◇ジル・ビルヌーブ列伝 (1978年)◇


フェラーリでの初の完走(1978 アルゼンチンGP)

1978年になり、ビルヌーブがフェラーリでフルシーズンを走る時がやってきた。第1戦はブエノスアイレスで開催されたアルゼンチンGP。ここはビルヌーブのチームメイトであるカルロス・ロイテマンの母国だ。まだフェラーリの新シーズンのマシンはレースには登場していないので、昨年のマシン(312T2)で2人はこのGPに挑まなければならなかった。

それでもロイテマンは予選で奮闘し、フロントローにマシンを置くことができた。一方のビルヌーブは、例によってスピンしまくり、それでマシンとコースの兼ね合いを掴んでいくという荒業をやっていた。相変わらずの方法だったが、昨年と比べると確実にスピンの回数が減ってきていた。これはおそらく、シーズンオフにおける相当な量の走り込みにより、彼にF1マシンを操るカンが養われたのだろうと思われる。

それでも彼はオーバースピードでコーナーに進入してはスピンをした。お得意のスピン最中のヒール・アンド・トゥのリズムも軽快に、タイヤから白煙をあげて立ち直り、何事も無かったかのように全開走行に移る。そのテクニックに観客は声援を送った。「いいぞビルヌーブ!」「いいぞスピン野郎!」という皮肉を込めた声援だったのが問題なのだが。

予選は結果を出さねば何の意味も無い。そんなことは百も承知のビルヌーブは自分なりにアタックし、4列目のグリッドを確保した。決して悪い順位ではない。走行方法は、もう完全に彼の定番になったフルカウンターとフルスロットルのドリフト走行だった。彼はこの走り方が自分でも気にいっているらしく、クレイジーな走り方が好きだったと思われる。

決勝レースでは、彼らしい派手なコースアウトもして順位を落としたが、それでも何とかチェッカーフラッグを受けることができた。順位は平凡なものだったが、フェラーリでの初の完走だった。レースは走りきらねば結果は出ないことはビルヌーブも頭では解っているのだろうが、どちらかというとレース中のアグレッシブな走り方を観客に見せたかったのかもしれない。自分の独特な走り方をみんなにアピールした結果の完走なので、ビルヌーブはとても喜んだ。


テール・ツー・ノーズの基準(1978 ブラジルGP)

ブラジルGPの予選では、ビルヌーブはグリッド3列目についた。決勝ではそこから追い上げをして、地元の英雄エマーソン・フィッティパルディのコパスカーを自力で抜いた。

エマーソン・フィッティパルディといえば、2度もワールドチャンピォンに輝いた男だ。現在とは違い、当時のF1のワールドチャンピォンになるためにはマシンの性能だけではなく、ドライビングテクニック・かけひきの知性・忍耐力が並外れていなければならなかったのだ。当時ワールドチャンピォンに2度も輝くというのは、とんでもなく優秀なドライバーという意味でもあった。そのエマーソン・フィッティパルディを自力で抜いたビルヌーブは、明らかに天賦の才を持っていた

ところが、上位陣に食い込んでいくにつれ、目の前にロニー・ピーターソンのロータスが現れた、この時点で彼らは4位争いをしていたのだが、ビルヌーブはまたしてもピーターソンのテールにぶつからんばかりのぎりぎりの距離まで接近してパスを試みた。コーナーに入った時は接触して両車スピン。ビルヌーブは再走行を続けたが、結局その後コースアウトしてクラッシュ。リタイアしてしまった。一方、彼のチームメイトのカルロス・ロイテマンは優勝した。

ビルヌーブはテール・ツー・ノーズの基準というものを極端に接近した状態とみていた。端から見れば完全にぶつかっているのではないかという状態が彼にとってのテール・ツー・ノーズの基準だった。そのためにピーターソンと接触したものとみられる。昨年の日本GPの時と同じく、ピーターソンはビルヌーブのテール・ツーノーズの基準を恐れていた。


フェラーリ312T3登場(1978 南アフリカGP)

南アフリカGPでやっと、1978年モデルであるフェラーリ312T3がレースに姿を見せた。今までの312T2に比べるとシャープなデザインでダウンフォースもだいぶ得られそうな印象で、ビルヌーブの好みにも合ったハンドリングだった。

決勝ではロニー・ピーターソンがトップを走行。それにマリオ・アンドレッティやパトリック・デパイエやリカルド・パトレーセが続いていた。リカルド・パトレーセはビルヌーブとほぼ同じ時期にF1デビューした男だったが、このレースではトップ陣営の仲間入りをするほど奮闘していた。

その後ろでビルヌーブは走っていたが、追い上げをしている最中、突然312T3のエンジンがブローアップしてオイルを派手にコース上に撒き散らしリタイアとなった。運の悪いことにチームメイトのロイテマンはそのオイルに乗ってスピン・クラッシュしてしまい、その衝撃で燃料に引火し312T3から炎が舞い上がった。すぐにマシンを降りたロイテマンは無事だったが、312T3のデビューレースは散々な結果に終わった。


初めてトップを走る(1978 ロングビーチGP)

アメリカの西にあるロングビーチでのレース。これは正式には「西アメリカGP」というようだが、「ロングビーチGP」という愛称で親しまれていた。ロングビーチの公道を閉鎖して作られたコースで幅は狭いし滑りやすいし、ほとんどのドライバーにとっては走りにくいサーキットだ。しかしビルヌーブは公の場で「公道サーキットは大好きだ」と明言して、実際に彼は公道サーキットでのドライビングがとても得意だった。予選でなんと彼はロイテマンに次ぐ2位についたのだ。

ビルヌーブが公道サーキットを得意とすることを証明する出来事が、決勝レースで、これでもかというほど見受けられた。

スタート直後トップ陣営は激しく接近し合ったのだが、チームメイトのロイテマン、ロータスのマリオ・アンドレッティ、ブラバムのジョン・ワトソンとニキ・ラウダ、これらのドライバー達が第1コーナーに向かってブレーキング競争をしていたその時、第1コーナーのイン側のコンクリート壁ギリギリに、本当に壁にこすれそうなくらいギリギリの位置にビルヌーブはマシンを飛び込ませた。これは感覚が飛びぬけて研ぎ澄まされているビルヌーブにしかできないワザだった。

こうして、他のドライバー達のブレーキング競争を一瞬で出し抜き、ビルヌーブはスタート直後の第1コーナー早々からトップにたったのだ。これには観客や報道陣の誰もが驚いた。「信じられないことだ! 新人のビルヌーブがトップ! ビルヌーブがトップを走っている!」と興奮していたようだった。トップに躍り出た彼を追いかけるのは、カルロス・ロイテマン、ニキ・ラウダ、ジョン・ワトソン、マリオ・アンドレッティ、アラン・ジョーンズ。しかしこれらのドライバーの追従を許さず、ビルヌーブは周回を重ねるごとにどんどん差を広げていき、なんとトップ独走体制に入っていた。

ビルヌーブが公道サーキットを得意と言っていたことに誰もが納得した。並み居る強豪たちをもってしてもビルヌーブの走りには追いつけないからだ。公道サーキットでのビルヌーブの走りは、どんなベテランドライバーよりも優れていた。当時「公道サーキットで速いドライバーは本物」という基準もあったからだ。

レースの実に約半分をトップで独走していたビルヌーブに、やがて周回遅れをパスする時がやってきた。シャドウのマシンに乗るクレイ・レガゾーニが最後尾を走っていた。そのレガゾーニを周回遅れにしようとして、ビルヌーブはシケインの入り口でレガゾーニのイン側に並びかけた。その時、ビルヌーブの右リアがレガゾーニの左リアに接触、皮肉なことにビルヌーブのマシンだけが弾かれて宙を舞い、レガゾーニの頭上を飛び、シケイン脇のタイヤバリアーにクラッシュした。

この瞬間ビルヌーブのロングビーチGPは終わってしまったのだが、クラッシュの直後彼はすぐにマシンから降りて、何事も無かったかのようにピットへと歩いた。1977年の日本GPでの大事故の時も同じだったが、F1数戦目にして初めて走ったトップの座を不本意な接触で失っても、彼は全く冷静だった。レガゾーニに腹を立てたりもしなかった。

レガゾーニいわく「あそこで抜くのはムチャというものだろう。彼は強引すぎるよ」だったが、レガゾーニは自分が遅いということを忘れてはならない。周回遅れにされそうな時は常にラインを意識して譲らなければならないのが規則だ。

他のドライバーやマスコミからも「ビルヌーブはもっと自分自身の焦りを抑えるべきだ」「速さは認める。確かに天才的な速さだが、抜き方が強引すぎる」「クレイジーな追い越し野郎だ」などの批判が出ていたが、その反面、新人がレースの約半分もの周回をトップで独走したことについて、ビルヌーブのF1界での評価は大幅に向上したのだった。


公道サーキットでの天才ぶり(1978 モナコGP)

ビルヌーブが公道サーキットで天才的な走りを見せるのは、モナコの公道サーキットでも同じだった。モナコの公道を封鎖して作られたこのコースが世界一難しいサーキットと呼ばれているのは有名だ。全てのコーナーの性質が異なり、それでいて勾配がキツく、コース幅も極端に狭い。エスケープゾーンなど全くなく、ほんのわずかでも操作を間違えれば即クラッシュ。僅かなミスも許されないという、ベテランドライバーでさえも敬遠するような難しいサーキットだ。

このモナコGPの予選走行でビルヌーブは、観客やコースマーシャルを震え上がらせる走りをこれでもかというくらいに見せ付けた。勾配のキツいコーナーに突っ込んだ時、フルスロットルのフルカウンターステアリングでドリフトしながら、312T3のリヤタイアがガードレール数センチのところまで接近! その状態からマシンを立て直して次のコーナーに向かってまた真横になってドリフト体制で入っていく。このガードレール数センチにまで312T3のタイヤが迫ってきた時には、激走するF1マシンを至近距離で見ることにかなり慣れているカメラマンやコースマーシャルでさえ恐れをなして逃げ出すほどだった。それほどまでにビルヌーブのドリフトコーナリングはクレイジーで過激だった。

こんなワザは誰にも真似はできない。この狭いモナコのコース全てをドリフトしながら、コーナー出口ではガードレール数センチのところでコントロールをする並外れたテクニック、限界ギリギリのゾッとする走りに観客は感動をおぼえた。

観客はこの時点ではまだ知らなかった。こんなとんでもなくアグレッシブな走りをする彼がマシンを降りたら、とても口数が少なく恥ずかしがりやで体もかなり小柄で細身で目立たないということに。走り終えてマシンを降りた彼を間近で見た観客は驚きながらも、彼にサインを求めた。他のドライバーの中にはサインを拒否するような近寄りがたい雰囲気があったが、ビルヌーブはそんなお高くとまっている雰囲気などカケラもなく、気軽にサインをして回った。

モナコでの予選結果は8位だった。F1参戦1年目で初めて走ったモナコのコースとしては悪くはない。それに何しろ決勝レース用にセッティングしてガソリンを満タンに積んだウォームアップ走行では、ビルヌーブのタイムがいちばん速かったのだから。

決勝では、ビルヌーブは5位にまで順位を上げていた。しかし終盤近くに予想していなかった出来事が起きた。逆バンクになっているトンネルコーナーの中で、時速300kmくらい出ている状態で、彼の312T3のサスペンションが突然壊れたのだ。トンネル内でコントロールを失った312T3は左右のガードレールに何度も激しくぶつかりながら滑っていき、トンネルを抜け出た辺りでやっと止まった。312T3は原形をとどめないほど破損していたが、ビルヌーブは無傷だった。

メカニカルトラブルとはいえこれだけの大事故を起こしたビルヌーブに、浅はかなドライバーだとマスコミは非難した。そしてエンツオ・フェラーリが今度こそビルヌーブを解雇するのではないかという噂まで飛び交った。

しかしエンツオ・フェラーリは言った。「諸君はずいぶん無責任で勝手な輩だな。少しでもビルヌーブが何かを起こすとすぐに浅はかだと非難する。特に今回はメカニカルトラブル故の事故だろう。ビルヌーブではなく、そんなことで非難をする諸君のほうが浅はかなのだよ。解雇など、とんでもない話だ。ビルヌーブには今後もずっとウチのチームで活躍してもらう」。

無責任なマスコミが居る一方、他のドライバー達はビルヌーブのことを受け入れてきているようだった。彼が本当に速いドライバーだということ、そして裏表の無い人間であること、レースのかけひきがどこまでも純粋でフェアだからというものだった。


激しいトップ争いを展開(1978 ベルギーGP)

ベルギーGPはゾルダーサーキットで行われた。モナコのコートダジュールのような華やかさはなく、工業地帯の一角に作られた、やや無機質な印象のサーキットだ。ビルヌーブは予選でニキ・ラウダに次ぐ4位のグリッドを得た。

決勝のスタートでは、2位からスタートしたチームメイトのロイテマンがシフトミス。これにより後続車が混乱しクラッシュも起きた。ビルヌーブは冷静にかわし瞬時に順位を上げ、そのままの勢いでトップのマリオ・アンドレッティを猛追した。ビルヌーブとアンドレッティは激しいトップ争いを演じた。アンドレッティのマシンはロータス79という、ダウンフォースをかせぐために開発された最新鋭のウイングカーだった。1978年であるがロータスのマシンは79というネーミングだった。そのロータス79のアンドレッティにビルヌーブは過激な走りで襲い掛かっていった。

激しいトップ争いはしばらく続いた。観客は極度に緊張して息を呑んだ。ビルヌーブがトップ争いをしていると、そのバトルは必ず他の誰よりもスリリングなものになる。それほどまでにビルヌーブは限界ギリギリの走りをするからだ。観客の視線はアンドレッティではなく、ビルヌーブがどういうスリリングな走り方でトップを奪い取るかに注目していた。

しかし、ビルヌーブにトップの座はこなかった。あるコーナーで彼の312T3のタイヤが突然バーストしたのだ。前回は突然のサスペンショントラブルだったが今度はタイヤだった。彼はスピンしたマシンを何とか立て直してピットへ向かった。順位がかなり落ちてしまったが、その後の追い上げで4位でチェッカーフラッグを受け、チャンピォンシップポイントも4ポイントを獲得することができた。初めてのポイント獲得である。タイヤのバーストがなければ表彰台にラクに登っていただろう。それどころか初優勝さえしていたかもしれないレースだった。

このベルギーGPでのアンドレッティとの激しいトップ争いは、純粋なドッグファイトとして語り種になっていった。


チームメイトの大事故(1978 スペインGP)

スペインGPでは、ビルヌーブは予選から決勝までマシントラブルに悩まされた。サスペンション・タイヤ・駆動系・エキゾーストマニホールドなど様々なトラブルが起きて、予選結果も決勝レース結果も満足のいくものは出せなかった。

ビルヌーブよりも更にマシントラブルの影響を受けたのは、チームメイトのカルロス・ロイテマンだった。決勝レースでロイテマンは走行中にドライブシャフトが外れてそれが引き金になり、コースアウトしてキャッチフェンスに突っ込みながら宙を舞い、地面に叩き付けられて止まった。大事故だったが、ロイテマンは軽い打撲で済んだのが救いだった。


ブラバムの「ファン・カー」登場(1978 スウェーデンGP)

スウェーデンでもフェラーリの2台は不調が続いていたが、ここで話題を集めた出来事があった。ブラバムから「ファン・カー」なるマシンが登場したのだ。これはマシンの最後部に巨大なファンを取り付けて回転させ、その状態で走ることにより、シャシー底面の空気を強制的に後ろへと吸い出し、結果的にダウンフォースを強くするという奇想天外な発想のマシンだった。このマシンに乗ったニキ・ラウダがここスウェーデンで優勝した。フェラーリの2台は全くサエなかった。

ブラバムのファン・カーは後続車にゴミや砂を撒き散らす厄介物で、設計的にも不当なものとして、その後禁止される運命となったマシンだったが、ウイングカー時代の本格的な幕開けを象徴するような出来事だった。


タイヤに振り回されるフェラーリ(1978 フランスGP)

フランスでもフェラーリの不調は治らず、タイヤに大きな問題を抱えていた。当時のフェラーリのタイヤはミシュランだったのだが、このミシュランのコンパウンドが曲者で、耐久性に欠けていた。

性能の劣るタイヤのためにロイテマンとビルヌーブは苦戦し、決勝レースでもタイヤ交換のための無駄なピットインを何回も余儀なくされ、決勝レース順位は散々だった。ミシュランの課題は、当時のライバルだったグッドイヤー勢にどうやって打ち勝つかだった。フェラーリはチームとしてなす術がなく、ただ今後のミシュランタイヤの性能アップに期待するしかなかった。


ミシュランのニュータイヤ(1978 イギリスGP)

今まで問題を抱えていたミシュランタイヤが新しいコンパウンドを開発し、イギリスGPに間に合わせた。これでフェラーリチームは一安心といったところだった。サーキットはブランズハッチというサーキット。F1のみならず他のカテゴリーのレースも盛んに行われているサーキットだ。

ここでロイテマンはニュータイヤを履いて優勝。ミシュラン勢の復活を見事に果たした。一方ビルヌーブは、まだ新しいコンパウンドで不安ということもありニュータイヤを選ばず今までのコンパウンドのタイヤを選んだのだが、これがモロに裏目に出た。ビルヌーブが思ったよりもはるかにミシュランのニュータイヤの性能はアップしていたのだ。

ビルヌーブにとっては、新しいことはどんどん試してみることも重要なのだと勉強になった一件だった。


来シーズンへの不安(1978 ドイツGP)

ドイツGPの成績は、ミシュランタイヤがまた調子を崩し、予選・決勝ともに平凡な結果に終わった。ビルヌーブのみが完走し、ロイテマンはリタイア。タイヤ不調だけでなく、2台とも燃料のベーパーロック(燃料がエンジンの高熱のために蒸発し、エンジンパワーが出なくなること)に苦しんだ決勝レースだった。

このドイツGPで、ビルヌーブにとって不安材料となる記者会見があった。それは、ウルフチームに在籍していたジョディ・シェクターが1979年シーズンにフェラーリに移籍する、というものだ。シェクターの移籍については正式に発表されたのだが、ロイテマンとビルヌーブのどちらがフェラーリチームを抜けるのかについては発表されていなかった。

ロイテマンはある程度の結果を残しているし、ビルヌーブは結果は残していないがロングビーチやベルギーで大活躍をして天才的な速さを見せている。あとはエンツオ・フェラーリの判断一つで、それがビルヌーブには不安だった


初めての表彰台(1978 オーストリアGP)

オーストリアGPの決勝は雨だった。雨のF1走行は別に珍しくもなんともないが、ここでビルヌーブには自分の速さをアピールするための条件が揃っていた。雨の走行というのはドライバーのウデがそのまま出ると言っても過言ではなく、雨のレースで速いドライバーは本物だという定説があった(その定説は現在のF1界でも続いている)。

決勝はスタートしてから間もなく突然のどしゃ降りになり、数台のマシンが急変したコンディションに対応できずコースアウトやクラッシュをした。そのためにレッド・フラッグが振られ、決勝は再スタートとなった。

再スタート後、ロイテマンは一度コースアウトしてエンジンストールさせてしまったのだが、コースマーシャルに押し掛けをさせたことがペナルティとなり、失格となってしまった。

予選でかなり後方のグリッドしか確保できなかったビルヌーブは、雨の中をトップに向かって猛追した。時折不安定な挙動も見せたが、レース終盤には、なんとトップグループにまで追い上げていた。雨の中を激走してどんどん追い抜いていき、最終的にトップグループにまで追いつき、チェッカーを受けた時は3位だった。初めての表彰台である

雨のレースでもビルヌーブは速いことを証明したレースだった。同時に、彼への評価が更に向上したのだった。


フェラーリチーム全員の意見の一致(1978 オランダGP)

オランダGPでもビルヌーブは不安定なミシュランタイヤにもめげずに走り、6位入賞。ポイントを獲得した。ロイテマンは惜しくもポイントを取れなかった。ビルヌーブはどんなにマシンが不利な状況でも絶対に諦めない人間だった

オランダGPは、ビルヌーブが抱えていた「来シーズンはフェラーリチームに残れるのだろうか?」という不安を一掃してくれるGPとなった。ジョディ・シェクターが来シーズンにフェラーリに来ることが決まり、そのためにはロイテマンかビルヌーブのどちらかがチームを出て行き、どちらか一人だけがチームに残ることになる。それについてエンツオ・フェラーリは、「ロイテマンかビルヌーブのどちらに残ってほしいか?」という質問をチームの全員にしてみた。そうしたら驚いたことに、チームスタッフの全員が「ぜひビルヌーブに残ってほしい」という意見だった。この全員の意見の一致にはビルヌーブ本人も驚いたらしい。

これでビルヌーブがフェラーリチームに残ることが決定し、契約も1980年まで更新。記者会見でも正式に発表された。


ロニー・ピーターソンの悲劇(1978 イタリアGP)

熱狂的なフェラーリのファンが溢れるイタリアGPは、一種独特の雰囲気だ。これほどF1というモータースポーツに熱狂している国は珍しいだろう。だがその熱狂ぶりは、1978年に限っては、悲しい叫びにしか聞こえないレースだった。

予選でビルヌーブはマリオ・アンドレッティに次ぐ2位のグリッドを得た。チームメイトのロイテマンはトップ10にも入れなかった。フェラーリチームを抜けることが決まってから間も無かったので、意気消沈していたのかもしれない。

決勝のスタートでビルヌーブは見事なスタートを決めて、第1コーナーでトップに躍り出て、観客は大歓声を上げた。しかしその直後、中段グループで多重クラッシュが起きて、ロニー・ピーターソンのロータス78(このレースではピーターソンは79ではなく78に乗っていた)が炎上した。そのために即座にレッド・フラッグが出てレースは中断された。ピーターソンは炎上したロータス78の中に取り残されていた。

ジェイムス・ハントを始めとするクラッシュしたドライバー達が慌ててピーターソンの救出作業にあたり、無事にピーターソンはマシンから救出された。ピーターソンは両足を骨折して痛みに顔をゆがめていたが、意識はしっかりしていたので、他のドライバー達は「とりあえずよかった。命に別状は無いようだから」と、ひとまず安心したようだった。

ピーターソンのことがとりあえず大丈夫だと解ったら、今度は、飛んできたタイヤが頭に当たって意識不明になっているビットリオ・ブランビラのことを心配する人間も多かった。なんとか意識が戻ってほしいと誰もが願っていた。

再スタートではビルヌーブとアンドレッティは勢いがよすぎて、2人ともフライングスタートをしてしまっていた。競技委員から2人にそれぞれ60秒加算のペナルティが出された。それでもビルヌーブとアンドレッティはできる限りの走りをして激しいドッグファイトを展開、観客を興奮させた。60秒加算のために正式な結果は2人とも下がってしまったが、激しい2人の戦いに観客は惜しみない拍手を送った。毎年恒例の熱狂的なイタリアGPの雰囲気だった。

しかし、その熱狂は翌日のニュースで一瞬にして悲しみの沈黙に変わってしまった。ロニー・ピーターソンが死亡したというショッキングなニュースが報道されたからだ。ドライバーや報道陣の誰もが信じられなかった。「最初のスタート時のクラッシュでは両足を骨折したものの、意識はしっかりあった。それなのに、なぜ!?」という声が各所から出た。

医者のミスだったのだ。絶対にあってはならないことが起きてしまったのだ。医者が正しい治療をしていればピーターソンは確実に回復するはずだった。それを知らされた人々は、やりきれない気持ちで悲しみにくれた。もちろん、ミスをした医者はそれ相応の処罰を受けたことは言うまでもない。

一方、意識不明だったブランビラはその後意識が戻った(やがてブランビラは完治した)。

ピーターソンの葬儀にはものすごい数の人々が訪れ、この天才ドライバーの死を悔やんだ。ピーターソンの走りは人気があり、天才的なひらめきを感じさせるものだった。ビルヌーブもピーターソンを見て憧れて育った人間だった。

こうして、1978年のイタリアGPは悲しみの中で幕を閉じたのだった。


つかの間の1-2ランデブー(1978 東アメリカGP)

東アメリカGPは、ワトキンズグレンサーキットで行われた。

予選ではロイテマンもビルヌーブも上位につけ、決勝ではロイテマンがトップを独走。それにビルヌーブが続くという、フェラーリの1-2体制で走行していた。実に理想的な体制だった。しかし、ビルヌーブの312T3のエンジンが突然ブロウアップしてビルヌーブはリタイア。フェラーリの1-2ランデブーはつかの間のものに終わった

ビルヌーブは「仕方が無いよ、これがレースだから」と語ったが、フェラーリのエンジンは信頼性に問題が残っていた。


壊れないでくれと祈りながら走る(1978 カナダGP)

1978年シーズンの最終戦は、カナダGPだ。ノートルダムサーキットという、自然の豊かなサーキット。ここはビルヌーブの母国で、観客は既にビルヌーブの今までの活躍を知っているため、ことさらに応援に熱心だった。

予選でビルヌーブはまたもやクレイジーなドリフト走行を披露した。これは地元ファンへのサービスなどではなく、彼特有の走り方なのだ。そのドリフト走行は今までよりも過激さが更に増していた。コーナーのかなり手前からマシンを真横に向け(ラリーでいうところの直ドリ)その勢いでコーナーに進入し、クリッピング・ポイントからアウト側の縁石ギリギリまで、時には縁石の外側の芝生地帯に至るまでリアのタイヤを振り、コースの幅以上に大胆なラインを描くドリフト走行だ。コーナーのはるか手前から出口までマシンを流しっぱなしだ

ポールポジションは、ロニー・ピーターソンの代役としてロータスにスポット加入したジャン・ピエール・ジャリエが取った。ジャリエはマシンのシートサイズが合わずに走行して背中を痛めてしまい、痛み止めの注射を背中にしていた。2位はジョディ・シェクター、そして3位をビルヌーブが取った。

決勝では、ジャリエは無難なスタートを決めてトップを保ったのだが、2位のシェクターがスタートでミスってマシンをスライドさせてしまい、直後のビルヌーブはこれをかわそうとして若干のタイムロスをしてしまった。このため、ジャリエはしばらくの間トップを余裕で走ることができた。

トップを独走するジャン・ピエール・ジャリエ。その後ろにはアラン・ジョーンズ、ジョディ・シェクター、そしてビルヌーブが居た。周回を重ねていく内に、ジョーンズのマシンはタイヤのエア漏れが出始め、グリップを失ってジリジリと後退していった。また、シェクターは燃料のベーパーロックでエンジンのパワーが出ない状態になっていった。

そんな中、ビルヌーブのマシンは何事も起きず、ジョーンズやシェクターを抜いて2位に上がることができた。それでもトップのジャリエには相当差を付けられている。ここからビルヌーブの猛烈な追撃が始まった

ロータス79は、速い。ビルヌーブのテクニックと312T3をもってしても、ジャリエのロータス79に追いつくことは至難の技だった。それでも決して諦めずにビルヌーブは懸命に飛ばした

やがてジャリエのロータス79に異変が出始めた。オイルプレッシャーが落ちてきていたのだ。エンジンから伸びているオイルのデバイスから少しずつオイルが漏れていて、更にそのオイルがブレーキディスクにまで付着してブレーキの状態までもがどんどん悪化していった。「極めて危険」と判断したジャリエはピットに向かい、そのままリタイアとなった。

その時点でビルヌーブがトップになり、観客は熱狂的になった。しかしビルヌーブのマシンも完璧な状態ではなかったのだ。マシンのありとあらゆる部分から怪しげな音が出ていて、いつどこが壊れてもおかしくない状態だったのだ。ビルヌーブは全神経を注いでマシンをいたわって走った。「頼むから壊れないでくれ! ゴールまで何とかもってくれ!」と祈りながら、アクセルワーク、ブレーキング、シフトチェンジ、クラッチミート、ステアリングの切り込み、どれも慎重に丁寧に操作していた。

ビルヌーブが祈りながら慎重にマシンをいたわって走ったのが幸いしたのか、ゴールラインまで彼の312T3は壊れなかった。ゴールする時、彼は両手を高々と上げて「バンザイ!」のポーズをしてチェッカーを受けた。待ち望んでいたF1での初優勝! しかも母国での優勝である! ウイニングランをするビルヌーブに観客は大声援を送った。

パドックに戻ってきた312T3をたくさんの報道陣が囲んだ。あの偉大なF1ドライバーであるジャッキー・スチュワートが彼にヒーローインタビューをした。ビルヌーブの友人はしきりに「信じられない! 凄い!」という言葉を連発していた。たくさんの賞賛の言葉を受けて、ビルヌーブは完全にトップドライバーの仲間入りを果たしたことに感動したのだった。その顔は感激の涙で濡れていた。

表彰台の真ん中に立ったビルヌーブ。その左右にはジョディ・シェクター、カルロス・ロイテマンが居た。フェラーリチームを去るロイテマンは、「ビルヌーブは今後チャンピォンになれるグレイトなドライバーだ」と賞賛の言葉を与えた。

この優勝を知ったエンツオ・フェラーリは、ビルヌーブを採用したことを心底よかったと思い、これからも更にビルヌーブが成長することを確信した。「昨年彼に初めて会った時の直感は正しかったのだ」とエンツオ・フェラーリは思った。

シーズン最終戦をこの上ない結果で終えることができたビルヌーブは、もう既に来シーズンのことを考えていた。新しいチームメイトとなるジョディ・シェクターとの相性はどうか、新しいマシンはシーズン初頭に間に合うのだろうか、その他いろいろなことを考えて、1979年シーズンに向けて万全の体制を整えるべく準備をしていたのだった。

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「ジル・ビルヌーブ列伝 (全文)」


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