもラップタイムが遅いのに…僕たちは抜けなかった。ジルは本当に凄い奴だ。あんな過激でパーフェクトな走りを目の前で見ることができて、僕はある意味幸せかもしれない。だって、あのコーナリング・テクニックは既に芸術の域に達しているんだから」。

ワトソンとロイテマンも同じようなコメントをして、ビルヌーブのテクニックの凄さを語っていたのだが、ラフィーは終始無言だった。

無言だったというのは不正確かもしれない。ラフィーは、ビルヌーブのテクニックと冷静さとタフさを目の前で見せられて、絶句していて、どうコメントしたらいいか解らなかったらしい。リジェのノーズを126Cの横に強引に突っ込んで果敢にアタックしていったにも関わらず、全く効果が無かったのだから無理も無い。やがてラフィーは、これしか言えないという表情で言葉を漏らした。

「ジルには負けたよ………。あんな………あんなひどいマシンで勝つなんて………」

 


見とれていたカメラマン(1981 フランスGP)

フランスGPでは、ビルヌーブの予選走行が、カメラマンを虜にした。

とある特徴的なコーナーがあった。そのコーナーはクリッピングポイントまでが上り坂、そしてクリッピングポイントから後は下り坂という、上昇と下降を織り交ぜたコーナーだった。

そのコーナーでビルヌーブは、例によってコーナー手前からマシンを真横にして、220キロ以上スピードが出ている状態で、クリッピングポイントをかすめてコーナー出口まで完全にマシンを横に向けたまま走りぬけた。つまり彼の126Cは、真横になりながら上昇と下降のコーナーを駆け抜けたのだ。それが予選の間中、延々と続いた。もちろん彼の126Cはフルカウンター&フルスロットルのまんまだ。

これにはカメラマンたちも見とれてしまった。カメラマンたちは何度シャッターを切ったか覚えていないというほどだった。なにしろ100メートル以上も真横になったままコーナーを駆け抜けていく様は、カメラマンにとっては絶好のシャッターチャンスだったからだ。

(1989年のイタリアGPでゲルハルト・ベルガーが時速200キロでスピンした時、ベルガーは「今までで一番怖いスピンだった」と言ったことがあったが、ビルヌーブはそんな恐怖感はカケラも持っていなかったのだ)

そういう風にビルヌーブはがんばったのだが、なかなかセッティングが決まらず、予選結果は11位のグリッドしか得られなかった。しかも決勝ではマシントラブルでリタイアしてしまった。マシントラブルがなければ、上記の予選の走り方を決勝でも実行していたのだし、追い上げが得意なビルヌーブのことだから、だいぶ上の順位でフィニッシュしたであろうと思われる。


ピローニの精神的な弱さ(1981 イギリスGP)

イギリスGPでは、ビルヌーブは予選で8位につけた。しかしチームメイトのピローニは予選4位にまでつけた。ピローニの地味ながらも速い走りがだんだん実証されてきたのだ。「ピローニよ、あっぱれ」と周りの者たちは賞賛した。

しかしピローニは、速さは素晴らしかったのだが、人間的に決定的な問題があった。ピローニは決勝で、後ろから追い上げていたビルヌーブに道を譲らなかったのだ。アラン・プロストに告ぐ2位を走っていたピローニは、既に3位にまで浮上していたビルヌーブを執拗に押さえ込んで抜かせようとしなかった。強引にブロックして抜かせなかったのだ。

このピローニの強引なブロックは、ビルヌーブが先のスペインGPで実行したような正当で非の打ち所の無い立派なレーシング・テクニックと比べたら、本当に月とスッポンで、全く性質が違っていた。ピローニのブロックは、ほとんど走路妨害に等しかったからだ。

人情として考えても、人道的に考えても、ピローニはビルヌーブに道を譲るべきなのだ。それがF1レーシングの常識だ。1979年のイタリアGPでビルヌーブがシェクターの後ろに付いてシェクターを決して抜かずに、ナンバー2ドライバーとしての自覚を持って謙虚でフェアな走りをして、優勝の誘惑に負けることなく、2位でフィニッシュしたように、本来はピローニもナンバー2ドライバーとしての自覚を持つべきなのだ。それが当然の義務なのだ。

これは、もともとピローニが名誉欲と地位欲に駆られてフェラーリチームに入ったことにも起因する。チームに入ったばかりの頃のピローニはおとなしくしていたが、チームに慣れてくるにしたがって、だんだん自己中心的になってきていて、名誉欲と地位欲を現してきたためだった。要するに今回の決勝での不当で強引なブロックにより、ピローニの化けの皮が剥がれたのだ。

ピローニには精神的な弱さもあった。不当な方法でチームメイトを強引にブロックしてでも上の順位になりたい、という、名誉欲と地位欲に負けてしまう弱さだ。このピローニの強引なブロックには、ビルヌーブも不快感を覚えた。どこまでもフェアプレイをするビルヌーブだからこそ、尚更ピローニの強引なブロックに不快感を持ったのだ。

このピローニの強引なブロックのために、ビルヌーブはあわてて減速せざるを得なくなることが多く、その隙を突かれてアルヌーに抜かれてしまい、ビルヌーブは4位に落ちてしまった。

それで焦ったのか、ビルヌーブはウッドコートシケインを抜ける時に、尋常ならぬスピードで突っ込んでいった。しかし思ったとおりリアタイヤがスライドし、縁石に激しく乗り上げて、ビルヌーブの126Cはハデにタイヤから白煙をあげながら大スピンをしてしまった。

このスピンのあおりを食らった後続車はフルブレーキングとニアミス回避に必死で、なんとか難を逃れた。しかしアラン・ジョーンズはコースアウトし、アンドレア・デ・チェザリスに至ってはキャッチフェンスに激しくクラッシュした。やり場の無い怒りを抱えたチェザリスは、コース脇に居た観客からの笑いに対して更に憤慨し、観客に対して「うるせー!!」と怒鳴った。チェザリスは怒りっぽいことでも有名である。

一方のビルヌーブもキャッチフェンスに激しくクラッシュして、フロントウイングはかなり曲がって、タイヤの一つはバーストし、サイドポンツーンはメチャクチャという状態にも関わらず、コースに復帰して、なんと全開走行を始めた。これだけでも観客たちは度肝を抜かれた。「あんな状態のマシンでピットまで戻る気なのか?」とみんなが驚いた。1979年のオランダGPでの三輪走行よりももっと過激で危険な行動である。ビルヌーブは「マシンが動く限りは何が何でも走る」というポリシーをここでも実行したのだ。

ビルヌーブはこんなクラッシュしたスクラップ同然のマシンでも、ピットに戻るべく全開走行をした。しかし、ピットまで戻る前に、他のパーツまでもがメチャクチャに破損して、全く走れない状態になったため、ビルヌーブは仕方なく、ピットに向かう途中でリタイアを決断した。

このレースで印象に残ったのは、ピローニの人間的な問題と精神的な弱さ、そしてビルヌーブがピローニに対して「ディディエはもしかしたら卑怯な奴かもしれない」という疑惑を持ち始めたことだった。


ピケとジョーンズからの絶賛(1981 ドイツGP)

ドイツGPが始まる前に、今シーズンのワールドチャンピォンの有力候補であるネルソン・ピケそしてアラン・ジョーンズに、ジャーナリストがインタビューをした。

こんな風に、ピケとジョーンズはビルヌーブのことを、今シーズンは低迷しているにも関わらず絶賛した。ビルヌーブが126Cという絶望的なマシンで時々見せる神業な走りを、二人はよく知っているからだ。もちろん他のドライバーたちも知っていたことは言うまでも無い。

しかし今回のドイツGPでは、ビルヌーブは予選8位、そして決勝ではタイヤがタレてきたための緊急ピットインにより、10位に終わった。

リザルトだけを見れば、一見、「ビルヌーブはそんなに速くは無い」という印象を受けるかもしれないが、それはとんでもない勘違いなのだ。ただ単に、絶望的なマシンに乗っているから結果が出ないというだけのことである。そのことはピケとジョーンズのコメントを見ればよく解るというものだ。


グッドイヤーのF1界への復帰(1981 オーストリアGP)

オーストリアGPからは、今までF1界から一時的に撤退していたグッドイヤーが復帰した。復帰してきたグッドイヤーのタイヤの性能は素晴らしく、これはミシュランタイヤを履いたチームにとってはかなり不利になる。もちろんフェラーリチームも例外ではない。

昨シーズンまでのグッドイヤーとミシュランの戦いが、また始まったわけである。しかし悲しいかなミシュランのタイヤは、グッドイヤーに比べると相当性能が劣っていた。当然その分ビルヌーブやピローニにも、タイヤの性能差という、とばっちりが来るのである。

にも関わらず、ビルヌーブは不利な126Cそして更に不利なミシュランタイヤという状況で、予選で驚くべき3位につけた。前回のドイツGPでアラン・ジョーンズが言っていた、「ジルはあんなガラクタマシンでも奇跡的な走りを見せるから油断はできないね」という言葉が見事に現実となったのだった。

そして決勝レース。ビルヌーブは得意のロケットスタートを決めて、1週目の終わりの最終コーナーを抜ける時点でなんとトップに躍り出た。126Cとミシュランタイヤの性能を考えれば信じがたいことである。

しかし、グッドイヤータイヤに比べるとミシュランタイヤは耐久性に欠けていて、決勝レースでは余儀なくタイヤ交換のためのピットインを強いられることが予想されていたのだ。思ったとおりレース中盤にも差し掛からない内にビルヌーブのタイヤはどんどん消耗していき、やがてタイヤが殆どグリップしなくなっていた。それでも「タイヤをダメにする危険を冒してでも全力でトップを守りきる」というビルヌーブの決意は変わらなかった。

しかしそれはあまりにも危険すぎた。殆どグリップしなくなったビルヌーブのマシンは、シケインの出口でコントロールを失ってコースアウトしてしまい、6位に落ちてしまった。

それでもビルヌーブはタイヤ交換のためのピットインという手段は選ばなかった。タイヤがグリップしなくなったのなら、それを逆手にとってドリフトしまくればいい、という考えで、あらゆるコーナーで彼は126Cを真横に向けて走り抜けた。

だがそれもつかの間、タイヤのグリップ性能があまりにも下がりすぎたために、ドリフト走行でさえもタイヤは言うことを聞いてくれず、ビルヌーブのマシンはコーナーでコントロールを失って激しく横っ飛びし、コース脇のバリアに激突し、リタイアとなった。グッドイヤー勢に対抗するには、あまりにも無茶な試みだったのだ。

フェラーリチームにとっては、ミシュランタイヤを履いたマシンの宿命に、また悩まされることになったのである。


「フライング・ビルヌーブ」という愛称(1981 オランダGP)

オランダGPでは、ビルヌーブは予選16位のグリッドしか得られなかった。ミシュランタイヤの泣き所がモロに出た予選だった。ピローニは地味ながらも確実な走りを見せて、ビルヌーブよりも上の12位のグリッドを得た。

僅かずつではあるが着々と速さを増していくピローニに対し、ビルヌーブは例によってイチかバチかのドリフト走行をしていたために、今回はその賭けが外れた予選結果となったのだ。

決勝のスタートでは、ビルヌーブは「とてつもないスタートダッシュを見せてやる。これもイチかバチかの賭けだ」と意気込んで、猛烈な加速で他車の僅かな隙間をすり抜けていった。しかしスタートダッシュの途中でブルーノ・ジャコメリのアルファロメオのタイヤに乗り上げ、ハデに宙を舞って他車の頭上を飛び超えて、第1コーナー脇のバリアに突っ込んだ。

この結果ビルヌーブの126Cはフロントサスがメチャクチャに壊れてしまい、完全に走行不能となったために、彼はすぐにマシンを降りて第1コーナーを駆け足で横切ってピットに帰った。

観客はビルヌーブのハデな空中遊泳クラッシュを見て「フライング・ビルヌーブ」という愛称を付けた。後日のモータースポーツ雑誌でも、「スタートの後の“フライング”をしたビルヌーブ」という、彼が宙を舞ったことへの皮肉の見出しを付けた。今までのビルヌーブのレース戦歴におけるクラッシュの中で、ハデに宙を舞うシーンが多かったためであろう。

チームメイトのピローニも、自らのミスでパトリック・タンベイのリジェに接触してクラッシュし、同じくリタイアとなってしまった。フェラーリ勢は全滅という、散々なレースだった。


ピローニの自己中心的な行動(1981 イタリアGP)

以前にもピローニの人間的な問題について触れたが、ここイタリアGPでも、ピローニの自己中心的な行動が見られた。

ピローニは予選で、時速200キロを超えるスピードでクラッシュしてしまい、126Cを完全にスクラップにしてしまった。そしてピローニは、最初は普通に自分用のスペアカーに乗り込んで予選走行を再開した。

と、ここまではよかったのだが、ピローニのスペアカーは挙動がかなり不安定でマトモなラップタイムを出すことは難しそうだった。ここでピローニの自己中心的な性格が出てしまった。ピローニは再びピットに戻ると、なんとビルヌーブ用のスペアカーに乗り込んでピットアウトしてしまったのだ。チームのスタッフの言うことも聞かずに、ただ自分のスペアカーの調子が悪いからという理由だけで、ビルヌーブに無断でビルヌーブ用のスペアカーを使ってしまったのだ。

これには、さすがの冷静なビルヌーブも怒った。ビルヌーブの1台目のマシンは、予選中にターボトラブルを起こしてエンジンから白煙を噴きながらピットまで戻ってきたのだが、ビルヌーブは当然自分用のスペアカーを使って予選走行を再開するつもりだった。これが普通の道理である。ところがビルヌーブがピットに戻ってみると、彼用のスペアカーが無い。既にピローニが乗っていたからだ。こんなことをされては、ビルヌーブに限らず誰でも怒って当たり前である。

まして、ピローニがそういう不当な方法で予選8位を得て、スペアカーを奪われて指をくわえてピットでイライラしているしかなかったビルヌーブは、結果的にピローニよりも劣る予選9位という、極めて不本意なグリッドしか得られなかった。もしビルヌーブが彼用のスペアカーで予選走行を再開していれば、彼の予選順位は9位などというグリッドにはならなかったハズなのに、である。ビルヌーブはピローニの人間性に対して、更に疑惑を抱いていた。

決勝でもビルヌーブは126Cのターボトラブルに見舞われ、僅か数週でリタイアとなってしまった。

今回のピローニの自己中心的な行動は、まるで来シーズンのイタリア(サンマリノ)GPでの、例の「裏切り行為」を予想するかのようだった。


優勝にも等しいレース結果(1981 カナダGP)

今シーズンも、ビルヌーブの母国カナダでのGPがやってきた。それに前後して、来シーズンの1982年もビルヌーブはフェラーリチームに在籍することを表明し、記者会見でも正式に発表された。

ビルヌーブが契約を更新した大きな理由としては、今シーズンの途中から、あのハーベイ・ポストレスウェイト博士がシャシー開発スタッフとしてフェラーリチームに既に参入していたからだ。ハーベイ博士は126Cの改良版とも言える126C2というニューマシンの開発をかなりのところまで進めていた。

そして今までの各GPの合間に、開発中のニューマシン126C2のテスト走行が繰り返されてきた。テスト走行の結果は喜ばしいもので、126C2というマシンは現行の126Cと比べたら、改良版と言うにはいささか表現不足で、全く新しい、シャシー完成度の極めて高い別物のマシンだということが判明した。ハーベイ博士のシャシー開発能力は素晴らしいものだったのだ。

更に126C2用のエンジンの設計も進んでおり、よりパワフルなものとなっていたことも嬉しい事実だったのだ。「これならば来シーズンの我々は完全に低迷期から脱することができるだろう」とフェラーリチームの誰もが思った。

このように、126C2のシャシー性能とエンジン性能にはかなり期待できそうだったので、ビルヌーブは「来シーズンはとても条件が有利になる」と確信して、在籍契約の更新を決意したのだった。

さて、今回のカナダGPにはビルヌーブの弟ジャック(息子の名前もジャックだが、弟の名前もジャックだった。ちょっと紛らわしい)がアロウズに乗って参加していて、予選中、兄ジルのスリップストリームで弟ジャックは引っ張ってもらってなんとかタイムを上げようと頑張ったが、マシントラブルに悩まされ、弟ジャックは残念ながら予選落ちとなった。

兄ジルのほうのビルヌーブに話を戻そう。ビルヌーブは、予選のドリフト走行で126Cのサスペンションの不具合から大スピンをしてクラッシュしてしまい、スペアカーのセッティングに手間取って、予選を11位で終えた。

この時点では、地元のファンたちはビルヌーブの決勝レース結果には期待していなかった。くどいようだが、126Cというガラクタマシンで上位を狙うことはまず無理だと誰もが思ったからだった。しかし、やがてそのファンたちの沈んだ思いは覆されることになる。

雨があまりにも激しく降っていたために、決勝のスタートは1時間以上も遅れた。しかしこの雨はビルヌーブにとって何よりの救いだった。雨となるとグッドイヤー勢とのタイヤの性能差が殆ど出ないからである。

そして雨が少し弱まってきたので決勝はスタートとなった。他車たちが水煙の中をモタついて加速している最中にビルヌーブはスタートダッシュを決めた。ここまではよかったが、勢いがよすぎて、ルノーのアルヌーに追突してしまい、アルヌーはそのままコースアウトしてクラッシュしてしまう。

一方のビルヌーブのマシンは、フロントウイングがやや曲がり、アンダーステア気味になったにも関わらず、マシンを横向きにしてドリフト走行を続けた。

雨のおかげでグッドイヤー勢とのタイヤの性能差が無くなったために、ビルヌーブはどんどん追い上げ、レース序盤で早々に3位にまで浮上していた。11位のグリッドからなんと3位にまで追い上げてきたのだ。もちろんビルヌーブは3位で満足するような人間ではない。「優勝か無か」、ビルヌーブは懸命に飛ばした。

ところが前を走るエリオ・デ・アンジェリスがなぜか急ブレーキをかけたため、背後にピッタリ付いていたビルヌーブはエリオ・デ・アンジェリスにも追突してしまい、ただでさえ曲がっているフロントウイングがますます曲がって、更に風圧のためにフロントウイングは上を向いてしまった。

このままではビルヌーブに対してブラックフラッグ(故障・破損のためにピットインせよ、という命令のフラッグ)が出されるかもしれなかった。しかし「そんなことを考えているヒマはない」と、ビルヌーブは相変わらず全開走行を続けた。

ビルヌーブの気迫が幸いしたのか、ブラックフラッグが降られるよりも前に、完全に上を向いてしまった彼の126Cのフロントウイングは、風圧で自然に外れたのだ。これはブラックフラッグを免れたという意味でラッキーといえる。

というかビルヌーブは、「ブラックフラッグが出される前に、意図的にフロントウイングを脱落させてやる」と思って、わざとフロントウイングを各コーナー入り口の外側の壁にぶつけまくったのだった。風圧と同様に、この「フロントウイングぶつけ作戦」も効いたのだろう。ビルヌーブもなかなかに冷静な判断をしたものである。ブラックフラッグが出されれば当然強制的にピットインさせられ、フロントウイングを交換しなければならず、それはレースでの順位を強制的に下げられてしまうことを意味していたからだ。

フロントウイングが完全に無くなったためにフロントタイヤのグリップは極端に落ち、極度の、まさに悪魔的ともいえるアンダーステアにビルヌーブは苦しみながらも、全開走行をヤメなかった。やはり「どんなにマシンが損傷しても、走れる限りは走る」という彼の考えは変わらなかったのだ。

フロントとリアのグリップのバランスが極端に崩れているため、頼りになるのは彼特有のドリフト走行だけである。以前のレースにもあったことだが、「ウイングの損傷や脱落なんて眼中に無い!」と言わんばかりに、彼はゴールまで少しもスピードを緩めなかった。

こんなひどいスクラップ寸前の状態のマシンで、ビルヌーブはなんと3位でフィニッシュした。当然ながら、これには誰もが驚かされた。いくら雨でマシンやタイヤの性能差が出にくいとはいえ、シャシーグリップの貧弱な、しかもフロントウイングの無い126Cで3位とは、信じがたい結果である。

観客たちは「この3位という順位は優勝にも等しい!」と、1980年のカナダGPで発せられた言葉と同じ言葉を発した。ビルヌーブの尋常ならぬドライビングテクニックを見れば、まさにそのとおりである。

表彰台では、優勝したラフィーと2位のワトソン、そしてビルヌーブが登ったのだが、ラフィーとワトソンは口をそろえて言った。「ジルよ、この表彰台に登ってくるのがお前だとは全く思わなかった。あんなひどい状態のマシンで、よくここに登れたものだな。全くお前は、あんな状態のマシンでどう走ったら、この表彰台に登れるんだ? 本当にお前は凄い奴だよ。観客たちが言っているとおり、実質上の優勝者は、ジル、お前かもしれないな」。


来シーズンへの大いなる期待(1981 ラスベガスGP)

今シーズンの最終戦である、アメリカのラスベガスの公道を封鎖して作られたサーキットでのGP。これは「ラスベガスGP」という愛称で呼ばれた。とあるホテルの駐車場をコースの一部に使うというユニークなサーキットだ。

ビルヌーブの公道サーキットでの天才ぶりは相変わらずで、126Cを壊れるまでぶん回してやろうか、と思えるほどの過激な走りを見せ、予選では出来すぎといってもいい3位のグリッドを獲得した。

決勝レースのスタートでトップに躍り出ることを狙っていたビルヌーブは、その思いが強すぎて珍しく冷静さを欠いたのか、スターティンググリッドにマシンを停める際にミスってしまい、グリッドの正規のラインよりも僅かに前に出てしまった。このままレースはスタートとなって、ビルヌーブは2位争いや3位争いを繰り広げていた。しかしビルヌーブの頭の中には「グリッド位置のことでペナルティを課せられるんじゃないか?」というイヤな予感がしていた。彼自身も自分の起こしたミスは解っていて「やっちゃったなぁ…」と思いながらレースを走っていたのだ。

しかし皮肉なことに、競技委員会からペナルティの判断が下される前に、ビルヌーブのマシンは燃料系統のトラブルでコース脇にストップしてしまい、リタイアとなった。

その直後、「正しいグリッド位置に停めなかった」という理由で、ビルヌーブはF1キャリアで初めての「失格」というペナルティを競技委員会から受けることになった。なんともバツの悪い終わり方である。

こんなバツの悪い終わり方で1981年シーズンは幕を閉じたのだが、フェラーリチームは来シーズンへの大いなる期待に胸を躍らせていた。シャシー性能においてもエンジン性能においてもかなり完成度の高いニューマシン126C2、そしてタイヤの契約先をいよいよグッドイヤーに変更するということで、来シーズンのフェラーリチームはコンストラクターズ・チャンピォンまでをも狙えるかもしれない、というほどに、飛躍的なレベルアップの準備が出来ていた。これもハーベイ博士の参入とエンジン設計者の勤勉さ、そして淡々と126C2のテスト走行を続けてきたドライバー、ビルヌーブとピローニの努力によるものだ。

来シーズンの126C2に与えられるカーナンバーは、今シーズンと同じで、ビルヌーブが27番ピローニが28番である。やはり来シーズンのビルヌーブのチームメイトは同じくピローニであり、ピローニはナンバー2ドライバーとして扱われるのだ。

ピローニは今まで時々やってきた自己中心的な行動を反省して、ビルヌーブに対して、「ジル、あの時はすまなかった。僕はナンバー2ドライバーなのにワガママだったんだ」と謝った。それによってビルヌーブはピローニの今までの行動を許し、「ディディエ、君だって僕と同様にレースへの執念に燃えている男だ。時々ワガママになっても仕方が無いよ。その代わり僕も時々ワガママになるかもしれないから、お互いにワガママは程々にして気をつけよう。ボスから“前代未聞の手に余るワガママコンビ”なんて言われたくないからね」と、冗談半分で返事をした。これによって二人のギクシャクしていた今までの間柄は解消されることになった。ビルヌーブとピローニは仲直りしたのだ。

ピローニは、ビルヌ−ブの人間性に心を打たれ、「ジルは天才ドライバーであるだけじゃない。ジルはとても率直でフェアで純粋な人間だ。こんないい奴をチームメイトに持ててよかった。今後は自己中心的な行動は控えよう。レースでもできるだけジルを援護するようにしよう。僕はナンバー2ドライバーとして、もっと謙虚にならなければいけない」と心に決めたのだった。

ピローニと仲直りしたことにより、ビルヌーブは気持ちがスッキリして、来シーズンのレース展開を思い描くことだけに集中することができたのである。


1982年


前置き:ビルヌーブの暗示めいた冗談

1982年シーズンのGPが開始されるシーズンオフの最中に、ハーベイ・ポストレスウェイト博士は、ビルヌーブの運転するフェラーリ308GTSの助手席に乗ることが時々あった。そしてハーベイ博士は、かつてジョディ・シェクターが味わった恐怖を何度も味わうことになる。

ビルヌーブとハーベイ博士は、ビルヌーブの運転する308GTSで、フェラーリの本部からかなり遠く離れた郊外のレストランまでドライブがてら出かけたことがある。その時のエピソードを後日、ハーベイ博士はジャーナリストに話した。

 

 

こういうエピソードは実にビルヌーブらしいと言える。どんなに危険に見える状態でもビルヌーブは冷静だったのだ。

しかしその一方で、ビルヌーブは今シーズンが始まる前に、こんな冗談を飛ばしたことがあった。

 

 

ビルヌーブが何の気なしに言ったこの冗談は、今シーズンに待ち受けている運命を暗示するかのようだった。


問題だらけのレギュレーション(1982 南アフリカGP)

今シーズンの初戦は、南アフリカGPだ。

今シーズンから投入されたニューマシン126C2の完成度には、今年で89歳になるエンツオ・フェラーリもご満悦だった。しかもタイヤは定評のあるグッドイヤーに変わっていたのだから尚更の喜びである。エンツオ・フェラーリは、「チームの諸君、今シーズンは、あの最高のマシン312T4で戦った時のように、自信を持って堂々とワールドチャンピォンそしてコンストラクターズチャンピォンを狙うことができる。実に喜ばしいことだ」と満足げに言った。

しかし、フェラーリチームの喜びをよそに、今シーズンから変更されたF1レーシングのレギュレーションは問題だらけだった。そのいくつかを挙げてみよう。

まず、マシンからはサスペンションが撤去され、ホイールを支えるアームのねじれを利用したものがサスペンションに取って代わった。それにより乗り心地はレーシングカート並にひどく、超高速で走るF1マシンならば尚更のこと、ドライバーには肉体的な負担が大きくかかることになった。

そして、予選用タイヤを2セットしか使えないようになり、もっと悪いことにこの予選用タイヤは、たった1〜2周しかもたないシロモノだった。つまりたった1〜2周のタイムアタックしか許されないことになる。予選中のコース上でウォーミングアップあるいはクールダウンしている他の遅いマシンを抜きながら一発勝負のタイムアタックをするのだから、これほど危険なことはない

次に、最も厄介なレギュレーションがあった。今シーズンのF1マシンたちはターボエンジンを積んだマシンと、ノンターボのエンジンを積んだマシンとが混在していた。どちらかというとノンターボなマシンのほうが多かった。そしてそのノンターボのマシンには「水タンク・バラスト」というものがあったのだ。この「水タンク・バラスト」は、名目上は「パワフルなターボ車に負けないように、水タンクの冷気によりブレーキを冷やし、ブレーキング性能を稼いで、ノンターボ車のハンデをカバーする」というもっともらしい理由だったのだが、実際の目的は「レース出走の時には水タンクの水を全部抜いて車重を軽くして加速と最高速を稼ぐ」という、不当な方法だった。そしてレース終了後の車検の時に水タンクに水を満タンに入れて重くして、最低限の車重を確保し、車検に引っかからないようにする、という、実に卑怯な方法だったのだ。そしてこのインチキ作戦ともいえる「水タンク・バラスト」の方法は、ノンターボ勢のチームの殆どがやっていた。

「水タンク・バラスト」の実際の目的=不当な目的を知っているFISAは、こんな方法をも認めてしまった。「ターボ勢とノンターボ勢の性能差が縮まるのなら面白い」という適当な理由を付けて、「水タンク・バラスト」を正式なレギュレーションとして認めてしまったのだ。どうして認めたのか、それは、「水タンク・バラスト」を採用しているノンターボのブラバム、そのブラバムチームのボスであるバーニー・エクレストンがFISAの権威だったからである。要するにバーニー・エクレストンは、自分が所有しているチームが有利になるからという腹づもりで「水タンク・バラスト」を認めたわけなのである。

このように、F1界は政治的な陰謀の臭いがプンプンしていた。

ノンターボ勢の「水タンク・バラスト」の効果はかなりあって、水をカラにした状態では、ターボ勢のマシンよりもラップタイムが速くなってしまった。結果として、フェラーリやルノーなどのターボ勢は不利な状況に置かれることになる。

フェラーリチームにとっては、せっかく126C2という素晴らしいマシンが登場したのに、こんな極めてつまらない政治的な陰謀のレギュレーションのせいで、今シーズンの戦いはラクなものにはならない、むしろ不利になってしまう、ということは容易に予想できた。

このバーニー・エクレストンの「水タンク・バラスト」の陰謀には、ターボ勢のチームから相当な反感を買ったのは当然である。「こんなレギュレーションはバカげている! 策略家バーニーめ!」とターボ勢のチームの誰もが思った。

最後に、F1マシンの運転を許可されるスーパーライセンスについての束縛もキツくなった。所属しているチームへのライセンス制限に加えて、「少しでもFISAを非難したドライバーはスーパーライセンスを剥奪される」という、とんでもないレギュレーションまで出来上がってしまったのだ。FISAの汚くて醜い、チカラで押さえつける権威主義ぶりは相変わらずだったのである。

このFISAの権威主義ぶりにはターボ勢のチームの面々も怒り狂い、遂にストライキを起こすドライバーが出てきた。当然真っ先にストライキの提案をしたのは政治的な運動が得意なGPDA会長のピローニで、ピローニはストライキ運動声明とレギュレーションへの反対声明を書いた文書をFISAに突きつけて「バカなお偉方よ、これを読め!」と言って挑戦した。そしてターボ勢のドライバーたちだけでなく、ノンターボ勢のごく一部のドライバーまでもが「他人事ながらFISAを許せない」という理由からストライキに参加した。

ピローニに続きストライキ運動に参加したのは、ビルヌーブ、ジャック・ラフィー、エリオ・デ・アンジェリス、ブルーノ・ジャコメリ、パトリック・タンベイ、リカルド・パトレーゼ、そしてあのニキ・ラウダだった。ラウダは数年ぶりに今度はマクラーレンのドライバーとして今シーズンからF1界に帰ってきたのだった。

余談だが、復帰してきたラウダはこのストライキ運動に参加してビルヌーブとよく親交を深め、そしてその後もラウダはビルヌーブのことを「走りはクレイジーだが、そこがジルのいいところだし強烈で魅力的な個性だ。ジルは人間的にも素晴らしく、敬愛している」とまで言うほどになったのだ。1977年の日本GPでのビルヌーブの事故を見た当時からは考えられないくらいに、ラウダはビルヌーブに対する評価が変わっていた。ラウダが言うには、ビルヌーブとストライキ運動に参加したことは実に楽しくて有意義だったらしい。

ストライキ運動の夜の兵舎では、エリオ・デ・アンジェリスがピアノを弾き、ビルヌーブがトランペットを吹いてお祭り騒ぎになり、かなり盛り上がった。ビルヌーブはF1の世界に入る前は、プロのトランペット奏者を目指していて、少年時代から相当な勉強と練習を積んでいたらしいが、成長するにつれて上唇の形が変わってきて、長時間吹いていると唇が痛くなってしまうので、やむなくトランペット奏者への夢は諦めたらしい。だがトランペット自体は大好きなので、趣味として今でも吹き続けていたのだ。プロ奏者になる一歩手前だったのだから当然であるが、ビルヌーブのトランペットの腕前は、相当ハイレベルなものだった。エリオ・デ・アンジェリスのピアノの腕前も、かなりのハイレベルだったらしい。それもあって周りのドライバー達は盛り上がって喜んだ。(個人的な意見ですが、楽器好きな当方としては、楽器を奏でるレーシングドライバーは理由もなく好きです)

こうして、お祭り騒ぎの夜は過ぎていった。

これではレースを開催することさえできない、と困り果てたFISAは、後日ドライバーたちとミーティングを開いて相談しよう、という提案をして、なんとかストライキ運動をヤメさせ、レースを開催する準備ができた。

こういうゴタゴタがあって、やっと今シーズンの初戦である南アフリカGPの予選は始まった。ビルヌーブは予選3位、ピローニは予選6位で、126C2のデビュー戦としては、まずまずの出来だった。それに、車重の軽い「水タンク・バラスト」のノンターボ勢を相手に競ったことを考えれば上出来だろう。

そして決勝レースのスタート。FISAとのゴタゴタを後方に蹴飛ばし! 今まさにスタートをきったF1マシンの一群! ビルヌーブはいつものように勢いよくスタートダッシュを決めたが、たった6周しか走っていないのに、もうターボチャージャーが壊れてしまった。モウモウと白煙を上げながら戦列を去ろうとするビルヌーブに、南アフリカのファンたちは、ため息をついた。

ピローニの126C2は、タイヤを痛めてしまってピットストップしてタイムロスをしてしまい、完走こそしたものの、ポイントは得られなかった。

ニューマシンのデビュー戦では、こういうトラブルも付き物である。次のレースに賭けるしかない。


「優勝か無か」の極限的な意思表示(1982 ブラジルGP)

続くブラジルGPでは、ポールを獲得したのはアラン・プロストだったのだが、ビルヌーブは2位のグリッドを獲得した。堂々のフロントローである。今シーズン2戦目にして126C2とビルヌーブの真骨頂が発揮されたと言っていい。「水タンク・バラスト勢」とでも言うべき車重の軽いノンターボ勢を押しやって2位のグリッドにつけたのも素晴らしかった。

だが、ビルヌーブの気持ちは決して楽観的ではなかった。グリッド二列目以降には水タンク・バラスト勢のマシンたちが控えていて、決勝レースではターボエンジン搭載の重い126C2は不利になるからだ。

フォーメーション・ラップを終えてシグナルを睨みつけながら、ビルヌーブは、「車重の軽い水タンク・バラスト勢と、真っ正面から戦ってみせる」と燃えていた。打算めいたこざかしい作戦などはビルヌーブの頭の中には無いのだ。彼のスタンスはどこまでもレーサーであり、ただ速く走ることだけに心血を注いでいるからだ。

シグナルがグリーンに変わった。ビルヌーブは得意のスタートダッシュでたやすくプロストを抜き、プロストも「やっぱりどう頑張ってもスタートダッシュだけはジルには敵わなかったか」と妙に納得しながら走っていた。

しばらくはビルヌーブがトップを独走していたのだが、やがて思ったとおり、水タンク・バラスト勢のマシンたちが迫ってきた。ネルソン・ピケと、ケケ・ロズベルグである。いくら126C2がパワフルなターボエンジンを積んでいるといっても、車重の重さだけはどうにもならない。ビルヌーブがピケとロズベルグに抜かれるのは目に見えていた。

だがそんなことで諦めるビルヌーブではない。彼は作シーズンのスペインGPで実行したような、あの完璧なブロック走行を織り交ぜながら、各コーナーでマシンを真横に向けて走っていた。

特にこのブロック走行で見ものだったのは、ドリフトしているビルヌーブの126C2のタイヤからは、例年に無いほどのハデな白煙が上がっていたことである。サスペンションが無くなりダウンフォースが大幅に増えたため、タイヤは当然ながら今まで以上に強く路面に押さえつけられることになる。その状態でドリフトしまくっているのだから、そのためにまるでタイヤのコンパウンドをドリフトで燃焼しているかのような白煙が上がったのだ。

この白煙出しまくりのドリフトには、観客たちにとってうってつけのショーにもなった。

このレースの主役は、ビルヌーブ、ピケ、ロズベルグである。ビルヌーブがどうやってトップを死守するか、ピケとロズベルグがどうやってビルヌーブを抜くか、観客たちは見入った。そして観客たちは、もう決まり文句のように「ビルヌーブがトップを走っていると、絶対に目を離せないスリリングなショーになるぞ!」と、そこかしこで言い合っていた。「あんなハデな白煙を上げて、クレイジー! 凄いぞ!」と狂喜するファンも居た。

しかし、こんなタイヤに負担をかけまくる走りを続けていては、タイヤがレースの最後までもつワケがない。ビルヌーブのマシンは、このドリフト走行によるタイヤの急激な磨耗のために、タイヤ交換のピットインをしなければならない状態になっていた。だがビルヌーブは「タイヤがレースの最後までバーストせずにもつかどうか、極限の賭けだ。何が何でもトップを守ってみせる」と固く心に決めていた。「優勝か無か」の、まさに極限的な意思表示である

トップの3台は、いつまでも接近戦を演じていたが、ピケとロズベルグは、ビルヌーブの性格をよく解っていて、「ああ、これがジルなんだよな。どんなに不利で危険な状況になっても絶対にトップを守ろうとする。相変わらずだ。あんなにタイヤをすり減らせて、やがてジルはイヤでもタイヤ交換のピットインをしなければならなくなる。その時が僕たちの勝機だ」と思いながら、根気強く後ろを走っていた。

そして、その時はやってきた。ズタズタにすり減った126C2のタイヤは遂にグリップを完全に失い、ヘアピンでテールが大きく振られてしまい、ビルヌーブはコントロール不能に陥った。直後に居たピケとロズベルグはニアミス回避に必死でフルブレーキング。…そしてビルヌーブの126C2は後ろ向きになってタイヤバリアーに激しくクラッシュした。

相当のところまで磨り減ったタイヤという危険、その危険を抱えた上でのビルヌーブのドリフト走行、これはスリリングというよりも殺気立っていたと言っていい。ブラジルGPでのビルヌーブの素晴らしいドリフト走行は終わった。

もう後はリオのカーニバル状態である。地元のピケを相手にロズベルグが挑んでいく。

一方のビルヌーブはクラッシュした直後に両手を上げて、ヘルメットの中では静かに笑っていた。「これでよかったんだ…」と。

ビルヌーブの「優勝か無か」、「中途半端な順位でレースを終えるくらいなら、どんな危険を冒してでもトップを死守する」というポリシーが、これでもかというほど伝わってきたレースだった。やはりビルヌーブはドライバーではなく、紛れもないレーサーなのである。


「絶妙」と呼ばれたドリフト走行(1982 ロングビーチGP)

水タンク・バラストのレギュレーションは前回のブラジルGPが終わった時点で早々に姿を消した。やはりあまりにも不当なレギュレーションのために、FISA側も「このレギュレーションを続けていると体面上マズイことになる」と判断して、禁止せざるを得なかったのだろう。こうして、ターボエンジンを乗せたフェラーリやルノーは有利な立場になったのだ。一件落着である。

しかし、フェラーリチームのスタッフは、2レース分の不利な戦いを強いられたことによる腹の虫が収まらなかったようで、このロングビーチGPで、奇抜な作りの126C2を登場させて、周囲を驚かせた。

それは「二枚ウイング」というもので、リアウイング取り付け用のステーから、左右に伸びている二枚のリアウイングだった。(こちらのサイトを参照)

これはフェラーリチームからの、水タンクバラストへの痛烈な皮肉回答だったのだ。二枚ウイングにすることで特にこれといったメリットは無いのだが、FISAに見せ付けてやらねば気が済まないという気持ちだったのだろう。「ウイングの幅は制限されているが、一枚じゃなければいけない、というルールはない」という部分を突付いたのだった。ルール違反かギリギリセーフか、というところだったが、FISAは何も言ってこなかったので、このまま予選が開始された。

二枚ウイングを付けているために却ってダウンフォースがアンバランスになったのか、ビルヌーブは得意の公道サーキットにも関わらず予選7位、ピローニは予選9位に終わった。

しかし決勝のフタを開けてみると、ビルヌーブは勇猛果敢に追い上げ、3位争いをするまでに順位を上げていた。追い上げていた時のビルヌーブの走りは、公道サーキットでは必ずといっていいほど見られる、ハデで壮絶なドリフト走行だ。特に126C2となってからは初の公道サーキット。ビルヌーブが本領を発揮しないワケがない。

前回のブラジルGPで見せたのと同じく、タイヤからかなりの白煙を上げてドリフト走行をするビルヌーブの126C2を見て、観客は「絶妙! 絶妙! ドリフト走行!」と叫んだ。それほどまでに観客にとっては過激でクレイジーなドリフト走行に見えたのだろうし、実際そのとおりだったのだ。

ビルヌーブは、ケケ・ロズベルグと熱いドッグファイトを繰り広げ、途中ブレーキングミスをしてエスケープゾーンに入ってしまうが、すぐにコースに復帰。そしてビルヌーブは3位でフィニッシュした。126C2での初の表彰台&ポイントゲットである。

と思われたが、レースが終わってから、ティレルのボスであるケン・ティレルが「フェラーリの二枚ウイングは違反じゃないか?」と抗議をしてきた。FISAも判断に迷っていたようだが、二枚ウイングの126C2は失格となり、ビルヌーブの3位は無効になった。昨シーズンのラスベガスGPで受けた失格はビルヌーブ自身のミスによるものだったが、今回の失格はビルヌーブにとっては、いい迷惑である。チームが勝手にやったことなのだから。

それだけでは体面上マズイと思ったのか、FISAはこの時点になって、前回のブラジルGPでのピケとロズベルグの順位も、彼らのチーム(ブラバムとウイリアムズ)も失格という扱いにした。

どうにも1980年代に入ってからのF1は、政治的なドロドロした印象が強くなっていった。それだけでなく、今回の立て続けの後付け失格騒動により、更にドロドロしていってしまったことも事実だ。二枚ウイングを作ったフェラーリチームのスタッフも同じようなものである。

こういうドロドロした陰謀というのは、ドライバーにも感染しやすいものだ。そして次のサンマリノGPでは、ビルヌーブがその陰謀の被害者となってしまうのだった………。


優勝の誘惑に「負けた」ピローニ(1982 サンマリノGP)

前回のロングビーチGPでは、政治的なドロドロした陰謀が渦巻いていたが、その雰囲気はフェラーリの地元イタリアのサンマリノGPでも変わらなかった。先述のFISAによる後付け失格に腹を立てたノンターボ勢のチームは、GP自体をボイコットしてしまう、という事件が起きて、サンマリノGPでの出走車は僅か14台だけという、奇妙なGPとなった。相変わらずのドロドロした雰囲気である。

ビルヌーブとピローニは共に好調で、予選ではポールポジションがルノーのルネ・アルヌー、そして2位が同じくルノーのアラン・プロスト、そしてビルヌーブは3位、ピローニは4位につけるという、グリッドの一列目と二列目に、綺麗に同じマシンが並んだ。

決勝のスタートではトップグループの順位は変わらなかったが、一周目の終わりには順位が入れ替わっていた。トップはアルヌー、そしてビルヌーブ、ピローニ、プロストと続いた。やがてプロストのマシンはエンジントラブルのためにリタイアし、トップグループはアルヌーとビルヌーブとピローニになった。

この3台は周回を重ねるごとに順位が入れ替わっていたが、やがてアルヌーはターボトラブルで戦列を去った。こうして、フェラーリの1−2体制となった。ティフォシたちにはこれ以上ないほどの最高のシチュエーションだ。

とはいえ、フェラーリの2台ともあまり調子が良くなかったので、ピットからは「ややペースを落とすように」との支持が出され、ビルヌーブとピローニはそれに従った。そのままの状態でしばらくレースは続いた。

ところがレース後半になって、どういうわけかピローニが急にペースを上げてビルヌーブを抜いた。これにはビルヌーブも意表を突かれた。なぜならば、今まで両車ともマシンをいたわって若干ペースダウンしながら走って、そのままペースは上げずにマシンをいたわって走り、順位を入れ替えないで、確実に1−2フィニッシュを狙うように予定されていたからだ。事実、フェラーリのピットからはそういうサインが出ていた。

フェラーリチームのマルコ・ピッチーニが「我々にはチームオーダーは無い。速いほうが前に出ればいいんだ」とは言ったが、実際には「ビルヌーブが前でピローニは後ろ」というチームオーダーが出ていたのだ。このチームオーダーが出ていたことについては、たくさんの証人も居た。

ビルヌーブは「ディディエの奴、どういうつもりだ?」と思いながらも一緒にペースを上げ、ピローニを抜き返そうとした。ところがピローニは、いつか見せた走路妨害同様のブロックで、強引にビルヌーブを押さえ込んだ。ピローニは例の自己中心的な性格がまた出てしまい、「僕がトップだ」と言わんばかりの態度を走りで見せた。

それでもビルヌーブは再びピローニを抜き、しばらくその状態が続いた。そしてビルヌーブは燃費の厳しいサンマリノのサーキットのことを考えて、また僅かにペースダウンをしながら走った。

そのうちに、またピローニがペースをメいっぱい上げて強引にビルヌーブを抜いた。今まではティフォシへのサービスだったんじゃなかろうか? と思っていた観客も、次第に「何かおかしい。ピローニは何か企んでいるんじゃないか?」とささやき始めた。ビルヌーブもピローニの行動には困惑していた。

遂に最終ラップ。ここでピローニは、またペースを落とし、ビルヌーブを先に行かせた。ビルヌーブは「そうか! やっぱりティフォシたちへのサービスなんだな。僕が以前ジョディ(シェクター)に対してやったように。あの時の僕は決してジョディを抜かなかったけど、これはディディエ流のティフォシたちへのサービス、つまりちょっとしたショーを見せているんだ。最後には僕を先頭に行かせてくれたし、間違いない。ディディエも、なかなかイキなことをやるな」と確信した。

最終ラップでトップに立って安心しきったビルヌーブは、再度ペースダウンし、このままの状態で1−2フィニッシュできると確信しながら、最終コーナーを回りきった。あとはゆっくりストレートを走ればチェッカーだ。

しかし! なんと! ここでピローニが猛烈な加速をしてビルヌーブを一気に追い抜いた。つまり最後の最後で、ビルヌーブに抜かせるスキを与えずに、本当のゴール寸前にピローニはトップに踊り出たのだ! もうビルヌーブがアクセルを全開にしても抜き返すチャンスは無かった。

ビルヌーブもティフォシたちも「なんだって!? ウソだろ!!」と思うのが早いか、ピローニはそのままトップでチェッカーを受けてしまった!!

………ビルヌーブもティフォシたちもピローニの行動に呆然として、言葉が出なかった。思考の鋭い報道陣は、「ピローニの行動は、もしかしたらビルヌーブを油断させて、最後の最後で不意を付いて、極めて不当な手段でトップを奪い取ったのではないか? どう見てもそうとしか思えない」と語った。

まさに、その通りだったのである。「ビルヌーブが前でピローニは後ろ」というチームオーダーが出ていたにも関わらず、ピローニはチームオーダーを無視して、容易に手に入りそうな、目の前にちらつく優勝の誘惑に「負けて」ビルヌーブを騙してしまったのだった。

昨シーズンの終わりに「自己中心的な行動は控えよう。ナンバー2ドライバーとして謙虚に走ろう」と心に決めたにも関わらず、ピローニはまた誘惑に負けた。自己中心的な行動をとって、悪質な方法でビルヌーブを騙し、優勝を奪ったのだ。

もちろん二人がペースダウンせずに走っていればこんなことは起きなかったし、ビルヌーブはピローニを引き離していただろうことは容易に想像がつく。つまりピローニは、速さではビルヌーブに敵わないから、ペースダウンを利用して、分不相応な優勝を奪ったのだ。

表彰台では嬉しそうにシャンペンを振りまくピローニ。そして離れたところで終始無言のままブ然とするビルヌーブ。二人の対照的な表情があった。ビルヌーブは完全に「ディディエに裏切られた。騙された。今までずっと信頼していたのに、こんな汚い奴だったなんて…」と怒りに燃えていた。どこまでもフェアプレイをするビルヌーブだからこそ、ピローニの裏切り行為には怒り心頭に達したのだ。そしてビルヌーブは表彰台から降りると、何も言わずに自家用ヘリコプターに乗ってモナコの自宅に帰ってしまった。ものすごいショックを受けたビルヌーブは、早く家に帰りたいという気持ちで一杯だったのだ。

二人がペースダウンせずに普通の正当なバトルをして、ビルヌーブがピローニに負けたのならば、ビルヌーブの態度は全く違っていたはずである。純粋に「ディディエ、おめでとう」と言っただろう。ビルヌーブはそういうスポーツマンシップにのっとった純粋な人間だからだ。

だが今回は事情が全く違う。ビルヌーブは純粋だからこそ、尚更ピローニのあくどい手口にショックを受けたのだった。

このピローニの裏切り行為については、表彰式が終わってビルヌーブが自宅に帰るやいなや、観客や報道陣からのバッシングの嵐になった。

ピローニは、観客から、

 

 

と、かなり感情的なバッシングを浴びた。

そしてジャーナリストからは、

 

 

と、やはりかなりキツイ言葉を受けた。

今回の件について、記者会見でのエンツオ・フェラーリの言葉は、みんなの意見を総括するものだった。

 

 

このエンツオ・フェラーリの言葉を否定する者は、一人も居なかった。F1界のゴッド・ファーザーだから恐ろしくて反論できなかったのではない。誰もがエンツオ・フェラーリと同じ意見だったからだ。

ビルヌーブは自宅に閉じこもってショックで頭を抱えて塞ぎこんでいたので、報道陣がやってきてもコメント不能だった。ビルヌーブの頭の中は屈辱感と絶望感で一杯だったのだ。報道陣も「無理も無い。気持ちが落ち着くまで、そっとしておいてやろう」と言い、ビルヌーブの自宅にはそれ以上は押しかけなかった。

一方の、今回の話題の張本人であるピローニは驚いて、報道陣に向けて「まさかこれほどまでに非難を受けるとは思わなかった…」とチカラ無く言ったが、報道陣は「それは君がビルヌーブの速さを認めていないからだよ。ビルヌーブの速さを知らないのは、君だけなんだよ」と、冷たい言葉を返した。

ジャーナリストたちの中には、「ビルヌーブとピローニの仲がこじれることは間違いない。今後良からぬことが起きなければいいのだが…。なんだかイヤな予感がする…」と言う者も居た。

そして、不幸にも、その予感は当たってしまうのだった………。


悲しみのフェラーリ(1982 ベルギーGP 予選)

前回のサンマリノGPで味わった屈辱感と絶望感は、ビルヌーブにとって耐え難いものだった。彼は精神的にひどくまいっていた。

そんなビルヌーブの救いとなったのは、ファンからの慰めの手紙やファックス、妻のジョアンナ夫人の励まし、かつてのチームメイトだったジョディ・シェクターの幾多の訪問による応援、そしてエンツオ・フェラーリからの改めての高い評価だった。これらのことがベルギーGPの前の二週間に渡って続けられたために、ビルヌーブは幸い、少しずつ精神的に安定してきた。

しかし、一番大事な、張本人のピローニからの謝罪は一切なかったのである。もしここでピローニがビルヌーブに心からの謝罪をしていれば、ピローニが自分の精神的にまだまだ未熟だった部分を素直にビルヌーブに告白して謝っていれば、ビルヌーブの気持ちはもっと明るくなっていただろう。しかしそれは無かったのだ。

ピローニは「時間が経てばジルも許してくれるだろう。マスコミも怒りが収まるだろう」と、甘い考えでいた。それどころかピローニは「僕とジルの、どちらか速いほうがナンバー1ドライバーだ」とマスコミに向けて強がってみせた。これが極めて悪い結果を引き起こしてしまうことも知らずに…。

反省しないピローニに対してビルヌーブは、「どういうことか、よく解った。これからはディディエをチームメイトだとは思わずに、他のチームのドライバーと同じように接することにする。フェラーリで走っているのは僕一人だけだと思うことにしよう」と心に決めた。ビルヌーブは完全に心を閉ざしてしまっていたのだ。同時に屈辱感と絶望感がまた湧き上がってきて、また怒りもこみ上げてきて、ビルヌーブは冷静さをも失っていた

モーターレーシングのような限界ギリギリの危険を冒すスポーツでは、冷静さを失って走ることほど、これほど危険なものはない。怒りに燃えて走ることほど危険なものはない。こんな極めて危険な状態で、ビルヌーブはベルギーGPの予選に挑むことになった。これが結果的に取り返しの付かない事態になってしまう。

ベルギーGPの予選では、ビルヌーブはピローニとは一切口をきかなかった。「ディディエのほうから誠心誠意を込めた謝罪がなければ、彼とは口をきかない」とビルヌーブは決めて、心を閉ざして、塞ぎこんでしまうことも多かった

そんな暗くてやりきれない気持ちを抱えていて、ピットで考え込んでいたビルヌーブのところに、マクラーレンのピットからニキ・ラウダが歩いてきた。ビルヌーブとラウダはとても仲がよく、特にラウダはビルヌーブのことを敬愛していたほどだった。彼らは気さくに会話をした。

 

 

ラウダはセッティングデータを教えるという口実で、ビルヌーブを励ましに来たのだった。なんでもいいからビルヌーブを元気にさせて、明るい気持ちにさせてやりたい、とラウダは思ったからだ。二人の仲のよさが解るというものだ(このピットでの二人の会話のスナップショットは、今でもモータースポーツ雑誌で紹介されることがある)。

ラウダのセッティングデータは、思ったとおりビルヌーブの参考にはならなかった。だがビルヌーブはラウダの本当の目的(ビルヌーブを励ましにきたこと)を感じ取って、「ニキ、本当にありがとう。参考になったよ」とお礼を言い、その表情はほころんでいた。

しかし実際にはビルヌーブのマシンはセッティングがなかなか決まらず、タイムが思ったように伸びなかった。

ピローニが先日「僕とジルの、どちらか速いほうがナンバー1ドライバーだ」とマスコミに向けて言ってしまったことにより、巷では「ビルヌーブ対ピローニ、どっちがナンバー1か?」などという、調子に乗った無責任なマスコミの噂が持ち上がってしまっていた。

予選ではその時点で、トップタイムをルノーのプロストとアルヌーが競っていた。そしてその次にフェラーリの二台、ビルヌーブとピローニが続いていた。ルノーの二人の競い合いなど比較にならないほど、フェラーリの二人の予選タイムの争いはすさまじいものだった。ビルヌーブとピローニの対決がイヤでも注目されていたからだ

ピローニのマシンはセッティングがそこそこ決まっていて、ルノーの2台に告ぐ3番手のタイムを出した。それよりも僅かに遅れてビルヌーブは4番手のタイムだった。まだ、もう少し予選の時間は残っている。ビルヌーブはなんとしてでもピローニのタイムだけは破りたかった。ビルヌーブは先日のショックがまだ抜け切らずに冷静さを失っていた。

先にも書いたが、予選走行などという極限状態の走行を、冷静さを失って走ることほど危険なことはない。ビルヌーブの予選走行は、そういう意味で危険極まりなかったのだ。彼がいつものように冷静に予選走行をしていれば、あんな最悪の事態にはならなかっただろうに…。

ビルヌーブは、2セット目の予選用タイヤすなわち最後の予選用タイヤをすり減るまで使い切って走っていた。ビルヌーブは、「絶対にディディエよりも速いタイムを叩き出してやる」と思い詰めて、冷静さを欠いて走っていた。

そして、予選終了の直前、高速シケインを抜けた後の左コーナーで大惨事は起きてしまった

高速シケインを抜けた所で、目の前にはタイムアタックを終えてクールダウンしてスロー走行している、マーチに乗るヨッヘン・マスが居た。ビルヌーブは瞬時にマスのアウト側から抜こうと判断してアウト側にステアリングを切った。しかしミラーを見ていたマスは「ジルがすごいスピードで来る。アウト側に寄って道を譲ろう」と思い、やはりアウト側にふくらんだ…。

その結果、マスのマーチの右後輪とビルヌーブの126C2の左前輪が接触し、126C2はマーチに乗り上げた反動で空に舞い上がった!

時速230キロ以上出ている状態で全く減速されずに飛んだ126C2は、100メートル以上もの距離を飛び続けて、そのままノーズから地面に叩きつけられ、更に150メートル以上に渡ってコース脇で暴れ狂ったようにメチャクチャにトンボ返りをうち、マスの目前に着地した。126C2はコクピットの前半分が無くなり、リアのタイヤ一つだけを残して、車体は全く原型をとどめないほどに損傷していて、コナゴナといってもいい状態だった。だが126C2のコクピットには、ビルヌーブの姿は無かった

126C2が狂ったようなトンボ返りをうっている最中に、あまりの衝撃でarexonsの強固なシートベルトが切れ、更にシートまで外れ、ビルヌーブはシートごとマシンから放り出されて、20メートル以上も空中を振り飛ばされ、キャッチフェンスのポールに後頭部から落下する形で叩きつけられたのだった。その反動で彼のGPAヘルメットが外れ、ヘルメットはコース脇に転がっていた。ビルヌーブは意識不明の状態だった。

ポールに叩きつけられたビルヌーブの側にはマーシャルが居て、即座にドクターを呼んで人工呼吸や心臓マッサージを施したのだが、ビルヌーブは意識不明のままだった。ひどい衝撃のために、ビルヌーブの首と背中の骨は…折れていたのだ

ビルヌーブはすぐに救急ヘリコプターで、近くのセント・ラファエル病院に運ばれて、病院で必死の救命治療が行われたのだが………夜の9時12分に、絶命が確認された。

 

ビルヌーブは、とうとう、この世を去ってしまったのだ………。

 

ビルヌーブの死亡のために、エンツオ・フェラーリを始めとするフェラーリチームだけでなく、全チームのスタッフとドライバー、ジャーナリスト、観客、世界中のF1ファンが涙を流した。そしてフェラーリチームは、ビルヌーブのことを思い、このベルギーGPへの出場を棄権した

悲しみのフェラーリ。ビルヌーブの居ないフェラーリ。今までのビルヌーブの熱くてクレイジーで魅力的で芸術的な走り、それがもう見られない。そんな言葉が各所で聞こえてきた。誰もがビルヌーブの走りと純粋な心を愛していたのだ。ビルヌーブと親友になっていたドライバーも、ニキ・ラウダやアラン・ジョーンズを始め、たくさん居た。

エンツオ・フェラーリは、涙を流しながら、「また息子を亡くしてしまった…」と語った。昔、若くして亡くした実の息子ディノ・フェラーリをエンツオは愛し、亡くした息子のために「ディノ246GT」という乗用車を製造して販売したくらいに愛していた。同様に、ビルヌーブのことをよく理解し、息子のように可愛がっていたのだから、そう思うのも無理は無い。

見かけ上では事故の原因を作ったのは、間違いなくヨッヘン・マスである。だが、ビルヌーブとマスとの互いの思い込みで一緒にアウト側のラインをとってしまっただけで、運が悪かったとしか言えなかった。

そして…。

翌日の新聞やニュースなどで、表面的にはヨッヘン・マスが原因でビルヌーブが事故死したように伝えられたのだが、今までの事情をよく知っているF1関係者は、口々に叫んだ。

 

 

前のサンマリノGPからの二週間のことを考えれば、そう考えるのが自然な道理だろう。FISAの冷酷な連中は別として、他のF1関係者の誰もが「この死亡事故の元々の原因を作ったのは、ピローニである! 誰がどう見てもそれは明確である!」と断言した。

ピローニにしてみれば、そう言われても仕方が無かった。もちろんピローニは人一倍ショックを受けた。「まさかジルが死んでしまうなんて…。僕がサンマリノGPであんなことをしなければ…」と、悔やんでも悔やみきれない表情だった。ピローニは自分の今までの傲慢さ、精神的な弱さを呪った。自分自身を呪い続けた。

しかし、いくらピローニが後悔したところでビルヌーブは帰ってこないし、世界中のF1ファンからのゴウゴウの非難も避けられない。まして弁解の余地は全く無い。

 

こうして、1982年のベルギーGPは、悲しみのうちに開催され、悲しみのうちに幕を閉じた。

そして、ビルヌーブを振り飛ばし、スクラップと化したフェラーリ126C2・058の映像が、いつまでも、いつまでも、人々の心を痛めてやまなかったのだった…。


エピローグ

ビルヌーブの事故死により、ピローニは今までの自分の傲慢さを心の底から反省し、この後本当に心を入れ替えて死に物狂いで走り、1982年のワールドチャンピォン候補にまでなっていたが、ドイツGPの予選でアラン・プロストのルノーの後輪に乗り上げ、ビルヌーブと全く同じように宙を舞って大クラッシュをし、両足を複雑骨折して、F1界からの引退を余儀なくされた。そしてパワーボートのレースに転向するが、1987年にピローニはパワーボートのレースの事故で亡くなっている。これを因果応報と言う人も居るが、ちょっと言いすぎな気もする。

ビルヌーブの死後、フェラーリの本部そしてビルヌーブの妻ジョアンナ夫人に宛てて、世界中のF1ファンから手紙や電話やファックスが届いた。どれも「ジルは最高のF1レーサーで、最も速いレーサーでした。人間的にも素晴らしい人でした。ジルのことは一生忘れません」というような内容のものだった。現在でもビルヌーブについての賞賛の言葉が届いているという。

ビルヌーブの母国であるカナダのノートルダム・サーキットは「サーキット・ジル・ビルヌーブ」と名づけられ、彼の名前は母国で永遠に残ることになった。ビルヌーブは生前から国民的英雄になっていて、ビルヌーブの葬儀にはカナダの首相が参加したほどだった。

イタリアの市街地でも「ビルヌーブ通り」と名づけられた通りが出来、イモラサーキットのとあるコーナーには「ビルヌーブ・コーナー」という名前が付けられた。イモラサーキットはビルヌーブが最後に決勝を走ったサーキットだ。その時の彼のグリッドだった3番グリッドにカナダ国旗のペイントが施された。今でもイモラサーキットにはそのペイントが残っている。

そして、いろんなカテゴリーのレースでその後成長していく若いドライバーたち、そのドライバーたちの中にはビルヌーブの意志を継ぐ者も多い。ビルヌーブの息子であるジャック・ビルヌーブもその一人だ。

ビルヌーブがマシンから振り飛ばされた時、偶然それを見ていたカメラマンは「ジルは確かにヘルメットの中で笑っていた。なぜか笑っていたんだ」と語ったが、真偽は定かではない。

ビルヌーブが最後に乗ったマシン126C2のカーナンバー27は、その後特別な意味を持つようになった。シーズンが何年進んでも、どんなドライバーが乗ろうとも、「カーナンバー27のフェラーリには、ジル・ビルヌーブの魂が宿っている」と言われ続け、それは今でも続いている。

 

 

ジル・ビルヌーブよ、永遠に…。

 


あとがき

この「ジル・ビルヌーブ列伝」を書き始めてから完結させるまで、なんと7年近くもかかってしまいました。サイトを始めたのとほぼ同時に書き始めたのですが、時にはサボっていたことも多く、こんなに年月がかかってしまいました。もっと頑張っていれば早く完結できたでしょうけど、どうかお許しください。

ちなみに、資料としていろんな書籍などを買い漁りましたが、中でも取り分け参考になったのが、「ジル・ヴィルヌーブ 流れ星の伝説(ジェラルド・ドナルドソン著/豊岡真美・坂野なるたか・盛岡成憲 訳)」と、そして、当時の数々の「auto technic」誌でした。やはりリアルタイムでの記事というのは参考になりますね。その上で当方のアレンジを織り交ぜた状態で書いたつもりですが、当方の勘違いで間違った記事を書いてしまっている部分があるかもしれません。その時はメールフォームからご連絡いただければ幸いです。実際に間違いの指摘のご連絡をくださる人もいらっしゃって、とても助かっています。ありがとうございます。

この「ジル・ビルヌーブ列伝」のデータについて、無断転載オッケーですが、出展がうちのサイトであることを書いてくだされば嬉しいです。

もちろん、このページ「ジル・ビルヌーブ列伝 (全文)」を無断転載しても一向に構いません。ご自由にお使いください。


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