◇ジル・ビルヌーブ列伝 (1977年)◇


※各シーズンごとにページを分けて書いていますが、「ログが重くなってもいいから、全てのシーズンの文章を1ページにまとめた状態のほうが読みやすい」という人は、「ジル・ビルヌーブ列伝 (全文)」をご覧ください。内容は全く同じです。ちなみに、この「ジル・ビルヌーブ列伝」だけはCSSを使っていません。


前置き

かつてF1の世界を驚愕させたジル・ビルヌーブというF1レーサーについての列伝です。古本屋で買い集めたいろんなモータースポーツ雑誌の記事を元に、当方なりにドラマ風にアレンジして書いています。

彼が活躍していた時期(1977年から1982年まで)は、当方はまだ生まれる前か生まれたばっかりの頃だったので、リアルタイムでの走りを見られなかったのが残念…。最近F1動画サイトにアップされている彼の走りを見て、ファンになりました。

それでは、ジル・ビルヌーブ列伝いきます。


プロローグ

1977年の後半、一人の奇妙な名前のドライバーがF1の世界にデビューした。彼の名はジル・ビルヌーブ。デビューした時に乗ったマシンはマクラーレン。当時のマクラーレンといえば、ワールドチャンピォンとなったジェイムス・ハントが在籍していたチームである。ビルヌーブがF1界にデビューするきっかけを作った人物が、実は、このジェイムス・ハントなのだ。

話は少しさかのぼって、1976年、ビルヌーブがまだF1デビューする前、つまり彼がまだ無名だった時代の話をする。

ビルヌーブの地元であるカナダ国内でレース活動をしていた時期のことであるが、トロワ・リビエールというカナダの公道を閉鎖して作られたサーキットで行われたレースでの出来事について。

このレースには、F1のドライバーも数名招かれていた。アラン・ジョーンズ、ビットリオ・ブランビラ、パトリック・デバイエ、そしてジェイムス・ハント。予選走行では、これらのF1ドライバーを相手に、まだ無名だったビルヌーブは彼らを上回るタイムを叩き出し続けた。それもビルヌーブ独特の、マシンを真横にして走らせるドリフト走行で、時には後ろ向きになりそうなほど(!)マシンを滑らせて、ビルヌーブはトロワ・リビエールの狭い公道サーキットを激しく攻め立てた。

決勝レースでもビルヌーブは、現役のF1ドライバー達を押さえて、2位に10秒の差を付けて優勝したのだ。圧勝である。招待されたF1ドライバー達の誰よりもビルヌーブは速かったのである。この結果に驚いたジェイムス・ハントは、ビルヌーブが非常に速いドライバーで、F1でも充分に通用するドライバーだということを、彼ハントの在籍チームであるマクラーレンのボス、テディ・メイヤーに、強調して報告した。

この知らせを受けたマクラーレンのテディ・メイヤーは、それからビルヌーブに興味を示すことになる。こうして、当時F1ワールドチャンピォン最有力候補だったジェイムス・ハントがビルヌーブの速さを絶賛したことにより、ビルヌーブはF1の世界にデビューするきっかけを掴んだのである。


F1デビューするまでの道のり

前回の話をもう少し詳しく話しておこう。

1976年に行われたトロワ・リビエールでのレースは、「フォーミュラ・アトランティック」という、カナダ国内のシリーズレースのことで、このレースに使われるマシンは、当然のことながらF1マシンの性能とはほど遠いものだった。そしてこのレースでビルヌーブは彼らと全く同じ「フォーミュラ・アトランティック」のマシンに乗っていたのだ。全員が全く同じマシンに乗っているということは、言うまでもない、あとはドライバーのウデのみにかかっているレースだったのだ。

このレースで、まだ全くの無名だったビルヌーブはF1ドライバー達に圧勝した。これがどんなに凄いことかは解るだろう。

ヨーロッパ全土のモータースポーツ雑誌もこのことを大きく取り上げ、この無名の青年がなぜ簡単にF1ドライバー達を完全に打ち負かすことができたのか、ジャーナリスト達はどうしても理解できない様子だったようである。それに対してジェイムス・ハントは、やはりビルヌーブが速いからに尽きるという意見を変えなかった。まさにその通りだったのだ。全員が同じマシンで走ったこととレース結果を見れば一目瞭然である。

それにジェイムス・ハントは自分自身のためにビルヌーブのことを誉めちぎったとも言われている。ハントいわく、「いいかい? よく聞けよ。F1ワールドチャンピォン最有力候補のこの俺が完全に負けたんだぞ。信じられないよ。あのビルヌーブというカナダ人ドライバーはとんでもない才能を持っているに違いない」だった。ハントがビルヌーブを誉めちぎる発言の理由は、ハントが自分の名声とプライドを保とうとしていたことも理由のひとつだと思われる。

来たる1977年シーズンは、いくつかのF1チームがビルヌーブを採用するかもしれないという噂が飛び交っていた。カナダの大富豪ウォルター・ウルフ率いるウルフチーム、バーニー・エクレストン率いるブラバムチーム、そしてテディ・メイヤー率いるマクラーレンチーム。これらのチームのいずれかがビルヌーブを採用するかもしれなかった。

この中でウルフチームについては、ジョディ・シェクターという南アフリカ人ドライバーがウルフに入ることが正式に発表されたので、ビルヌーブがウルフチームに入る可能性は無くなった。また、ブラバムチームのボスのバーニー・エクレストンは、ビルヌーブとは性格的に合わず、とても穏便にはやっていけそうもなかったようだ。ビルヌーブではなく、エクレストンが非常に気難しい性格だったためだ(のちに、拍車をかけるように、このエクレストンはビルヌーブのレースでのクレイジーな走りに対して激しい嫌悪感まで抱くことになる)。

残された可能性がマクラーレンチームだった。1976年のアメリカのワトキンズグレンで、マクラーレンのボスのテディ・メイヤーは、そこで初めてビルヌーブと対面することになる。ビルヌーブはとても小柄で口数が少なく、すごくおとなしい印象をテディ・メイヤーは受けたと思うが、商談は成立し、ビルヌーブは1977年シーズンをマクラーレンのF1マシンで「オプション契約で参戦」という形で走ることが決定した。

オプション契約の内容は、1977年シーズンの後半辺りにおいて、任意的に選ばれた5つのレースに、ジェイムス・ハントとヨッヘン・マスに次ぐナンバー3ドライバーとして走るというものだった。

ビルヌーブが1977年シーズン初頭からすぐにマクラーレンのF1マシンで走れるという好条件は、なかったのだ。1977年の後半になるまで、ビルヌーブはF1ドライバーとしての称号は与えられなかったのである。

まだ1977年のF1シーズンは始まってさえいない。そこでビルヌーブは、1977年の前半は今まで通りカナダ国内で参加してきたフォーミュラ・アトランティックのシリーズに参戦することを決めた。F1で走るのを待ちきれないためか、もどかしい気持ちを紛らわせるために間を持たせるとでもいうのだろうか、おそらくそんな気持ちがビルヌーブにはあったのだと思われる。

この1977年前半でのフォーミュラ・アトランティックレースで、ビルヌーブはいかにも彼らしいクレイジーな走りを見せたのである。攻撃的などという生易しいものではなく、正に「クレイジー」といえる走りを見せたのだ。ビルヌーブがクレイジーな走りを実行した相手は、ケケ・ロズベルグだった(ケケ・ロズベルグは1982年のF1ワールドチャンピォンになっている)。

1977年前半にモスポートサーキットで開かれたフォーミュラ・アトランティックレースで、ケケ・ロズベルグは、ビルヌーブの「優勝に対する執念とクレイジーな走り」をイヤというほど味わわされるのだった。


フォーミュラ・アトランティックでの走り

モスポートで行われたフォーミュラ・アトランティックレースで、ビルヌーブは彼のマシンであるマーチ77Bの到着が遅れてしまったことに不安を抱いた。ろくに調整もしていない未完成なマシンで予選走行に挑まなければならなかったのだ。

それでもビルヌーブは予選で果敢にアタックし、未完成なマシンのテスト走行を兼ねるという荒業をやり遂げた。予選終了間際、ケケ・ロズベルグのタイムを何とか上回るタイムを叩き出し、ビルヌーブはポールポジションを得た。

決勝のスタートではビルヌーブはロズベルグに追い越されたが、ビルヌーブはすぐに真後ろに食らいつき、時折ロズベルグのマシンに並びかけ、挑戦的な突っ込みでホイールをぶつけ、その度に火花が飛んだ。それがずっと続き、何周か回った後、ビルヌーブはロズベルグと一緒に勾配のあるコーナーへ突っ込んだ。イン側がロズベルグ、アウト側がビルヌーブ。両車は接触して放り出された。ロズベルグはコントロールを取り戻して走行を続け、ビルヌーブはロズベルグにはじかれた結果コースアウト。砂ボコリを撒き散らしながらコースに復帰した時には数台に抜かれていて、かなり順位を落としていた。そこからビルヌーブはトップのロズベルグを猛追した。

やがて、ロズベルグのマシンは不運にも故障で止まってリタイアとなってしまったが、ビルヌーブはコースアウトした時の順位の遅れを取り戻そうと死にもの狂いで全開走行を続けた。その結果、なんとか2位でゴールすることができた。

次に行われたエドモントンのレースでもビルヌーブはポールポジションを獲得し、やはりロズベルグと激しい戦いをした。ビルヌーブの走りがクレイジーなのは、このレースでも見かけられた。トップ争いで、ロズベルグのマシンのサイドボディがむしり取られるほど、ビルヌーブはロズベルグのマシンにホイールをぶつけまくったのだ。

その結果ビルヌーブは優勝、ロズベルグは2位だった。ロズベルグがゴールした時のマシンは、ズタズタだった。ロズベルグは、ビルヌーブの「優勝への執念とクレイジーな走り」を痛感させられた。しかしロズベルグはビルヌーブの危険を省みない行動に対しては否定的で、「たぶんビルヌーブは恐怖心というものがあまりないのかもしれない。僕はああいう走りはできない。彼の走りはあまりにも危険すぎるよ。僕には相手のマシンのサイドボディをむしり取るようなクレイジーな走りはできない」というようなコメントをしたことがある。

その後も彼らはいろんなレースでやり合うのだが、そうこうしている内に月日は過ぎ、いよいよビルヌーブがマクラーレンのマシンでF1を走る時期がやってきた。1977年後半に差し掛かってきたのだ。


F1デビューレース(1977 イギリスGP)

ビルヌーブがF1にデビューした時のレースは、イギリスGPのシルバーストーンサーキットだった。そこで彼は予選前の練習走行で、見ている者たちをひやひやさせるような走りを続けた。それは、ありとあらゆるコーナーでビルヌーブのマシンはタイヤから白煙をあげて派手にスピンをしたのだ。

この練習走行での彼の走りを見ていた報道陣やチームスタッフは、始めのうちは、あまりにも荒っぽく危険でせっかちなドライバーだと批判した。しかし、それは浅はかな批判だった。

正確に言うとビルヌーブは「マシンをわざとスピンさせた」のであった。彼はありとあらゆるコーナーにわざとかなりのオーバースピードで突っ込んではスピンをして、その次にそのコーナーを回る時には少しだけスピードを落として進入する。それでスピンしなくなったら次からはそのスピードで入ればいい。…と、このような方法をとっていたのだ。かなり危険な荒業だが短時間でF1マシンの限界を知るためには非常に効果的な方法だった。それに、彼のこの方法をマネできるようなドライバーは一人も居なかった。

彼があらゆるコーナーでスピンしているのはその方法を実行しているからだと報道陣やチームスタッフは知り、それからは特に、彼のスピンから立ち直る時のテクニックに注目した。そのテクニックは、マシンがタイヤから白煙を上げてグルグルとスピンしている最中に「フォンフォンフォン!」とヒール・アンド・トゥを使ってシフトダウンし、マシンが進行方向に向いた瞬間に、何事もなかったかのようにまた全開走行を再開するというものだった。

このテクニックを見ていた者たちは、信じられないという様子だった。何せ他のF1ドライバー達は、超高速でスピンしている最中にマシンの向きを見極めながら冷静にヒール・アンド・トゥを使ってシフトダウンしてまた全開走行に移るというワザは誰もできなかったからだ。それほどまでにビルヌーブは冷静で、感覚が研ぎ澄まされていた。

予選でビルヌーブは更に人々の関心を誘う走りを見せた。F1マシンを横滑りさせて走らせるのはロニー・ピーターソンが有名だったが、ビルヌーブのそれは更に輪をかけたもので、ドリフト最中も決してアクセルは緩めずに全開で、ほとんど後ろ向きになりそうなほどマシンのテールを振り、カウンターステアリングは常にフルロック状態だった。他のカテゴリーのレースならともかく、F1でのこんな走行はそれまで誰も見たことがなかった。そして彼はそのクレイジーなドリフト走行で、初めて乗ったF1マシンで初めて走ったサーキットにも関わらず、予選9位のグリッドを確保した。

決勝レースでは彼のマシンにトラブルが発生し始めた。レース前半彼のマクラーレンの水温計の針がどんどん上がっていたのだ。オーバーヒートの危険性があると判断した彼は、即座にピットインした。しかし皮肉にも、水温計が壊れているだけで、実際の水温は正常だった。それをピットクルーから知らされた彼は、勢いよくコースに復帰。トップグループから脱落してレース結果は平凡なものに終わってしまったが、この不必要なピットインでのタイムロスがなければ、彼はデビューレースにして表彰台に登る可能性をも持っていたのだ。

F1という世界がどんなに厳しく過酷なものかは言うまでもない。この世界で、しかもデビューレースで速い走りを見せ付けたビルヌーブに対して報道陣は、「F1レーシングの新星であり、このレースの主役だった」という賞賛の言葉を記事にして、モータースポーツ雑誌で彼の才能を大きく取り上げた。


意外な人物からの電話

イギリスGPでの走りをF1関係者から認められたにも関わらず、ビルヌーブがF1をマクラーレンのマシンで走ったのは実はこれが最初で最後だった。マクラーレンのボスのテディ・メイヤーは、他の新人ドライバーを1978年シーズンに起用することを決めていたのだ。ビルヌーブはカナダ人だったが、テディ・メイヤーはどうやらフランス人ドライバーが欲しかったらしいといわれている(後にテディ・メイヤーは、ビルヌーブを手放したことをひどく後悔することになる)。

ビルヌーブはテディ・メイヤーから契約を断られ、とても落ち込んでいた。1977年シーズンはまだ残っているのに、F1の世界で何もできない、乗るマシンがない、自分のF1人生には未来がない、と嘆いていた。

彼が焦りを感じていたそんな折、1977年後半も残り僅かという時期に、予想もしていなかったとんでもない内容の電話がビルヌーブの自宅にかかってきたのだった、レーシング界の名門と言われてきたF1チームであるフェラーリ、そのフェラーリチームのボス、エンツオ・フェラーリ本人からの直々の電話だったのだ。エンツオ・フェラーリの言葉は、「ウチのマシンでF1を走ってみないかね?」だった。

その時のビルヌーブの気持ちは、F1界のゴッド・ファーザーとも呼ばれていたエンツオ・フェラーリ直々の電話ということもあり、かなり緊張していた(最初ビルヌーブはあまりの意外さに誰かのイタズラ電話ではないかと疑ったほどだったという)。しかしすぐに冷静になり、イタリアに飛んでいき、フェラーリの本部で契約書にサインをしたのだった。マクラーレンの時のようなスポット契約ではなかった。フェラーリのマシンで1977年後半そして1978年のレースの全てを走るフルシーズン契約だった。この時点でビルヌーブはやっと安心した様子だった。

ビルヌーブはその契約のことを、「フェラーリのF1マシンに乗るというのは、特別なことなんだ。フェラーリのドライバーになることは、それだけでとても名誉なことだ。スーパースターの勲章を貰ったような気分だよ。これはF1関係者の誰もが認めることだよね」と語った。F1関係者の言葉もまさしく彼と同じだった。

こうして、以後ビルヌーブは、F1人生をフェラーリという名門チームで過ごすことになる。


エンツオ・フェラーリの直感

エンツオ・フェラーリがビルヌーブを採用することに批判をする者もたくさん居た。まだまだ未熟で荒っぽく、走りがクレイジーで、しかも無名の青年だからという理由が主なものだった。しかしエンツオ・フェラーリの意見は、ビルヌーブがかつての天才ドライバー「ヌボラーリ」と非常によく似た外見的雰囲気や走り方だから採用した、というものだった。

エンツオ・フェラーリが出した答えは、「ニキ・ラウダがウチのチームに来た時は、彼もまた無名のドライバーだった。ウチでラウダをここまでのドライバーに育て上げることができたのだから、我々にはドライバーを育てる自信がある。ビルヌーブはあのヌボラーリとよく似ている部分があるし、ウチで速いドライバーに育て上げられる可能性は充分にある。だからビルヌーブに賭けてみよう。今彼がどういう状態かと言うような問題ではないのだ。これからの可能性の問題だ」というような内容だった。

ニキ・ラウダがどんなに凄いドライバーかについては何も話さなくてもお解りだろう。彼があれだけの偉大なドライバーにのし上がったのは、無名だったラウダを採用したエンツオ・フェラーリのおかげであると言われている。

話をビルヌーブに戻そう。彼が初めて乗ったフェラーリのマシンは312T2だった。フェラーリのテストコースで勢いよく走り出したビルヌーブは、とたんにコーナーでスピンをした。例の、わざとオーバースピードでコーナーに入り、わざとマシンをスピンさせ、超高速でタイヤから白煙をあげてスピンしている最中に「フォンフォンフォン!」とヒール・アンド・トゥでシフトダウンし、進行方向に向いた瞬間に全開走行を再開するという走りだ。エンツオ・フェラーリは彼のこのテクニックを間近で見て、そのあまりにクレイジーで恐れを知らない攻撃的かつ冷静な走りに、感動の笑いを浮かべていたという。

この時のエンツオ・フェラーリの気持ちは、「やはりビルヌーブを採用したのは正しかった。確かに危険でクレイジーだが、彼は今後大きく成長するドライバーだ」というものだったのであろうといわれている。


母国でのF1初レース(1977 カナダGP)

ビルヌーブがフェラーリで初めて走ったGPは、1977年のカナダだった。彼の母国だ。このレースでは、ニキ・ラウダ、カルロス・ロイテマン、そしてジル・ビルヌーブの3人で出走するということが決まっていたのだが、ラウダはビルヌーブがナンバー3ドライバーで走る・つまりフェラーリが3台走ることについて不満を持っていた。ラウダは既に来シーズンにブラバムチームに入ることが正式に発表されていたのだが、そのラウダの穴埋めとしてビルヌーブが入ること自体はラウダは文句を言わなかった。「どうしてラウダがフェラーリチームを去る前にビルヌーブをナンバー3ドライバーとして入れたのか」ということについて不満を持っていたのだ。ナンバー3ドライバーの管理までピットクルーがまかなえるはずがないとラウダは思ったかららしい。

それに対してフェラーリチームは、「ラウダは既に今年のチャンピォンが決定しているから、目的がなくてただイラついているんだろう」というような返事をしたのだが、この返事がラウダを激怒させた。その返事の直後、ラウダはチームに何も言わずに自宅に帰ってしまって、その瞬間、フェラーリチームと決別・フェラーリチームを離脱してしまったのだ。

このように、レース前にいろいろとゴタゴタがあって、結局カナダGPを走るのはカルロス・ロイテマンとジル・ビルヌーブの2人だけとなった。

予選では、ロイテマンはコースのグリップの低さのために順位を上げられず、またビルヌーブは、彼の312T2が今まで乗っていたラウダ用にアンダーステア気味にセッティングされていたため、彼本来の走り(オーバーステアにセッティングしてテールを大きく振ってフルカウンターステアリングを使ったドリフト走行)ができず、やはり順位を上げられなかった。それにビルヌーブは無理にそのアンダーステアなセッティングのマシンで自分の走りをしようとしてコースアウトし、マシンをぶつけて壊してしまった。そのため、決勝までにメカニック達は必死でビルヌーブの壊れたマシンを修理しなければならなかった。結局フェラーリの2台は、予選結果は全くサエなかった。

決勝では、かなりの混戦でいろんなマシンが接触・コースアウト・スピンなどをしながらコースを荒らしていたが、ビルヌーブはそれに巻き込まれることはなく、冷静にかわしながら走っていた。順位こそサエなかったが、なんとか走行を続けていた。その内にチームメイトのロイテマンのマシンは不調が出始めジリジリと後退していった。

やがてビルヌーブにも不運が訪れた。マリオ・アンドレッティのロータス78(1977年のロータスのマシンは78という名前が付けられていた)のエンジンが火を噴いてオイルをコース上に撒き散らし、そのオイルに乗ってスピンするマシンが続出し、中にはコースアウトしてクラッシュするマシンもあった。

ビルヌーブもアンドレッティのオイルを踏んでスピンした一人だったが、コースアウトはせずに、彼の得意なスピン中のヒール・アンド・トゥで勢いよく全開走行を再開しようと思ったその瞬間、彼の312T2のドライブシャフトが折れてしまったために、彼の母国でのGPはリタイアとなった。

ビルヌーブはその時のことを、「オイルフラッグに気づくのが遅れてオイルに乗ってスピンした。スピンした後についクラッチを急激に繋いでしまったためにドライブシャフトに過大な負荷がかかって折れたんだ。だからリタイアしたのは僕のミスだ」と語った。この態度に報道陣の誰もが驚いた。なぜなら、F1ドライバーたちの多くは、他人が原因(今回はアンドレッティ)でリタイアした場合にはひたすら他人のせいにして自分のミスを一切認めないドライバーが大半だったからで、そういうドライバーたちに報道陣は嫌気が差していたからだ。だからビルヌーブの素直さに驚いたのだった。

しかしビルヌーブは、次に行われるレースで、取り返しのつかないとんでもない失敗をやらかして、世界中の新聞のトップ記事にされるほど、悪名を売ってしまうのだった。それは今でも語り種となっている、1977年の「魔の日本GP」だ。


第1コーナーでの大惨事(1977 日本GP)

日本GPは、富士サーキット(富士インターナショナル・スピードウェイ)で開催された。既にニキ・ラウダはフェラーリから抜けてしまったのは先にも書いたとおりだが、そのラウダの乗っていたカーナンバー11のマシンにビルヌーブは乗っていた。偉大な帝王ラウダのマシン、そのマシンは皮肉にもビルヌーブにとってはこの上なく扱いにくいシロモノだった。

ビルヌーブは語った。「312T2は僕にはとてつもなく扱いづらいマシンだ。同じマシンでカルロス(ロイテマン)が速く走るのが信じられない。一体この312T2で、僕の走り方で、どうやったら速く走れるんだろう…。悩んでしまうよ」

そんな不安を抱えたまま、日本GPの予選は始まった。

富士サーキットの危険性についてカルロス・ロイテマンは語ったことがある。第1コーナーや最終コーナー(まだシケインが設けられていなかった頃である)の危険性は見逃せないし、気が抜けないとのことだった。フェラーリの2台はここでもいいところがなく、不安定な挙動のマシンに悩まされ、ロイテマンは辛うじて予選結果はトップ10以内、ビルヌーブはもっと後ろのグリッドしか確保できなかった。

決勝レースでは、スタート後間もなくマリオ・アンドレッティがクラッシュした。その時のロータスのタイヤがコースに残されてしまい、これをかわそうとしたハンス・ビンダーが高原敬武のコジマ009と衝突してクラッシュ。ビンダーも高原もリタイアとなった。しかしこのクラッシュは、この数周後に起こる大惨事の、ほんのイントロダクションでしかなかった。

ビルヌーブは予選でかなり後ろのグリッドしか確保できなかったため、必死に追い上げをしていた。彼はおそらくかなり焦りすぎていたのだと思われる。コーナーに進入するたびにタイヤからブレーキング・ロックによる白煙が上がった。それに彼は、アンダーステアが激しい312T2をドリフト走行で無理矢理ねじ伏せるようにして真横になってコーナーを抜けていた。それでも上位には追いつけない。不安定な312T2では、これが限界ギリギリのドライビングだった。

そして6周目、大惨事は起こった。

ピット前のストレートを、ロニー・ピーターソンのティレルの真後ろにピッタリとはり付いて走っていたビルヌーブは、第1コーナーのブレーキングでピーターソンをインから抜きにかかった。…おそらくビルヌーブは富士サーキットの第1コーナーの危険な路面状態を忘れていたのだろう。当時の富士サーキットの第1コーナーはとても路面が荒れていて、ブレーキング勝負に出るには極めて危険なコーナーだったのだ。そしてその直後、不安定なブレーキング状態のため、ビルヌーブのフェラーリの左前輪とピーターソンのティレルの右後輪が接触、ティレルはフェラーリに乗り上げられたためリアウイングがもげてスピンしたのみに収まったが、ビルヌーブのフェラーリは、そうはいかなかった。

ビルヌーブのフェラーリは時速250km以上の速度で空に舞い上がった。そしてノーズから地面に叩き付けられたフェラーリ312T2は狂ったようにトンボ返りをうちながら、激しく横転を続けた。コース外のダートに飛び出してもフェラーリはその横転をやめず、ダートの向こう側にあったキャッチフェンスに飛び込んでもまだ横転を続けた。そして、そのキャッチフェンスの向こうは立ち入り禁止区間だったにも関わらず、かなりの観客が居た。その観客が居る場所に横転を続けるフェラーリ312T2が突っ込んだ!

…この事故で、立ち入り禁止区間に入っていたカメラマンが即死。そして、この事故が起こる少し前から「ここは危険だから立ち去るように」と誘導していたコースマーシャルが即死。2人の命が奪われた。他にも多くの人間が、横転するフェラーリ312T2の下で重傷を負った。

やっと横転をやめて止まった312T2は、見るも無残な姿になっていた。タイヤやサスペンションやボディワークなどは全てちぎれ飛んで無くなって、エンジンやミッションまでズタズタに破損していた。辛うじてマトモに残ったのはアルミがむき出しになったモノコックフレームの一部だけだった。しかし、マシンに乗っていたビルヌーブは無傷だった。

すぐにビルヌーブはマシンから降りてピットへと歩いた。この時点では彼は観客が死んだとは知らずに、ただ自分自身に腹を立てていた。自分のブレーキングミスに腹を立てて、むすっとした表情でピットに帰ってきた。やってきた報道陣に囲まれても、これだけすさまじい大事故の直後だというのに、ビルヌーブは眉ひとつ動かさず、全く冷静だった。

普通のF1ドライバーならば、大抵はこれだけの事故の直後はひどく興奮して動揺してしまうものだが、ビルヌーブは平然としてピットクルーに伝えた。「第1コーナーでミスって事故を起こした。僕は見てのとおり無傷さ」。そして彼はぶつけてしまった相手のロニー・ピーターソンのピットへ行き、自分のミスであることを伝え、ピーターソンに謝罪をした。

やがてレース自体は終わったが、もちろんそれだけでは事は収まらなかった。ビルヌーブのマシンの下で死んだ・重傷を負った人間が居るという事実があるのだ。これについて日本の関係者はビルヌーブに激しく質問の嵐を投げかけた。調査も進んだが、結論は、ビルヌーブもピーターソンも悪質なことはしておらず、F1レーシングの規定に沿って走った結果の偶発的な事故だという結論になり、事故の原因のビルヌーブは書類送検をされただけにとどまった。

ピーターソンにも責任が無いとはいえなかった。ピーターソンはビルヌーブのラインを塞ぐような形でコーナーに進入していたのだ。だがこれは6輪車(当時のティレルは6輪車だった)を操るための独特のテクニックだったために、ピーターソンのことも責めようが無かった。いずれにしてもF1レーシングでの事故のひとつと捉えられ、結局2人とも責任は問われなかった。

1977年のF1シーズンはこの日本GPで終了したのだが、この日本GPの第1コーナーでのショッキングな事故シーンの写真は、後日、全世界の新聞のトップ記事を飾ってしまったのだった。


世界中からの非難の声

…こんな風に、ビルヌーブは世界中のレース関係者たちから非難を浴びた。確かに彼はまだF1の経験はほとんど無かったし、取り返しのつかない大事故を起こして彼の312T2の下で2人の観客が死んだのも事実である。

ビルヌーブが死亡事故を起こしたことについて、彼がいかにも無感情で平然としているかのように世界中のマスコミは騒いだが、実はビルヌーブは、自分の感情を表情に出すことが非常に苦手だったのだ。無感情だと言われるのはその性格のためだったのだ。もちろん死亡事故については彼自身かなりショックを受けていて、相当精神的に落ち込んでいたようである。その彼の精神的な落ち込み具合はエンツオ・フェラーリが一番よく知っていたとも言われている。

そして、今回の事故に関しての記者会見によるエンツオ・フェラーリ直々の言葉は、これはこれで世界中を驚かせた。

ビルヌーブを解雇する気など毛頭無い。彼はまだF1での経験が浅いだけだ。いずれ必ずウチのチームにふさわしいドライバーに成長させる自信が我々にはある。諸君は今回の事故で人が亡くなったことについてかなり感情的に騒ぎ立てているが、過去にもF1でドライバーや観客の死亡事故はたくさんあっただろう。忘れたかね? これがF1レーシングの世界なのだ。諸君は今までのF1レーシングをずっと見てきているのだろう? 違うかね?」

F1界のゴッド・ファーザーによる重く深みのある言葉は、ジャーナリスト達を一括して黙らせた。そして世界中のレース関係者も、ビルヌーブの才能に疑いを持ちながらではあるが、記者会見でのエンツオ・フェラーリの言葉により、ようやく気持ちを落ち着かせたようだった。

そのエンツオ・フェラーリの気持ちに答えるように、ビルヌーブはシーズンオフの最中、フェラーリのテストコースで他のどのF1ドライバーよりも長い走行距離をテストドライブし続けたのだった。一日中コクピットに収まり、食事もロクにせず、設備さえあれば深夜でもテストドライブをしそうなほどの勢いだった。それほど彼は練習に情熱をかけていた。

また、彼のチームメイトであるカルロス・ロイテマンは、例の事故については批判的だったが、ビルヌーブに接する時は意外にも友好的だった。気難しい性格で有名なロイテマンだが、物事に全力で真剣に取り組むビルヌーブのことを気に入った様子だった。こうして、だんだんとチームの中でビルヌーブは家族的な雰囲気で溶け込んでいくことになる。

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