◇ジル・ビルヌーブ列伝 (1979年)◇


余談:1979年シーズン開始前の内輪話

世間一般から言われていた「フェラーリチームは外部からの干渉を受け付けず、とても気難しいチームで、チーム内の雰囲気もきっと完全にドライなビジネスライクな重苦しい雰囲気に違いない」という評価を、ビルヌーブは「とんでもないよ!」と真っ向から否定した。というのも、ビルヌーブが実際にフェラーリチームで約一年間暮らしてみると、そのあまりにも家庭的な雰囲気に囲まれて幸せいっぱいの生活をしていたからだ。

もっとも、これにはビルヌーブだからこその理由がある。もともとフェラーリチームは(今はずいぶん違っているようだが)やはりビジネスライクな重苦しい雰囲気が基本的にあったのだ。それでもビルヌーブが「家庭的で楽しい」と言ったのは、何を隠そう、ビルヌーブがとことん裏表の無い真っ正直な性格のために、エンツオ・フェラーリはもとよりチームスタッフの全員が、その極めて素直で真摯で純粋な態度に心を許し、「ビルヌーブとならどんなことも胸を割って話せる・あいつは本当にいいやつだ・とても仕事が楽しくてやりやすい」という印象を持ったからだ。

もちろんフェラーリチーム自体は言うまでもなく、勝利への執念に燃えて全力で努力するチームで、F1チーム最高のテストコースを持つほどの、優勝への執念と緊張感の固まりのようなチームだが、その職場のムードメーカーとしてビルヌーブが居たために、チームメイトたちは仕事も楽しく続けることができたのだ。まさに理想的なチームの形態だった。

また、ビルヌーブの今年のチームメイトとなったジョディ・シェクターは、ビルヌーブがどこまでも「優勝か無か」という限界ギリギリの走りをするのに対し、あくまでも完走してポイントをかせぐタイプという、対照的なドライバーだった。その意味ではビルヌーブとシェクターはウマが合わないと思われがちだが、実際はとても仲がよく、二人ともマシンの調子が悪くとも不平を言わず、「文句を言うヒマがあったら自分達が原因を究明してチームメイトに伝えて少しでもマシンの状態を良くしていこう」という考えを二人とも持っていたために、尚更二人のウマは合ったのだった。

フェラーリチームがこれほどうまくいっていた時期は極めて珍しい。シェクターはフェラーリチームに入った当初、ビルヌーブのことを過小評価していたようだったが、その考えはすぐに改めざるをえなかった。なにしろ、実際に同じマシンに乗ったときビルヌーブのほうが遥かに速かったからだ。

カーナンバーはシェクターが11番、ビルヌーブが12番すなわちナンバー2ドライバーとなったが、それに対してビルヌーブは何一つ不平を言わなかった。「レースで速ければそれでいいのさ」という、実に単純明快な考えをビルヌーブは持っていて、肩書きなどはどうでもよかったのだ。このあたりにも彼の、ものにこだわらない素直な心がうかがえる。

このビルヌーブの素直な心こそ、彼の速さだけでなく人間性としても観客やジャーナリストたちの好感を得たのだった。それも助けとなって、現在でも彼を賞賛するファンは多いのである。

(さて、内輪話ばかりでは読者の人たちも飽きちゃうでしょうから(笑)、レースの話にいきまーす)


幸先の悪いシーズンのスタート(1979 アルゼンチンGP)

フェラーリのニューマシン(312T4)は、このGPには間に合わなかったため、前シーズンでの312T3で二人とも挑まねばならなかった。ビルヌーブの予選結果は10位で、シェクターも似たようなものだった。

スタート直後に多重クラッシュが起きたのだが、かなり大きなクラッシュだったにも関らず、どのマシンからも出火しなかったのがせめてもの救いだった。

クラッシュによって軽いケガをしたシェクターやネルソン・ピケは出場を断念。フェラーリでビルヌーブだけが決勝の再スタートを切った。しかし焦ったためか6週目にスピン。タイヤを痛めてしまったためにピットインしてタイヤ交換して追い上げを始めたはいいが、今度は彼のマシンをエンジンブローが襲い、リタイアとなった。旧型の312T3で周りのニューマシン群に打ち勝とうとするビルヌーブの意気込みも空回りに終わった


悪いレース結果ながらも、チームは明るい表情(1979 ブラジルGP)

ブラジルGPでは、ミシュランタイヤの性能の悪さのために苦戦を強いられ、ビルヌーブは5位、シェクターは6位という平凡な結果に終わったが、彼らのみならずチーム全体の表情も、レース結果とは裏腹に明るいものだった。なぜなら、いよいよ今シーズンのためのニューマシンである312T4が、次回の南アフリカGPに登場することになっていたからだ。

312T4はウイングカーそのもので、時代に合ったエアロダイナミクスを充分に考慮して設計されたものだ。今回のレース結果はみんな殆ど気にしていないくらいの嬉しい予定だった。

この312T4こそ、ビルヌーブがF1人生の中で最も輝いていた・またいろんな意味で、いかにも彼らしいアグレッシブでクレイジーな走りによる注目を浴びた時期のマシンになるのである。そのことはこの後のレース内容を見ていけばイヤというほど解るだろう。


「醜いアヒルの子」という汚名の312T4(1979 南アフリカGP)

南アフリカGPにデビューした312T4は、そのあまりの奇抜なデザインのために、外部のみんなから「醜いアヒルの子」とののしられた。しかし、実際の性能はずば抜けて優れていた。

ポールポジションはルノーのジャン・ピエール・ジャブイーユが取り、次にシェクター、ビルヌーブと続いた。

ビルヌーブは、「予選で決まったスターティンググリッドの順位のまま、お互いに追い抜きをしない」というチームオーダーをしっかり守っていた。これは彼が「レースは速く走るためのものであるが、あくまでも仕事であるから、オーダーはしっかり守るべきだ」という考えを持っていたからだ。ビルヌーブはどこまでもフェアだった。

にもかかわらず、おそらくビルヌーブの激しい闘争心のためであろう、ジャブイーユとシェクターとビルヌーブはスタート直後から壮絶なるバトルを演じた。ここでもビルヌーブがトップ争いをしているとレースが決まってスリリングなものになることが見られた。彼は二台に接触せんばかりに接近し、ハタから見れば危険極まりない走りのように見えたであろうが、彼はその接近戦を心から楽しんでいた。こういうことから考えても、彼はドライバーというよりは、限界ギリギリのバトルを心から楽しむ根っからの「レーサー」なのである

空模様は雨が降るのかやむのかハッキリしない天気だった。こんな状況では誰でもスリックタイヤに変えるかレインタイヤに変えるか迷うところであるが、シェクターがスリックタイヤを選んだのに対し、ビルヌーブはレインタイヤを選んだ

やがて雨がやんできて、誰もが「ビルヌーブはスリックタイヤにすぐさま変えるだろう」と思ったが、彼はレインタイヤのままで、それこそタイヤが熱でバーストする寸前のギリギリのところまで全開で走りつづけた。イチかバチかの賭けである。

ビルヌーブは、こういうタイプのドライビングだった。すなわち、タイヤをいたわって無難な順位でゴールするか、タイヤをバーストさせるかもしれない危険をおかしてまでも全力でトップを守ろうとするか、ドライバーとしてどちらを選ぶかと聞かれたら、ビルヌーブは迷うことなく危険をおかしてまでも全力でトップを守るタイプだったのだ。彼がドライバーではなく「レーサー」と今でも呼ばれているのは、その「優勝か無か」という姿勢の走りのためである。

それが効を奏したのか、結果的にシェクターは自分のささいなミスでタイヤにフラットスポットを作ってしまいジリジリと後退、ジャブイーユはタイヤ交換の戦略でミスり、思ったようにペースを上げられない。片やビルヌーブは2位以下に42秒の大差をつけて、見事に優勝を飾った。昨年のカナダGPから数えて2度目の優勝である。

ビルヌーブが「レーサー」としての走りをこれでもかというくらいに実行したために勝ち取った優勝の、典型的な例となるレースだった。


南アフリカに続いて2連勝(1979 ロングビーチGP)

ロングビーチGPでは、ビルヌーブは昨年のようなミス(周回遅れのレガゾーニと接触してリタイア)などをすることはなかったが、予選で312T4のフロントをクラッシュして壊してしまった。しかし気を取り直して果敢にタイムアタック。なんと予選の二日間ともトップタイムをたたき出し、堂々のポールポジションを得た。F1で初めての、しかもかなり難しいコースといわれているロングビーチの公道サーキットでのポール獲得である。

いまさら言うまでもないが、ビルヌーブは公道サーキットではずば抜けた速さを見せていた。ガードレールやタイヤバリアに囲まれた、エスケープゾーンなど殆ど無い、まるでクラッシュしてくれと言っているようなコースでもそれをものともせず、むしろ、その危険なコースを楽しむかのように、彼は例によってクレイジーなドリフト走行で、ガードレール数センチのところでマシンをコントロールしていたのだ。

オーソドックスなグリップ走行でさえガードレールに当たらないように気を使って走るのが一般のドライバーだが、ビルヌーブはどんなに逃げ場の無いコースでも完璧にドリフト走行をこなしていた

そのかたわら、ちょっと笑えるエピソードもある。F1で初めてポールをとったビルヌーブは、F1という特別な舞台で、先頭に立ってフォーメーションラップでみんなを引っ張ることには慣れていなかったのだ。フォーメーションラップの途中でロータス80のカルロス・ロイテマンが故障に見舞われ、ピットインしてしまったため、スターティンググリッドのポール位置につけたビルヌーブの真横には、2位のグリッドについているハズのロイテマンの姿は無く、これがビルヌーブを面食らわせた。「どういうことだろう?」と不安になったビルヌーブは、うっかりして、なんとなしにもう一度フォーメーションラップを回ってしまったのだ。いつも冷静な彼らしからぬミスであるが、こういう間の抜けたドジをするのも、却って人間臭くて親近感が沸くというものだろう。

おかげで彼は罰金を食らってしまったのだが、レース的なペナルティは課せられなかったため、ポールから見事なスタートを決め、全く問題なくパーフェクトなポール・トゥ・ウィンを飾った。南アフリカに続いて2連勝である。

このレースの時点で彼はなんと、早々にチャンピォンシップポイント争いで堂々の1位に踊り出たのだ。もはや彼をトップドライバーとして認めない者は誰も居なくなったのは言うまでも無い。


まさかのハットトリック(1979 イギリス・ノンタイトルGP)

次にイギリスのブランズハッチサーキットで行われたレースは、ノンタイトルGPといわれる、順位やポイントに関係ない、タイトル争いとは無関係の特殊なものだった。

ビルヌーブはこのレースでは新型の312T4ではなく、旧型の312T3で参加した。参加メンバーはマリオ・アンドレッティやニキ・ラウダやネルソン・ピケなどのF1ドライバーに加えて、イギリスのオーロラAFXのドライバーも多数参加した。もちろんマシンは全部F1マシンだ。

予選ではビルヌーブは3位につけた。スタートでアンドレッティがミスったため、これをかわしてラウダとビルヌーブがトップ争いを始めることになった。ラウダよりもビルヌーブのほうが遥かにアグレッシブかつ元気一杯で、ほどなくビルヌーブはトップを奪う。そのうちにアンドレッティもビルヌーブへと追い上げてきて一時はアンドレッティに抜かれもしたが、アンドレッティはマシントラブルのためジリジリと後退。難なくビルヌーブはかわして再度トップに立ち、そのままゴールイン。まさかのハットトリックである。

ノンタイトルGPのため獲得ポイントこそ無いものの、ビルヌーブは絶好調で波に乗っていた。

この知らせを受けた、今回のレースには参加しなかったチームメイトのシェクターは、複雑な気持ちだった。ビルヌーブがハットトリックを決め絶好調なのに対し、自分は納得のいく結果をまだ残せていないからだ。それにマスコミいわく、「本来は、フェラーリのナンバー1ドライバーの称号はシェクターではなく、ビルヌーブに与えられるべきではないのか? 戦歴を見ても明らかだろう」というコメントまでするほどで、これがシェクターの焦りをさらに募らせた。

しかし当のビルヌーブ本人は、「僕はあくまでもナンバー2ドライバーだよ。ただ1レース1レースを頑張って楽しんで走るだけさ」という、まるで冷めた言葉を発した。これは謙遜や思い上がりなどではなく、彼の本心だったのだ。ビルヌーブはレースをすること・レースでトップを走ることだけを目指しているのであって、どっちがナンバー1ドライバーかなどということには全く無頓着だったのだ。

ビルヌーブの頭の中には、仰々しい肩書きや名声やマスコミの評判などはどうでもよく、「レースでトップを走りたい。できれば優勝したい」という、レースそのものに対する純粋な闘争心しかなかったのである。彼が真の「レーサー」と呼ばれている理由はここにもあるのだ。


命をかけたタイムアタック(1979 スペインGP)

先に触れたとおり、シェクターはビルヌーブの活躍に対して激しいジレンマを感じていた。ビルヌーブ本人は無頓着だったのだが、シェクターのほうが「自分はナンバー1ドライバーなのに」という、ある種のコンプレックスを抱えてしまっていたのだ。

フェラーリのお家芸のようなもので、ある記者会見で発表があった。それは「どちらか速い・成績を残したほうのドライバーを事実上のナンバー1ドライバーにする」という発表で、これが実にタイムリーに発表されたのは、マスコミの「ビルヌーブとシェクターのどちらがナンバー1か?」という噂に反応するためだった。つまり、今後のレースの成績によっては、シーズン途中でありながらもビルヌーブがナンバー1ドライバーにのし上がる可能性も充分にある、という意味も込められていた。

この発表がされたからには、シェクターはナンバー1ドライバーの意地から、そしてビルヌーブは「純粋に誰よりも速く走りたい・もちろんシェクターよりも速く走りたい」という闘争本能から、二人の間の緊張感は高まった。もちろん良きチームメイトとして仲良くやってはいくが、レースではチームオーダーとは関係無しに火花を散らすということになる。

そんな緊張感の中、スペインGPは始まった。予選では二台の312T4はまるでレースのトップ争いをしているかのように、お互いに激しいタイムアタックを続け、これはこれで観客を熱狂させた。なにしろこざかしいチームオーダー無しに、同じマシンでどちらが速いタイムを出すか、観客はそれのみに集中できるからだ。

この予選でシェクターはプレッシャーのあまり自らミスをした。激しいスピンをして、シャシーやサスペンションまで痛めてしまう始末だっだ。シェクターはマシンにダメージを与えてしまった焦りが怒りに変わって、予選が終わってからはあちこちの物や人間に八つ当たりしてしまう。

この時点で当然ビルヌーブのほうが上のグリッドを獲得し、誰もが「ビルヌーブのほうが速いからナンバー1ドライバーだ」と思った。しかし、決勝レースの前半ではその評価が一時的に、あくまでも一時的にではあるが崩れてしまうのだ。

決勝レースでビルヌーブは例のごとく「誰よりも前を走りたい」という衝動から前を行くロイテマンを無理にかわそうとし、コーナーでこれまたかなり無理なブレーキング勝負に出たのだが、やはりビルヌーブはマシンの挙動を崩してスピンしてしまう。クラッシュ騒ぎにこそならなかったものの、かなりの数の後続車に抜かれてしまい、だいぶ順位が落ちてしまった。このために更に焦ってしまったビルヌーブは、スピン中に追い越されたネルソン・ピケを強引に抜こうとして、やはりスピンしてコースアウトまでしてしまう。前回のレースまではハットトリックを決めていたビルヌーブも、冷静さを欠いて二度も連続でスピンをしてしまっては、もはや勝ち目は無い。それでもコースに復帰する時に派手なスピンターンを決めて――見方によっては怒りのスピンターンに見えたかもしれないが――13位にまで後退してしまったにも関らず、少しでも速いラップタイムを出すことに専念することにした。

この二度のスピンでビルヌーブはある程度開き直ったせいもあって、「どうせ今回は優勝なんてできないんだから、レースの順位がどうなろうとも、たとえクラッシュしようとも、マシンが壊れるまで限界まで飛ばしてやろう」と心に決めたのだった。ビルヌーブは後にピットインをしてニュータイヤに履き替えて気を取り直して、今度はファーステスト・ラップをたたき出すことに集中した。

ただでさえ速いビルヌーブがレース順位を捨ててまで、完全に開き直ってファーステスト・ラップをたたき出すためだけに爆走する様は、それはそれは恐ろしいものだった。毎周毎周、完全に予選での限界ギリギリのタイムアタックをしているに等しかったからだ。予選での本気のタイムアタックの状態がレースを終えるまでずっと続いていたのだ。

こういう、毎周毎周のタイムアタック的な走り方は現在こそ主流になってきているが、当時のF1のマシンの安全性とエンジンやタイヤの耐久性では考えられないほど、あまりにも危険すぎる試みだったのだ。一つ間違えば即エンジンブロー。あるいは大クラッシュで最悪の事態――要するに事故死――も充分にあり得たのだ。だがビルヌーブは全く恐れることなく、毎周毎周ギリギリのタイムアタックを続けた。

一旦ビルヌーブのことを「二度もスピンしやがって、こりゃダメだ」と思った観客の誰もが、今度はそのあまりにもスリリングすぎるタイムアタックにゾッとするような緊張感、いや、殺気ともいうべきものをビルヌーブの走りから感じ取っていた。いつかは派手にエンジンブローを起こすか、あるいは大クラッシュをするかという殺気を観客は感じ取っていたのだ

それまでビルヌーブのスピンを見てせせら笑いしていた観客は、ビルヌーブの殺気立った走りを見て恐れをなし、「うわ…うわぁ…」という唸りしか上げられず、もう誰も微笑することすらできなかった。自然に観客も、純粋にビルヌーブのラップタイムが短縮される光景を追っていた。そういう意味では、ビルヌーブと観客の意識は一つになっていたのだ。観客にとっては今レースで誰がトップを走っているかなどということは、どうでもよかったのだろう。完全に観客の注目の的はビルヌーブのスリリングな走りだったのだ。

しかし、案の定というか、あまりにも飛ばしすぎたために、ビルヌーブの312T4はだんだんとギアボックスが不調になっていった。ついには2速ギアに入らなくなり、ビルヌーブは残りのギアのみで走らざるをえなかった。そのため最後のほうではラップタイムが落ちてしまい、最終的な順位は7位に留まってしまったものの、なんとか完走することができた。しかし、そんな結果などよりもギアボックストラブル前までのスリリングなタイムアタックは、観客にとっての最高のパフォーマンスとなり、レース順位とは関係なく、観客からビルヌーブに惜しみない沢山の拍手が送られた。このレースで、ビルヌーブのスリリングな走りに感情移入する観客が増え、いきおいファンも急速に増えていった。なにしろ、レース後半のビルヌーブの走りは、本当の意味で「命をかけたタイムアタック」と言っても過言ではなかったからだ。

レース前半ではビルヌーブはスピンによる笑いの的、反してレース後半ではタイムアタックによる感情移入の的、こういうレース展開もビルヌーブには珍しいことだった。しかしレース後半の「命をかけたタイムアタック」が観客やジャーナリストやマスコミには充分すぎるほど印象に残り、「純粋に、最も速く走れるドライバー」として、世間から極めて高い評価を得た。当然、今回のレース順位などというものは評価の対象外となり、「シェクターよりもビルヌーブのほうが遥かに速い」という評価が、今まで以上に強く世間に植え付けられた。

こうして、レース中のスピンで一時的に評価が落ちたものの、レースが終わってみれば「やはりナンバー1ドライバーはビルヌーブだ」ということになり、レース前からのビルヌーブへの評価が即刻復活したのは言うまでも無い。


過激な走りの代償(1979 ベルギーGP)

続くベルギーGPの予選第一セッションは雨だった。誰もが第二セッション、第三セッションに備えてクールダウンして走る中、ビルヌーブだけはストレートでもコーナーでも激しく水しぶきを上げ、果敢に攻めていたため、ビルヌーブは暫定ポールを取った。

しかし第三セッションになった頃には雨がやみ、ドライコンディションとなって各車タイムアタックを始めてからは、それまでのビルヌーブの派手な走りも暫定ポールのタイムも、他のマシンたちの中に霞んでしまう。結局フェラーリの履いていたミシュランの予選用タイヤの性能は、グッドイヤー勢に比べて遥かに劣っていたため、ただ雨に助けられていただけという事実が浮き彫りになってしまった。

このベルギーGPのあたりで、わずか2〜3周しかグリップしない予選用タイヤの危険性を、ドライバーたちやF1関係者は訴えていて、予選用タイヤの廃止を呼びかけていたのだが、当時は却下されてしまった。ビルヌーブも「もっとドライバーに安全を」と呼びかけていた一人だった(この3年後に、ここベルギーのゾルダーサーキットでビルヌーブが予選用タイヤの最大の犠牲者になってしまうとは、なんとも暗示的で皮肉なことである)。最終予選結果はビルヌーブが6位、シェクターが7位で、まったくパッとしなかった。

決勝での天気は晴れとなり、ドライコンディションで不利なミシュランタイヤを履いているフェラーリにとっては苦しいレースとなった。トップからパトリック・デパイエ、アラン・ジョーンズ、ネルソン・ピケ、ジャック・ラフィー、マリオ・アンドッレッティと続き、そしてシェクター、ビルヌーブと2台のフェラーリが続いた。2周目のシケインで、フェラーリ勢の間に割って入った形でウイリアムズのクレイ・レガゾーニがシェクターを抜きにかかり、狭いシケインなことも相まってレガゾーニとシェクターは接触、シェクターのマシンはわずかに挙動を乱しただけで済んだが、レガゾーニのマシンはスピンをしてクラッシュし、その直後に居たビルヌーブはモロにとばっちりを食らった

レガゾーニのマシンにビルヌーブのフロントウイングそして前輪が乗り上げ、昨年のロングビーチGPとまったく同じように、ビルヌーブの312T4はレガゾーニのマシンの頭上を飛び越えた。しかしコース脇にはクラッシュせずにコース上に着地。ビルヌーブは「フロントウイングさえ交換すれば何とか走れる」と判断して、急いでピットへと向かい作業を済ませたものの、順位は最下位になってしまった。

幸いレースは始まったばかりで、サスペンションなどの損傷は殆ど無かったので、ビルヌーブは飛ばすことだけに専念できた。ストレートでパワーにものをいわせて抜くのなら緊張感も半減するというものだが、たった一つのコーナーだけでビルヌーブが数台をゴボウ抜きする様は圧巻としかいえなかった。それでもまだ順位はかなり下のほうである。

その後トップ集団の5台がクラッシュ、そして更に6台がマシントラブルに見舞われ、ジリジリと後退していった。そのためビルヌーブの順位が自動的に5位にまで上がった。漁夫の利ではあるものの、それまで数台をゴボウ抜きするほどのすさまじい走りをしていなければ得られない順位である。

ビルヌーブはかつてのフォーミュラ・アトランティックでケケ・ロズベルグに対してやったように、前を行くリカルド・パトレーゼのアロウズに並びかけて激しくホイールをぶつけ、強引に抜き去って4位に上がった。このままいけば表彰台は確実だ。うまくすればトップ争いにも加われるだろう。ビルヌーブを始めとする誰もがそう思った中、トラブルは突然、しかも最終ラップのゴール直前にやってきた。

あまりにも飛ばしすぎたための、ガス欠だったのだ。最終ラップのゴールラインのわずか数百メートル手前で、ビルヌーブの312T4は「シュゴゴ、ゴゴゥ…ボボゥ…」と急激なサージングを起こし、コースをゆっくりと惰性で動いて、遂にはゴールラインの300メートル手前で完全に停止してしまった。それとは対象的に、シェクターはこのレースで勝利を飾った。

飛ばしすぎたためとはいえ、なぜビルヌーブのマシンだけがガス欠になったのか? その疑問の答えは、いかにもビルヌーブらしい理由だった。彼はシフトチェンジする際にアクセルを床まで踏みっぱなしにすることがクセになっていて、路面のバンプでマシンがジャンプする時もアクセルを床から離さなかったのだ。そのためにエンジンは一瞬とはいえオーバーレブし、当然その分燃費も悪くなる。こういうことが原因でビルヌーブのマシンだけがガス欠になったのだった。

優勝者のシェクターは言った。「ビルヌーブは自分の走り方を変えていかなければ勝つことはできないだろう。F1はただ速く走れればいいというものではないし、結果を出さなくては意味が無い。しかし、あの走り方があるからこそのビルヌーブでもある。事実彼はこのレースで誰よりも速いラップをたたき出したのだから」と、批判しているのか認めているのか、シェクターの複雑な心境をよく表したコメントだった。


「破壊の王子」という誉め言葉(1979 モナコGP)

モナコGPの予選では、ビルヌーブはあの狭くて曲がりくねったコースをドリフトさせながらも、観客の表情を読み取れるまでに余裕ができていた。「クレイジーな走りに恐れをなしている観客の表情を見て楽しむ」という意味で、ビルヌーブ自身も「観客」気分でいたのだ。公道サーキットでのビルヌーブは心底レースを楽しんでいるようだった。

しかし、ビルヌーブのマシンは予選で燃料漏れのトラブルがあり、スペアカーに乗り換えたもののセッティングが合わず、シェクターのタイムを超えることはできなかった。なんとか決勝までにはメインのマシンが修理されて間に合ったものの、決勝でのビルヌーブは焦りからスタートでミスをしてしまい、彼の得意技であるスタートダッシュを決めることができなかった。

ビルヌーブは気を取り直して追い上げ、再度トップグループに加わるものの、今度はギアボックスのトラブルに見舞われてしまい、ピットイン=リタイアとなってしまう。

前回のベルギーGPでも触れたように、ビルヌーブの走り方はエンジンをしばしばオーバーレブさせるもので、更にギアボックスにも負担がかかってしまう走り方だった。そのために今回のようなトラブルも、起きるべくして起きたようなものだった。

ビルヌーブはチームスタッフたちから「もっとマシンをいたわって走ってくれ。どんなに頑丈に作ってもお前にかかったら壊れてしまうよ」と言われたのだが、ビルヌーブは自分の走り方を変える気はさらさらなかった。「マシンを壊してもいいから少しでも速く走りたい」という彼の本能が、チームスタッフの言葉を受け付けなかったのだ。スタッフは仕方無しに、更に頑丈なマシンを作らざるを得なくなる。

ビルヌーブのオーバーレブな走り方をよく知っているエンツオ・フェラーリの意見はこうだった。「マシンが壊れるのも、いいではないか。ビルヌーブが運転しても壊れないマシンを作る、すなわち故障が極力出にくい頑丈なマシンを開発することも、これまた重要なことだ。設計者やメカニックの諸君、ビルヌーブが壊したマシンをよく研究して、もろい部分を強化するように、開発・改良に精を出したまえ」。

このように、エンツオ・フェラーリはビルヌーブのことを肯定的に見ると同時に、「ビルヌーブは頑丈なマシン開発に欠かせない。彼は良い意味で“破壊の王子”である」とまで言う始末で、まるでビルヌーブを自分の息子のように可愛がっている様がよくうかがえる。


F1史上に残る伝説の大バトル(1979 フランスGP)

1979年のフランスGP、ディジョン(プレノア)サーキットで行われたレースは、今でも伝説となっているほどのすさまじいバトルがあったレースだ。「ビルヌーブは紛れも無く真のレーサーだ」というイメージを世界中に決定付けさせたほど、印象深いバトルのあったレースである。

その傍ら、かつてワールド・チャンピォンにもなったことのあるジェイムス・ハントが引退する、という出来事があった。ハントは昨年のロニー・ピーターソンの死亡事故で真っ先に救出にあたった人間だったが、その時からハントはF1の世界に恐怖を感じていて、遂にこのフランスGPからはコントロールタワーでのコメンテーターとなり、完全にF1マシンの運転からは引退してしまったのだ。

その昔、ティレルで走っていたジャッキー・スチュワートがチームメイトのフランソワ・セベールの大事故を目の当たりにし、引退を決意した、それとほぼ同じような感覚をハントも抱いていたのだろう。

更に時を同じくして、パトリック・デパイエがハンググライダーの事故で大ケガをするというニュースもあった。デパイエのハンググライダー事故はF1とは直接は関係ないものの、まるでF1界全てが暗く重苦しい雰囲気に包まれたような様子だった。誰もが、人間の命のもろさというものを痛感させられていた。

しかし、このフランスGPは、そんな重苦しい雰囲気など吹き飛んでしまうかのような熱いレースとなった。

予選が始まり、地元フランスのルノーチームの二人、ジャン・ピエール・ジャブイーユとルネ・アルヌーがフロント・ローを獲得し、3位にビルヌーブが並んだ。シェクターは5位だった。

ルノーのマシンは当時初のターボエンジンでパワーに満ち満ちていたのだが、ルノーのターボエンジンはスタート直後やコーナー出口での立ち上がりが悪い、いわゆるターボラグがあり、そこにビルヌーブの勝機があった。

ディジョンサーキットは極めて勾配とコーナーの曲がり具合がキツく、ドライバーの体にかかるGは想像を絶するものだった。そのために多くのドライバーたちはヘルメットをロールバーに固定してGに耐えるという、今でいうHANSのようなものを装着しなければ、レースを完走するだけの体力がもたなかったのだ。モナコのコースなどは中低速コーナーが主体だが、このディジョンは高速サーキットな上にGのかかりが強いので、ディジョンのほうがはるかに大変な疲労度である。

そんなコース条件にもかかわらず、ビルヌーブはスタートから猛烈なダッシュを決め、2台のルノーのスタートでのターボラグを見逃さずトップに立ち、少しのペースダウンをすることもなくトップを走りつづけた。

だが、トップに立ったとはいえビルヌーブの心の中は、決して楽観的なものではなかった。なぜならターボエンジンのルノーはあまりにもパワーがあり、ルノーの2台がストレートでパワーに物を言わせてどんどんタイムを縮め、ビルヌーブのノンターボな312T4に追いついてくる可能性が充分にあったからだ。ジャブイーユは2位につけている。そしてアルヌーはスタートでかなり順位が下がったものの、彼もかなり順位を回復して迫ってきている。この2台のルノーのエンジンパワーはビルヌーブにとって脅威だった

だからビルヌーブはトップに立っている今のうちに少しでもルノーの2台を引き離しておく必要があった。ビルヌーブは予選走行さながらの猛烈なペースで周回を続け、後続をどんどん引き離していった。

しかし、312T4の信頼性自体はそれほど問題は無かったのだが、肝心のタイヤがタレ始めてきた。性能の悪いミシュランタイヤを履いた宿命といえるもので、どんなにエンジンやシャシーが頑丈に改良されていても、タイヤの悪さだけはフェラーリチームにとってはどうにもならなかった。実際、シェクターはタイヤのあまりの不安定さに緊急ピットインまでする始末で、これを見てもビルヌーブが置かれた境遇がいかに苦しいものかが解る。トップを走っているとはいえ、ビルヌーブの走りには余裕など全く無かったのだ。

そしてその時は訪れた。スタートからたった15周しか走っていないのに、もうルノーの2台がビルヌーブの312T4の真後ろに迫ってきていた。パワーの劣るマシンで、更に性能の劣るタイヤで、この2台とトップ争いをしなければならないビルヌーブ。こういう境遇になった時のビルヌーブは更に過激さを増し、走りが殺気立ってくるものなのだ。

観客は極度に緊張していた。地元のルノーチームももちろん応援したいところだが、ビルヌーブがどうやってトップを死守するかにも興味が大いにある。性能の劣るマシンで打ち勝とうとするビルヌーブの勇姿に、観客は国籍の違いなど関係なく見入った。

「絶対に負けるわけにはいかない」。ビルヌーブの心はそれ一つだった。と同時に、どんどんグリップが低下していく貧弱なミシュランタイヤを抱えての全開走行は、一歩間違えればコーナーで横っ飛びして大クラッシュという極限状態にまでいっていた。

312T4が履いているミシュランタイヤの貧弱ぶりは、それはそれはひどいもので、周回を重ねていくごとに、右コーナーでは極度のオーバーステア、左コーナーでは極度のアンダーステアになるという、本当にF1用のタイヤなのであろうか? と疑いたくなるほどのお粗末な性能だった。しかもエンジンパワーでも劣っている。そんなどうにもならないほどの絶望的な状態で、ビルヌーブは全神経を注いで懸命に飛ばした。

しかしビルヌーブの鬼のような走りもマシンの性能差をカバーすることができず、46周目、メインストレートの終わりのほうでルノーのターボエンジンのパワーを頼りに、ついにジャブイーユがビルヌーブを抜いてトップに立った。観客はビルヌーブに対し、「ここまで頑張ってきただけでも充分すぎるほどのパフォーマンスだ。よく頑張ったな、素晴らしいぞビルヌーブ!」という声援を送った。あとはジャブイーユが地元で無事に優勝するのを待つのみである。ビルヌーブのパフォーマンスはここで終わりだ、と誰もが思った

しかし、それはとんでもない勘違いだった。本当のドラマはここから始まったのだ。ジャブイーユに抜かれたビルヌーブは、マシンの性能上どうしても再度抜き返すことができず、2位をキープしていた。それどころかすぐ後ろには同じルノーに乗るルネ・アルヌーが居る。

「まんまとルノーの2台に1−2フィニッシュを譲ってなるものか」。そう決意したビルヌーブは、アルヌーと激しく競り合った。

アルヌーはどことなく、人間的にビルヌーブと似ているところがあった。マシンを降りている時は口数が少なく引っ込み思案で、いざマシンに乗ったらかなりの過激な走りをするというタイプだった。そういう似通った性格のドライバー同士だったために、お互いに一歩も譲らず、激烈な2位争いのドッグファイトがいつまでも続いた。

残りわずか3周というところで、とうとう、アルヌーのルノーがビルヌーブのフェラーリの真横にノーズを滑り込ませ、そのままアルヌーは2位へと順位が上がった。観客は大喜びし、「もう、やっとこれで本当に全てが終わった。ルノーの1−2フィニッシュは決定した」と信じ込んだ。

しかし、ビルヌーブは決して諦めなかった。抜いていったアルヌーのルノーが意外にペースが上がらないことにビルヌーブは気付いた(実はアルヌーのルノーは燃料タンクからの燃料の吸い上げが不調で、わずかなサージングを起こしていてエンジンパワーが上がらない状態だったのだ)。このためにフェラーリ312T4とルノーの性能差はほとんど無くなり、互角の性能のマシン同士となり、2台の2位争いのバトルは果てしなく続いた。

コーナーごとのビデオカメラだけでなく、レースを上空から実況するために、サーキットの上ではヘリコプターが飛び、上空からのビデオカメラで彼らのバトルを実況していた。

第一コーナーでビルヌーブはギリギリのブレーキング競争に出た。フェラーリのズタズタに痛んだミシュランタイヤをバーストさせるかのような激しい白煙があがり、マシンの挙動を乱しながらも、ビルヌーブはアルヌーのインを奪った。しかしアルヌーも負けじと食らいつき、2台はコーナーというコーナーで真横に並び合い、両車は全く横の間隔が無い状態で数え切れないほどホイールをぶつけ合い、その反動であわや2台ともコースアウトかという瞬間もあったほどである。

上空から実況しているヘリコプターのレポーターは、

と興奮していた。まさに、このバトルは今までのF1史上無かったほどの、ハイスピードかつ超接近戦だった。二百数十キロ出ているハイスピードバトルにもかかわらず、2台の間隔はものの数センチも無かった。このバトルでは2台が何度接触してホイールから火花を散らしたか、誰も数えることができないほど接触の多いものだった。

更にアルヌーはコーナーでビルヌーブにぶつけてダートに押し出し、ビルヌーブのマシンは一瞬真横になって姿勢を崩す。アルヌーも姿勢を崩してタイムロスをする。これでバトルは終わりか!? と思いきや、ビルヌーブはダートの土をけたたましく蹴飛ばしながらも再びアルヌーに接近。アルヌーも姿勢を立て直して先のようなバトルがまた繰り広げられた

遂に最終ラップ。ゴールラインの二つ前のコーナーで、ビルヌーブがほんのわずかに前に出ていた。アルヌーは最後のチャンスとばかりに、イチかバチかの賭けに挑み、インとアウトが入れ替わるカウンターアタックで勝負に出た。しかしビルヌーブのコーナリングスピードがわずかに上回っていたため、アルヌーのアタックは失敗に終わり、そのままの勢いでビルヌーブがゴールラインを通過した。ゴール時の両車の差はわずか0.24秒差という、最後の最後まで超接近戦だった。ビルヌーブはこの激烈なバトルに勝ったのだ

フィニッシュの瞬間、レポーターは「ビルヌーブが2位だ! アルヌーは3位…」という、嬉しいやら悔しいやら複雑な心境のトーンの声でレポートしていた。どちらも応援したい、という心境だったのだから無理も無いことである。と同時にレポーターは「二人ともありがとう! 素晴らしいバトルを見せてくれてありがとう!」と叫んでいた。

レースの終盤のわずか数周の出来事だというのに、とてもとても長く感じられた、極度に緊迫したバトルだった。ゴール後のスローダウン走行で、ビルヌーブとアルヌーはお互いに手を振り合い、お互いを祝福しあった。パドックに戻ってきてからも彼らは純粋なバトルを演じた満足感で笑顔に満たされて、彼らのバトルを心から祝福する観客に取り囲まれた。また、これを機会にビルヌーブとアルヌーは仲のいい友人にもなったのだ

このレースで優勝したのはジャブイーユではあるものの、事実上のスターはビルヌーブ、そしてアルヌーだった。それは報道陣や観客の視線や祝福の内容を見れば一目瞭然だった。

ただ、こういうバトルに付き物の批判の声があったのも事実である。他のドライバーたち、特にベテランドライバーたちは「ひとつ間違えば大事故になっていたのに嬉々としているなんて、二人とも危険意識のカケラもない!」と批判し、マリオ・アンドレッティに至っては「ただ単に、二頭の若いライオンが牙を向き合っただけだ。危険極まりないくだらないバトルだ」と批判した。

それに対してビルヌーブとアルヌーは、「僕たちはお互いに怯えなかった。尻込みして譲ることをしなかった。お互いにお互いのウデを信頼し合っていた。だからあのバトルができたんだし、心から楽しむこともできたんだ。あんたらにそれができるかい? あんたらなら、たぶん怯えてアクセルを緩めてしまっていただろうさ」と返事をしてケロッとしていた。実際、彼らのバトルをマネすることなど、他のドライバーにはできなかったのだ。ビルヌーブとアルヌーだからこそできたバトルだったのだ。

エンツオ・フェラーリの言葉は今回の二人のバトルを絶賛するもので、「我々はビルヌーブという、勇気と冷静さを併せ持つ素晴らしいドライバーを持っていることを誇りに思う」とコメントした。

確かに危険なバトルだった。テクニックと勇気と冷静さと判断力、すべてがうまく合わさっていなければできないことだ。しかしそれをやってのけた彼らに対し、マスコミは「まぁ、まだ若いから血の気が多いんだろう。事故にならなかったんだからいいじゃないか」と大目に見て、今回のレースの特ダネ記事ができたことを喜んでいた。実際のレース経験が無いマスコミなど、いいかげんなものである。

後日、モータースポーツ雑誌の「オート・テクニック」誌の見出しで、今回のフランスGPについて「ジャブイーユ&ルノーのフランス革命」という、ジャブイーユが優勝したことだけを伝える、いかにも雑誌の体面を守るためだけのような見出しが載せられていた。しかし実際にレースの現場でビルヌーブとアルヌーのバトルを見た人間から言わせれば、「オート・テクニック」誌のあまりに事務的な苦し紛れの見出しに笑ってしまうほどであった。誰もフランス革命などという言葉には反応せず、ビルヌーブとアルヌーのバトルのことで噂はもちきりだったからだ。

こうして、1979年のフランスGPは「ビルヌーブとアルヌー、伝説の大バトル」として語り継がれていくことになる。


走り方に合わないグランドエフェクト(1979 イギリスGP)

イギリスGPは超高速サーキットのシルバーストーンで行われたが、ここでは312T4のグランドエフェクトの性能が逆にアダになってしまった。サイドポンツーン内部に設けられたウイング機能やサイドスカートの機能が強すぎて、最高速が伸びなかったのだ。ビルヌーブもシェクターもこれには参ってしまったようだった。超高速サーキットで最高速が伸びないのでは話にならない。

フェラーリチームは、フロントウイングとリアウイングの角度をメいっぱい寝かせて少しでもダウンフォースを減らそうと試みたが、それでも最高速が伸びず、結局予選グリッドはシェクター11番手、ビルヌーブ13番手と、かなり悪い位置になった。

しかもビルヌーブの場合は超高速サーキットでもマシンをドリフトさせて走るクセがあったため、ダウンフォースを少なくし過ぎたマシンではハンドリングが不安定で、更に定番のお粗末ミシュランタイヤのせいで、更にハンドリングが悪くなっていた。そのため決勝レースでも思ったように走れず、ビルヌーブの決勝レース結果は予選グリッドよりも悪い14位になった。

これに対してとことんグリップ走行が基本のシェクターは、不安定なマシンをいたわりながらも無難に地味に走り、決勝レースでは5位の結果を得た。ビルヌーブにしてみれば、流行のグランドエフェクトカーもサーキットによって不利になる、と思ったレースだった。


リアウイングの損傷など眼中に無い(1979 ドイツGP)

続くドイツGPはホッケンハイムサーキット。このサーキットは前回のシルバーストーンほどの超高速サーキットではないため、312T4のグランドエフェクト機能が大体マッチングしており、予選はシェクターが5番手、ビルヌーブが9番手だった。

決勝レースではビルヌーブのマシンに異常が出始めた。なんと、ラップを重ねるごとにだんだんとリアウイングの一部が外れかかっていたのだ。当然リアタイヤのグリップがどんどん落ちてきてオーバーステアがひどくなっていった。ビルヌーブはリアウイングの損傷に気付いたもののピットインすることなく、構わずに飛ばした。「たかがリアウイングの損傷ごときでいちいちピットインするのはバカバカしい」とビルヌーブは思ったのだ。

普通ならば、リアウイングの損傷でオーバーステアがひどくなった時点ですぐに緊急ピットインをするのが常識なのだが、ビルヌーブの頭の中にはそんな「安全策」はカケラもなかった。危険をおかしてでもとにかくタイムロスをしないで走る、それがビルヌーブの考えだったからだ。

「僕の走行はドリフトが基本なんだから、リアウイングの損傷なんて眼中に無いよ。リアが派手に流れようが構わないさ。いつものようにフルカウンターを当てればいいだけの話さ」といわんばかりに、かなり派手なテールスライドをしながら、リアウイングが損傷した312T4をあえて放置し、まるでそれを楽しむかのような綱渡り的な走り方を続けた。おまけに、マシンがこんな状態にもかかわらず、ビルヌーブはなんとファーステスト・ラップを叩き出していたのだから恐ろしい。

しかし、やはりというか、リアウイングの損傷がひどくなっていくにつれて、どうしてもコーナリングが不安定になっていき、ペースがだんだんと落ちてきて、レース結果は8位に終わった。もし緊急ピットインをしてリアウイングを修理していたら、もっと悪い順位になってしまっていただろう。

順位はともかく、ビルヌーブがリアウイングの損傷を抱えながらもファーステスト・ラップを叩き出したことに、誰もが驚いたレースだった。


本物のロケットスタート(1979 オーストリアGP)

オーストリアGPのエステルライヒリンクサーキットでは、フェラーリ勢はハンドリングの不調に悩まされ、ビルヌーブの予選結果は5番手、シェクターはもっと後ろのグリッドしか確保できなかった。

「このレースでもフェラーリ勢はいいところがないか」と噂されたが、その噂を一瞬で跳ね除けるようなとんでもない走りを見せつけたのは、ビルヌーブだった。

決勝のスタート直前、グリッド最前列に居るアラン・ジョーンズとルネ・アルヌーは、共にスタートダッシュに集中するべく、「スタートでアルヌーには負けないぞ」「スタートでジョーンズを引き離すぞ」と、彼らは互いにシグナルが青に変わる瞬間を見つめていた。そしてスタート。…しかしジョーンズもアルヌーも全く不意をつかれることになった。はるか後方のグリッド3列目につけていたビルヌーブのフェラーリが一瞬で彼らの横をかすめていったからだ。スタートダッシュでビルヌーブが抜いていったのはレガゾーニ、ジャブイーユ、ラウダ、アルヌー、ジョーンズだった。抜かれた彼らだけでなく観客までもが「一体何が起きたんだ!?」という表情であっけに取られてしまった。まさに本物のロケットスタートと言うにふさわしいビルヌーブのスタートダッシュだったのだ。

決してフライングスタートではなかった。ビルヌーブはシグナルが変わる瞬間を神業のような正確さで読み取り、アクセルを床に踏んづけたまま目にも止まらない速さでシフトアップ、まるでドラッグレースさながらのスタートダッシュだった。

しかしマシンそのものの性能はジョーンズのウイリアムズのほうが上回っていたために、その後間もなくビルヌーブはジョーンズに抜き返されてしまい、ビルヌーブは2位でレースを終えた。

言い換えればビルヌーブはマシンの性能差をスタートダッシュでカバーしたわけだが、性能の劣るマシンでロケットスタートを決めたビルヌーブの恐ろしいまでのテクニックを誰もが味わわされたレースだった。

レース後のインタビューでアラン・ジョーンズは言った。「スタートでは本当に驚いた。てっきりアルヌーが並んでくると思ったらビルヌーブが真横に居るじゃないか! 一体どうやったらあんなスタートができるんだ!?」と。

これはジョーンズの個人的な感想などではなかったのだ。実際、後日のモータースポーツ雑誌で「20年に一度見られるかどうか解らないほどのすさまじいロケットスタート」と、ビルヌーブのスタートのことを絶賛する記事が載せられた。


ピットまでの激烈な三輪走行(1979 オランダGP)

1979年のオランダGPほど、ビルヌーブのクレイジーぶりを印象づけたレースはない。そのクレイジーぶりは派手に新聞のトップ記事にされ、良かれ悪かれ世界中から様々な評価を得たレースだった。

ビルヌーブは予選6位のポジションを得て、決勝では得意のスタートダッシュを決め、レガゾーニ、ジャブイーユ、アルヌーを次々と抜き去った。抜かれた彼らは「誰かと思ったらまたビルヌーブか! かんべんしてくれ!」と絶望的な気持ちになってしまったようだった。それほどまでにビルヌーブのスタートダッシュは素晴らしかったのだ。

間もなく、ルノーのアルヌーがウイリアムズのレガゾーニと接触、レガゾーニのマシンは一つのホイールが吹っ飛んだものの、なんとか無事に停止できた。レガゾーニのマシンはかなりのハイスピードで三輪状態になるという危険な状態だったのだが、レガゾーニはマシンをコントロールして無事に停車し、その場でマシンを降りた。

しかしこのレガゾーニの三輪状態でのリタイアは、この後に起きるショー・ラップのイントロダクションでもあったのだ。

6位からスタートダッシュを決めて2位にまでつけたビルヌーブだったが、彼は前を行くジョーンズのウイリアムズに追いつくまでには10周もかかってしまった。これはマシンの性能差によるものだが、本来ならばまず追いつけないほど、ウイリアムズのマシンのほうが性能が上だったのだ。そのハンデをビルヌーブは鬼のような走りでカバーしながらジョーンズのウイリアムズに追いついていた。これだけを考えても信じがたいことである。

ジョーンズに追いついたビルヌーブは、コーナーのアウト側に並びかけ、かなり無謀なブレーキングでタイヤを激しくロックさせて抜きにかかった。ビルヌーブは一瞬挙動を乱しながらもギリギリの突っ込みでジョーンズを抜き去った。限界走行を見せてトップを奪ったビルヌーブに観客は大声援を送った。

しかし、ビルヌーブがあまりにも激しくブレーキングしたためにタイヤにひどいフラットスポットができてしまったのか、それ以外の原因かは解らないが、ビルヌーブの312T4の左リアのタイヤからだんだんと空気が抜けていってしまったのだ。やがて左リアのタイヤは完全に空気が抜けてグリップしなくなってしまった。そしてビルヌーブは最高速の出るストレートの終わりでいつものようにフル・ブレーキングをしたのだが、三輪状態でのブレーキングでは減速しきれなかった。タイヤ一つ分ブレーキが利かない状態なのだから、減速しきれないのも当然である。

「まずい、進入スピードが高すぎる。このままの状態ではバリアーにクラッシュする」ととっさに判断したビルヌーブは、わざとコース上でマシンをスピンさせて減速をするという芸当をやってのけた。ビルヌーブのフェラーリは派手にグルグルとスピンをしてタイヤから白煙を上げながら首尾よく減速され、バリアーにクラッシュすることなく、コースを背にする状態でコース脇の草地に停まった。

この時ビルヌーブはエンジンまでストップさせてしまったのだが、観客は「どうせリタイアするのだからエンジンが止まっても関係ないよな。今のスピンテクニックは見事だったぞ、よくやったビルヌーブ!」という調子だった。端から見れば、どう見てもビルヌーブがマシンを壊さずに無難にリタイアしたように思えたからだ。「ビルヌーブでもマシンを壊さないでリタイアするような、そういうマシンへの心使いもあるんだなぁ」程度にしか観客は思っていなかった。

だが真相は全く逆だったのだ。ビルヌーブはタイヤ交換をするためにピットまで戻ろうと思って、そのためにマシンを壊さないようにしたのだった。彼は何度も何度もフェラーリのエンジンスターターのボタンを押しつづけ、それでもエンジンがかからないもどかしさから、彼は愛用のGPAヘルメットのシールドをカパッと開けて、スターターボタンを睨みつけながら押しつづけた

やがてエンジンがかかり、ビルヌーブは即座にバックギアに入れてコースまでバックをして戻った。もう、左リアのタイヤはぺしゃんこというよりも既にタイヤの形さえしておらず、ただホイールにゴムの破片がくっ付いているような状態だった。

観客は全員、「ああ、なるほど。タイヤが一つ無いから、極度のスローダウン走行でゆっくりゆっくりピットまで向かって、とりあえずタイヤ交換をして、レースの順位は捨てて完走だけを目指すつもりなんだな」という風に思ったのだが、次の瞬間、観客は呆然とするような光景を見てしまった。

バックしてコースに戻ったビルヌーブは、ギアを1速に入れて、急いでヘルメットのシールドを閉めると、なんといきなりアクセルを全開にしてフル加速に入ったのだ。2速、3速、4速とどんどんシフトアップしていき、ほとんどレーシングスピードといってもいいほどの走りでピットに向かったのだ。左リアのタイヤが無いためにデファレンシャルはLSDが利きっぱなしである。右フロントのタイヤも頻繁に地面から浮いた。であるから、常時マトモにグリップしているのは二輪だけということにもなる。

ビルヌーブはピットまで向かう途中のラップで、三輪状態のためにコーナーでは糸の切れた凧のようにフラフラと限界ギリギリの三輪ドリフト。そしてストレートでは完全にアクセル全開で312T4が出せる最高速を出していた。他のドライバーたちも「なんだ!? なんだあれは!? 奴は正気か!?」という表情でビルヌーブの三輪での全開走行を見ていた。

こんな状態で全開走行をすればマシンがタダで済むハズがない。サイドスカートはおろかサイドポンツーンまで激しく壊れ、左リアに至っては、サスペンションアームの前の部分が外れてホイールが真横を向き、そのホイールが引きずられた状態で路面と激しくこすれて火花を散らし、どんどん原型をとどめなくなっていった。やがてマシンの左リアのフロア部分からも激しく火花が散り、フロアまでもがメチャメチャに壊れ、ビルヌーブのフェラーリは左リア部分がクラッシュしたマシンと同様の状態にまで壊れていった。それでも彼は全開走行をヤメなかった。

観客は、完全に予想を裏切られ、あまりにもクレイジーなビルヌーブの行動に肝を冷やされたのだった。見ている観客のほうが寿命が縮まる思いだったことだろう。

全開走行のままピットまで戻ったビルヌーブは、ピットクルーに「タイヤ交換をしてくれ! 早く!」と告げた。しかしビルヌーブは、マシンが見るも無残な姿に変わり果てていたことを知らなかったようである。真っ青な顔をしたピットクルーから「左リアを見てみろ…」と言われて見てみたビルヌーブは、そこで初めて左リアの激しい損傷に気付いて、仕方なくリタイアを決断した。

ビルヌーブが言うには、「スピンしてエンストした時に、マシンがまだ走れる状態だと思ったから、急いでピットまで戻ってきたんだ。もちろんコースに復帰して少しでも上の順位でゴールするためさ。でも、まさかあんなに壊してしまっていたなんて知らなかったよ。せいぜいタイヤがぺしゃんこになっていてグリップしていないんだと思っていた」ということだった。周りの者達は「三輪状態なのにレーシングスピードで走るなんて、それだけで狂っている! 壊して当たり前だ! 気付いていなかったはずはない!」と怒っていたが、あまりにもレースへの執念が強いビルヌーブゆえに、本当に左リアの損傷に気付いていなかったのかもしれない。

後日、レース雑誌のコメント欄では、マスコミによる賛否両論が出された。

 

 

こんな風にビルヌーブは、マスコミから「勇者」とも「大バカ者」とも呼ばれた。しかし、エンツオ・フェラーリを筆頭とする古くからのF1を知っている者は、過去にローズマイヤーやアスカリが三輪走行をしたシーンとビルヌーブをオーバーラップさせていた。

エンツオ・フェラーリがマスコミに向けた言葉は、「確かにあの行為は危険極まりなかった。だがね諸君、思い出していただける方々もおられるだろう、ヌボラーリがかつて三輪走行をして優勝した事実を。これは、若い人たちに言っても解ってもらえないかもしれないが、あれくらいの執念と熱意を持ったドライバーというのは近年では稀なのだよ。その意味でビルヌーブは貴重なドライバーだ。今回のことで私が彼に罰を与えるというのかね? 貴重なドライバーに罰などは与えられない」という風に、ビルヌーブはお咎め無しになった。

エンツオ・フェラーリは、ビルヌーブの執念に燃えた走りに負けて無罪放免にしたフシがあったのだろうが、マスコミに向けて最後に一言だけ付け加えた。「諸君、このF1の世界には、レースをすぐに諦めてしまうドライバーが居る一方、ビルヌーブのような絶対に諦めることを知らないドライバーが居る。F1の世界にとってありがたいのは、もちろん後者なのだよ」。

この一言に、昔からのF1をよく知っている古い年代の人間たちが静かに頷いた。

残念なことに、今回のリタイア=無得点が原因で、ビルヌーブが1979年のワールドチャンピォンになる可能性はほとんど消えてしまったのだが、当のビルヌーブは落胆することもなく、「今後も、1レース1レースを誰よりも速く走れればそれでいいんだ」と考えていた。


セカンドドライバーとしての自覚(1979 イタリアGP)

イタリアGPは、毎年恒例の熱狂的なティフォシの声援でいっぱいだ。ここでシェクターが優勝すれば彼のワールドチャンピォンが決定する。場所がフェラーリの地元だけにティフォシにはたまらない興奮の、おあつらえ向きのシチュエーションだ。

ビルヌーブにもワールドチャンピォンの可能性が僅かにあったが、このレースを含めた残りの3レースを全て優勝しなければならないという条件付きの、まったくもって絶望的な状況だ。

予選でフロント・ローに並んだのはアルヌーとジャブイーユ駆る2台のルノー。高速サーキットでターボエンジンのパワーを生かした結果である。2列目にはシェクターとジョーンズ、そして3列目にレガゾーニと並んでビルヌーブが居た。

とことんエンジンパワーに物を言わせたルノー、せっかくのイタリアGPの雰囲気が白けてしまいそうなグリッド順位だったが、決勝スタートではシェクターがかなりの集中力を見せてトップを奪った。ビルヌーブもジャブイーユを抜いて、アルヌーに次ぐ3番手となって、ティフォシたちは満足したようだった。シェクター、アルヌー、ビルヌーブという順番がしばらく続いた。

やがてシビレを切らせたアルヌーがターボのパワーを限界以上にまで引き出して、アルヌーはエンジンパワーの助けを借りてシェクターを抜いてトップに立った。しかしこのオーバーテイクがアルヌーにとっての命取りとなってしまう。今で言う「オーバーテイクボタンを何回も使いすぎたためにエンジンが不調になる」という状態になったのだ。アルヌーのルノーはペースが落ちて、あっけなくシェクターとビルヌーブに抜かれた。いくらエンジンパワーがあるといっても、それに頼りすぎてしまっては痛い目にあうといういい例だろう。

これでシェクターとビルヌーブがワン・ツー体制となり、ティフォシは興奮のるつぼになった。しきりに「フェラーリ! ジョディ! チャンピォン! ジョディ!」というシェクターへの声援が続いた。

ビルヌーブはその気になればシェクターを抜くこともできた。事実彼らの距離はほんの1秒以内だった。しかしビルヌーブは自分の立場をよく解っていて、「僕はあくまでもセカンドドライバーに過ぎない。だから今、この状況で僕がやらなければならない仕事は、後続車をブロックしてシェクターの安全を確保すること、シェクターのワールドチャンピォン獲得に協力することだ」という、どこまでもフェアな考えでいた。

ビルヌーブには気持ちの余裕があり、「ただ後続車をブロックするだけじゃ退屈だ。ちょっとショー・タイムをティフォシたちに提供してあげよう」と思って、時折トップのシェクターに並びかけて、今にもトップを奪うような素振りを見せた。それによってティフォシたちや報道陣はヒヤヒヤさせられることになる。

しかしビルヌーブは決してシェクターの前には出ず、並びかけたと思ったらまた下がって…という走りを繰り返した。これはどう見てもティフォシたちへのサービスにしか見えない。その証拠に、このショー・タイムを披露するかなり以前からビルヌーブは「セカンドドライバーとしてシェクターを援護する」というゼスチャーをピットクルーに送っていたからだ。

ビルヌーブは「ただ速く走ればいい」という観念を持ちながらも、セカンドドライバーとしての自覚をしっかり持ち、決して目の前にちらつく優勝の誘惑に負けることなく、2位を走りながら自分の仕事を謙虚にキッチリこなしたのだ。その謙虚なフェア・プレイはティフォシたちから高く評価されたことは言うまでもない。

(ちなみにこの3年後、1982年のサンマリノGPで逆の立場になったビルヌーブだが、彼の生真面目さがアダとなって、チームメイトのピローニに裏切られてしまうとは、なんとも皮肉なことである)

そしてシェクターは無事にトップでゴールして、念願のワールドチャンピォンを決めた。表彰台ではシェクターへの祝福はもとより、ビルヌーブの理性的でサービス精神旺盛な行動にも惜しみない拍手を送った。イタリアGPとしては最高のシチュエーションだった。


晴れて大暴れできることの嬉しさ(1979 ノンタイトルGP)

次に行われたレースは、チャンピォンシップポイントとは無関係のノンタイトルGPで、やはりフェラーリの地元であるディノ・フェラーリ・サーキットで行われた。

ここでビルヌーブは、もうシェクターのサポートをする必要がなく、チームからも「チームオーダーは忘れて好きに走っていいぞ」と言われていた。その晴れて大暴れできることの嬉しさはビルヌーブをよりハイテンションにさせた。

ビルヌーブはそのハイテンションよろしく予選はポールをとり、決勝スタートでも元気よくトップを快走。そしてシェクターは2位につけるという、今度は前回のレースとは逆の配置でのフェラーリのワン・ツー体制だった。

しかし、フェラーリの履いた例の低性能ミシュランタイヤがまたしてもへたってきてグリップが下がり、シェクターはブラバムのニキ・ラウダに抜かれてしまう。

ビルヌーブもラウダに抜かれるかと思いきや、かなりの周回数抜かれなかった。これはグリップの下がったタイヤを逆に利用したもので、「タイヤがタレてきて滑り出したら、あえてそれを武器にしてドリフト走行しまくればいい」という、ドリフトのテクニックが飛びぬけて優れているビルヌーブだからこそできる走りによるものだった。

ラウダも果敢にビルヌーブにアタックしていき、二人の順位は度々入れ替わった。しかしラウダが前を走っている時に彼はブレーキングミスをし、ラウダのブラバムのテールぎりぎりにつけていたビルヌーブはノーズをぶつけて壊してしまう。ビルヌーブは仕方なくピットインしてノーズ交換をし、ファーステストラップを叩き出し続けながらレースを終えた。順位こそ下がってしまったものの、ラウダとのバトルで見せたドリフト走行は観客を大いに惹きつけた。ビルヌーブ本人も「なんだか走ることだけに集中できて、かえってスッキリしたよ」とあっさりしたコメントを見せ、晴れて大暴れできたことを満足していた。


双方対照的な表情の表彰台(1979 カナダGP)

カナダGPはモントリオール・サーキットで行われたのだが、レース期間の前からビルヌーブはヘトヘトになってしまっていた。彼の今までの活躍を知っている地元カナダのマスコミから引っ張りだこで、テレビ出演やイベントでの出演を始め、あちこちに出演させられたからだった。

ビルヌーブは「これにはまいった。体がいくつあっても足りないよ。もちろん地元でこんなに人気が出るのは嬉しいことだけど、これじゃ僕はF1レーサーじゃなくて芸能人だよ。早くレース期間に入ってほしいもんだね。僕は笑顔を売るためにカナダに帰って来たんじゃなくてレースをしに来たんだからね」とこぼした。

それでもマスコミは容赦してくれず、盛んにビルヌーブに出演依頼をした。どんなに疲れていてもそこにファンが居る限り気さくに応対するビルヌーブは断りきれずに、ついつい出演して更に疲れてしまうことになる。

やがてレース期間になり、「やっと開放された。サーキットだけが安堵の場所だ」とビルヌーブは喜んだ。しかしフェラーリ312T4の調子が今ひとつでセッティングがピッタリ決まらずにいた。エンジンやシャシーには問題はなかった。つまりお決まりのミシュランタイヤの粗悪ぶりが原因だったのだ。ここまで長い間フェラーリを不利にしてきた低性能のミシュランタイヤ、さっさとグッドイヤーに乗り換えればよさそうなものだが、グッドイヤーに乗り換えられないフェラーリチームの事情があったのかもしれない。どの道、今シーズンの残りはイヤでもミシュランタイヤで走らなければならないのだ。これはかなりキツいものがある。

このカナダGPで、なんとニキ・ラウダが引退を発表してしまうということがあった。ラウダは1976年のドイツGPでの大事故から見事に復活を果たしたドライバーだったが、だんだんとレースに対する情熱が消えつつあったらしい。また、斬新なデザインのブラバムのニューマシンが発表されて今レースから走ることになり、ラウダ本人が「やっと勝てるマシンに乗れる」と喜んでいたにもかかわらず、実際に走らせてみるとまったくの期待外れの性能だったことも、ラウダの意気消沈に追い討ちをかけてしまい、引退を決意させてしまったのだ。

それはともかくこのレースではビルヌーブが主役だ。観客はビルヌーブのことしか頭にない。

タイヤに問題を抱えた2台のフェラーリは、予選で見事にウイリアムズのアラン・ジョーンズに負けてしまった。とはいえ、ポールポジションがジョーンス、そして2番手にビルヌーブという状況なので観客の期待と緊迫感はそのまま保たれた。シェクターはずっと後ろのグリッドしか確保できなかったが、シェクターの表情は「チャンピォンも獲得したし、あとは気楽にシーズンを走りきろう」という印象でリラックスしていた。

そして決勝のスタート。2位につけていたビルヌーブは超人的なスタートダッシュを見せてジョーンズを抜き、スタート早々からトップに立った。

ビルヌーブのスタートダッシュが速いのにはいろんな理由がある。まるでドラッグレースのマシン操縦のように、シフトアップする時にアクセルを戻さないという、オーバーレブ承知の危険な方法。そして自分がフォーメーションラップでわざとホイールスピンさせて作ったタイヤのブラックマークの上に自分のタイヤを置き、スタートでのグリップを少しでもよくする方法である。しかし彼の集中力とテクニックがあって初めて有効になる方法なので、結局このスタートダッシュはビルヌーブにしかできないことになる。

ビルヌーブの真後ろに張り付いているジョーンズのウイリアムズは、明らかに性能ではフェラーリを上回っていて、シャシーだけでなくタイヤの性能でもかなり有利な立場に居る。にもかかわらずジョーンズは、いつまでたってもビルヌーブを抜けずにいた。ビルヌーブがコーナーというコーナーでマシンをドリフトさせて横を向き、完璧なブロックをしていたからだ。こういう形のブロックは正当なレーシング・テクニックであり、性能の劣るマシンで行うのは至難のワザである。それをビルヌーブは全てのコーナーで平然とやってのけて周回を重ねていた。まるで機械のように、毎周毎周正確にである。

このブロックテクニックにはジョーンズも困ってしまった。ジョーンズは「ビルヌーブがいつかミスをするのを待とうか」とも思ったが「いや、超人的な集中力を持つビルヌーブのことだ、こういう逆境に置かれた時は、ヤツは絶対にミスなんかしやしない。ミスを待っていたら僕は2位のままで終わってしまう! 何とかしたい!」と切羽詰っていた。

そこでジョーンズは作戦を変え、レースの終盤まで極力マシンをいたわって走り、パワーを温存することにしたのだ。ビルヌーブのスリップストリームから外れてあおるようなことはヤメて、じっと我慢しながらスリップストリームで引っ張ってもらうことにしたのだ。こうすればマシンは終盤までかなりパワーを温存できるので、「終盤でマシンのパワー差を頼りに抜けるかもしれない」とジョーンズは思ったのだ。

ジョーンズの作戦は成功した。終盤近くになって、ジョーンズはあるコーナーからの立ち上がり加速を利用してビルヌーブに並びかけ、それほど長くはない次のストレートでパワーに物を言わせて僅かにビルヌーブを引き離したのだった。

しかしそんなことで諦めるビルヌーブではない。ビルヌーブは激烈なドリフト・コーナリングを駆使して、挙動が不安定なマシンながらもジョーンズにぴったりと張り付き、今にもノーズがぶつからんばかりの距離で迫った。だが今まで存分にマシンを温存してきたウイリアムズを抜くには至らず、今度はビルヌーブがジョーンズのミスを待つかしかない状態になった。

どんなに集中力とテクニックがずば抜けているビルヌーブでも、マシンの大きな性能差まで覆せるほどF1は甘くない。しかもジョーンズは終盤の追い抜きに賭けていて、「この後も決してミスをするまい」と集中していた。

ゴールラインまで2台はまるで牽引フックで繋がれたような状態だったが、ジョーンズは最後の最後までミスをすることなく優勝を飾った。

表彰台で2位に立ったビルヌーブは悔しさの表情はほとんど無く、むしろ爽快な表情をしていた。「やれるだけのことはやった。これがレースだ。でもなんだか物足りない感じだなぁ。まだまだ全開走行ができるだろうな」とビルヌーブは思っていたのだ。

しかしジョーンズのほうは疲れきった表情で語った。「もう、本当にカンベンしてくれよ。どんな逆境に置かれても冷静でタフだし、あんなクソタイヤ(フェラーリの粗悪なミシュランタイヤのこと)を履かされても、絶対に最後まで諦めないんだからな。辛うじてトップに立てた僕の身にもなってくれ。一瞬でもミスをすればもう僕には優勝のチャンスは無かったんだから。あれじゃ一瞬足りとも集中力を切らせなくて、今はもうヘトヘトだよ」。そう言ってジョーンズは、疲れきった様子でビルヌーブの腕を掴みあげて祝福した。

マシンの性能差や表情を見るに、もしかしたら、精神的にはビルヌーブのほうがラクに優勝しているのかもしれない。そういう印象を受ける表彰台だった。


11秒もの大差(1979 アメリカGP)

最終戦となるアメリカGPはワトキンズグレン・サーキットで行われた。予選第一セッションは大雨となり、どのドライバーもコースに走り出るのを敬遠していた。走るには走るが、あまりにもひどいどしゃ降りのために、かなり安全マージンをとって走らないと即コースアウトしてしまう。各ドライバーは慎重に慎重に第一セッションを走っていた

そんな中、ビルヌーブだけは全く違っていた。彼は勢いよくコースに出ると、お構いなしにアクセルを全開にして、ものすごい勢いで水しぶきを上げながら走っていた。まるで革靴を履いてスケートリンクを駆け足で走るようなコース状態なのに、ビルヌーブはコーナーというコーナーを真横になって走り抜け、川になったコーナーの水を弾き飛ばしながら激走していた。

ビルヌーブは無理にこんなことをしているのではなく、心から楽しんでスケートリンク状態のコースを華麗に「滑って」いたのだ。その結果予選第一セッションのタイムは、ビルヌーブが2位のシェクターに11秒もの大差をつけるという、各車同じコンディションの予選では考えられない結果が出た。暫定ポールとはいえ、報道陣の誰もが「神業だ! こんなタイムを出すなんて、しかもヤツは楽しみながら余裕で走っているなんて、信じられない!」と叫んでいた。

そんな報道陣の声を聞いていたジャック・ラフィーは、「あれがビルヌーブなのさ。彼はね、僕たちとは全く別の世界に居るんだよ。もう言葉では表せないよ。あのコーナリング・テクニックは既に芸術の域に達していると言っても過言じゃないね」と言った。

第二セッションの天気は晴れになって、ビルヌーブはミシュランのドライタイヤの貧弱さに悩まされることになる。ドライコンディションではタイヤの弱点がモロに出るのだが、それでもビルヌーブは何とか最終予選3位のグリッドを手に入れた。

しかし決勝レースの前にいきなり激しい雨が再び落ちてきて、各チームは慌ててレインタイヤに交換。そしてこの雨はビルヌーブにとっては当然、絶好のチャンスとなる。

ビルヌーブはスタートダッシュでネルソン・ピケを難なく抜いて、更にトップのジョーンズに第一コーナー早々から襲い掛かった。勢いがよすぎたビルヌーブは片方のタイヤ2つをダートにはみ出させて挙動を乱すが、それでもアクセルを緩めずにジョーンズを抜いて、1周目からトップに立ち、30周以上もトップを保っていた。それでもジョーンズは速く、ビルヌーブに遅れてなるものかと意気込んで食らい付いて行った。とうとうビルヌーブとジョーンズは他のマシンたちを全て周回遅れにしてしまうほどの速さだった。

ワトキンズグレンの雨は実に気まぐれだ。決勝レースの中盤あたりで雨がやみ始め、各車次々とドライタイヤに交換するためにピットイン。ビルヌーブのタイヤ交換は無事に終わったが、ジョーンズのほうはアンラッキーとしかいえない結果になる。

ジョーンズのマシンはピットアウトしたとたんにホイールが外れてしまったのだ。ピットクルーが焦っていたために、ホイールナットを充分に締めなかったのが原因だ。とぼとぼとピットに戻ってきたジョーンズに、ピットクルーは「すまない。ビルヌーブがあまりにも速いから、こっちもタイヤ交換に焦ってしまって…ナットをよく締めなかったようだ」と言った。ビルヌーブの鬼のような走りが、ウイリアムズのピットクルーのミスまでをも誘ったのかもしれない。

その結果ビルヌーブは優勝。シーズンの最後をまたしても優勝で締めくくることができて、ビルヌーブは満足していた。

ジョーンズと同じくシェクターもホイールが外れてリタイアしたのだが、シェクターの312T4は間違ってもビルヌーブのような3輪走行はしなかった。もちろんジョーンズやシェクターの判断のほうが遥かに一般的なのだが。

今シーズンを振り返ってみれば、ワールドチャンピォンになったのはシェクターだが、シェクターに僅か4ポイント差でチャンピォンシップ2位につけたビルヌーブは、ポイント差だけを見れば実に惜しいシーズンだったとしか言いようが無い。しかし、各レースで見せた激烈な走りは、本物の「レーサー」として、また他のドライバーたちに対する「脅威」として人々の記憶に深く深く残った。1979年のシーズンは、ビルヌーブにとって最も恵まれていた時期であり、一段と評価が高まった時期でもあった。

こうして1979年シーズンは幕を閉じた。

しかし、ビルヌーブへの評価が更に高まるのは、実はこの後1980年シーズンのフェラーリ低迷期からで、そのひどい逆境における神業のような走りを人々から評価されることになるのだった。更なる逆境と試練が待っていることなど、今のビルヌーブ自身知る由もなかった。

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「ジル・ビルヌーブ列伝 (全文)」


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