前置き:ビルヌーブの暗示めいた冗談
1982年シーズンのGPが開始されるシーズンオフの最中に、ハーベイ・ポストレスウェイト博士は、ビルヌーブの運転するフェラーリ308GTSの助手席に乗ることが時々あった。そしてハーベイ博士は、かつてジョディ・シェクターが味わった恐怖を何度も味わうことになる。
ビルヌーブとハーベイ博士は、ビルヌーブの運転する308GTSで、フェラーリの本部からかなり遠く離れた郊外のレストランまでドライブがてら出かけたことがある。その時のエピソードを後日、ハーベイ博士はジャーナリストに話した。
ハーベイ博士「ジルの運転する車の助手席に乗ったことがあるかって? 仕事上の付き合いで何度も乗ったことがあるさ。命がいくつあっても足りないと思えるような、それはそれは恐ろしいものだった」
ジャーナリスト「どんな運転だったんですか?」
ハーベイ博士「ジルと私はフェラーリの本部から、ジルの運転する308GTSで、郊外のレストランまで食事をしに行ったことがある。ジルは食事に時間をかけることは好まない人間だったが、その時はおそらく私に、自分の命知らずな運転を見せたかったんだろう。ジルにはそういう自己顕示欲のようなものがあるからね。食事に行くというのはただの口実だったのさ」
ジャーナリスト「具体的に、どういう運転だったのかを聞かせてもらえますか?」
ハーベイ博士「まずジルはフェラーリの本部の駐車場でハデにスピンターンを決めて、それから公道に出て、アクセルを床まで踏んづけたまま、どんどんシフトアップしていった。赤信号で停車する時以外は全てそうしていたんだ。つまりジルは公道でドラッグレースをやっているに等しかったんだ」
ジャーナリスト「でも公道ですから他の一般車も多かったでしょうに。常時ドラッグレースのような走りはできなかったでしょう?」
ハーベイ博士「ジルはそんなことはお構いなしだった。いくら道路が混雑していても、ジルは時速200キロ近いスピードで他の車たちの隙間を抜けていったんだ。それもミラーの両脇わずか10センチの状態でだ! 私は何度“ぶつかる!”と思ったか数え切れない。いくらシートベルトをしていたとはいえ、時速200キロ近いスピードで事故になったら、私は確実にジルと共に死んでいただろう。だがジルの運転はどこまでも冷静で確実なものだった。あれで安全マージンを充分に取っていたと言うんだから信じられないことだよ」
ジャーナリスト「彼は、F1レースのスタートダッシュの練習をするために、よく公道でも練習していると聞きますが、まさにそのとおりなんですね」
ハーベイ博士「それだけじゃない。ジルは危険回避能力もずば抜けていて、どんなパニック状態に陥った場合も取り乱さず、一瞬で判断をして回避してきたんだ。だからジルは事故を起こさなかった。これは今でも忘れられないんだが、その時の道路は片側二車線だった。道路はかなり混雑していたにも関わらず、ジルはアクセルを床から戻さずに、308GTSが出せる最高巡航速度、メーター読みでは時速205キロを出しながら車の流れをぬって走っていた。その時! 突然我々の目の前に、スクーターに乗った老人がヨロヨロと脇道から出てきた。私は“もうダメだ!”と思って両手で目を塞ぎ、頭には“ビルヌーブ、スクーターの老人をハネる”という翌日の新聞の見出しが浮かんだほどだった。しかしジルはそのスクーターをかわしたのだ。道路の外には飛び出さずに、流れるような、そう、流れるようなとしか言いようが無い素晴らしいブレーキングで、ブレーキングドリフトを誘発し、その勢いで360度ターンをして、スクーターの周りを囲むようなラインを描いて回避したのだ! あのスピードからの流れるようなブレーキングと360度ターンは、今でも忘れられない」
ジャーナリスト「本当にそのとおりだったんですか?」
ハーベイ博士「本当だとも! 誇張表現は一切入っていないさ。私はありのままを話しているんだ。ジルは自分の運転には絶対の自信を持っていたんだ。だからジルは“今かわしたスクーターの老人、弾みで転んでいないかをミラーで確認したけど大丈夫だったね。何が起きたのか解らないみたいでポカーンとしていたよ”と笑ったりして、常に余裕の表情を浮かべていたんだ」
ジャーナリスト「そんな極めて無茶な走りをしても、“自分が事故死するかもしれない”という表情じゃなかったんですね」
ハーベイ博士「そのとおり。ジルの頭の中には事故死などという考えは無いのさ」
こういうエピソードは実にビルヌーブらしいと言える。どんなに危険に見える状態でもビルヌーブは冷静だったのだ。
しかしその一方で、ビルヌーブは今シーズンが始まる前に、こんな冗談を飛ばしたことがあった。
ビルヌーブ「僕だって人間だから、やることは完璧じゃない。知ってのとおり今までいろんなドライビング・ミスをしてきたし、それに大きな事故もたくさん起こしている」
ジャーナリスト「君は今まで実にクレイジーと呼べる走り方をしてきているよね。このままの走り方で大丈夫だと思う? 身の危険を考えたことは?」
ビルヌーブ「1980年シーズンの初めに、“事故は僕に何の影響も与えない”と話したことがあったね。今もその気持ちは変わっていない。でも…まぁもしかしたら、いつか僕はピットまで帰ってこられないような大事故をやらかすかもしれない」
ジャーナリスト「言いにくいことだけど、事故死してしまう、ということ?」
ビルヌーブ「そういう可能性も少しはあるだろうね。でも仕方が無いよ。これが僕の走り方なんだし、ただでさえF1では事故死が多いだろ。そうだねぇ、もし、いつの日か大事故でいざ死ぬという瞬間になったら、僕は泣きべそをかいて“ママー!”と叫ぶだろうね」
ビルヌーブが何の気なしに言ったこの冗談は、今シーズンに待ち受けている運命を暗示するかのようだった。
問題だらけのレギュレーション(1982 南アフリカGP)
今シーズンの初戦は、南アフリカGPだ。
今シーズンから投入されたニューマシン126C2の完成度には、今年で89歳になるエンツオ・フェラーリもご満悦だった。しかもタイヤは定評のあるグッドイヤーに変わっていたのだから尚更の喜びである。エンツオ・フェラーリは、「チームの諸君、今シーズンは、あの最高のマシン312T4で戦った時のように、自信を持って堂々とワールドチャンピォンそしてコンストラクターズチャンピォンを狙うことができる。実に喜ばしいことだ」と満足げに言った。
しかし、フェラーリチームの喜びをよそに、今シーズンから変更されたF1レーシングのレギュレーションは問題だらけだった。そのいくつかを挙げてみよう。
まず、マシンからはサスペンションが撤去され、ホイールを支えるアームのねじれを利用したものがサスペンションに取って代わった。それにより乗り心地はレーシングカート並にひどく、超高速で走るF1マシンならば尚更のこと、ドライバーには肉体的な負担が大きくかかることになった。
そして、予選用タイヤを2セットしか使えないようになり、もっと悪いことにこの予選用タイヤは、たった1〜2周しかもたないシロモノだった。つまりたった1〜2周のタイムアタックしか許されないことになる。予選中のコース上でウォーミングアップあるいはクールダウンしている他の遅いマシンを抜きながら一発勝負のタイムアタックをするのだから、これほど危険なことはない。
次に、最も厄介なレギュレーションがあった。今シーズンのF1マシンたちはターボエンジンを積んだマシンと、ノンターボのエンジンを積んだマシンとが混在していた。どちらかというとノンターボなマシンのほうが多かった。そしてそのノンターボのマシンには「水タンク・バラスト」というものがあったのだ。この「水タンク・バラスト」は、名目上は「パワフルなターボ車に負けないように、水タンクの冷気によりブレーキを冷やし、ブレーキング性能を稼いで、ノンターボ車のハンデをカバーする」というもっともらしい理由だったのだが、実際の目的は「レース出走の時には水タンクの水を全部抜いて車重を軽くして加速と最高速を稼ぐ」という、不当な方法だった。そしてレース終了後の車検の時に水タンクに水を満タンに入れて重くして、最低限の車重を確保し、車検に引っかからないようにする、という、実に卑怯な方法だったのだ。そしてこのインチキ作戦ともいえる「水タンク・バラスト」の方法は、ノンターボ勢のチームの殆どがやっていた。
「水タンク・バラスト」の実際の目的=不当な目的を知っているFISAは、こんな方法をも認めてしまった。「ターボ勢とノンターボ勢の性能差が縮まるのなら面白い」という適当な理由を付けて、「水タンク・バラスト」を正式なレギュレーションとして認めてしまったのだ。どうして認めたのか、それは、「水タンク・バラスト」を採用しているノンターボのブラバム、そのブラバムチームのボスであるバーニー・エクレストンがFISAの権威だったからである。要するにバーニー・エクレストンは、自分が所有しているチームが有利になるからという腹づもりで「水タンク・バラスト」を認めたわけなのである。
このように、F1界は政治的な陰謀の臭いがプンプンしていた。
ノンターボ勢の「水タンク・バラスト」の効果はかなりあって、水をカラにした状態では、ターボ勢のマシンよりもラップタイムが速くなってしまった。結果として、フェラーリやルノーなどのターボ勢は不利な状況に置かれることになる。
フェラーリチームにとっては、せっかく126C2という素晴らしいマシンが登場したのに、こんな極めてつまらない政治的な陰謀のレギュレーションのせいで、今シーズンの戦いはラクなものにはならない、むしろ不利になってしまう、ということは容易に予想できた。
このバーニー・エクレストンの「水タンク・バラスト」の陰謀には、ターボ勢のチームから相当な反感を買ったのは当然である。「こんなレギュレーションはバカげている! 策略家バーニーめ!」とターボ勢のチームの誰もが思った。
最後に、F1マシンの運転を許可されるスーパーライセンスについての束縛もキツくなった。所属しているチームへのライセンス制限に加えて、「少しでもFISAを非難したドライバーはスーパーライセンスを剥奪される」という、とんでもないレギュレーションまで出来上がってしまったのだ。FISAの汚くて醜い、チカラで押さえつける権威主義ぶりは相変わらずだったのである。
このFISAの権威主義ぶりにはターボ勢のチームの面々も怒り狂い、遂にストライキを起こすドライバーが出てきた。当然真っ先にストライキの提案をしたのは政治的な運動が得意なGPDA会長のピローニで、ピローニはストライキ運動声明とレギュレーションへの反対声明を書いた文書をFISAに突きつけて「バカなお偉方よ、これを読め!」と言って挑戦した。そしてターボ勢のドライバーたちだけでなく、ノンターボ勢のごく一部のドライバーまでもが「他人事ながらFISAを許せない」という理由からストライキに参加した。
ピローニに続きストライキ運動に参加したのは、ビルヌーブ、ジャック・ラフィー、エリオ・デ・アンジェリス、ブルーノ・ジャコメリ、パトリック・タンベイ、リカルド・パトレーゼ、そしてあのニキ・ラウダだった。ラウダは数年ぶりに今度はマクラーレンのドライバーとして今シーズンからF1界に帰ってきたのだった。
余談だが、復帰してきたラウダはこのストライキ運動に参加してビルヌーブとよく親交を深め、そしてその後もラウダはビルヌーブのことを「走りはクレイジーだが、そこがジルのいいところだし強烈で魅力的な個性だ。ジルは人間的にも素晴らしく、敬愛している」とまで言うほどになったのだ。1977年の日本GPでのビルヌーブの事故を見た当時からは考えられないくらいに、ラウダはビルヌーブに対する評価が変わっていた。ラウダが言うには、ビルヌーブとストライキ運動に参加したことは実に楽しくて有意義だったらしい。
ストライキ運動の夜の兵舎では、エリオ・デ・アンジェリスがピアノを弾き、ビルヌーブがトランペットを吹いてお祭り騒ぎになり、かなり盛り上がった。ビルヌーブはF1の世界に入る前は、プロのトランペット奏者を目指していて、少年時代から相当な勉強と練習を積んでいたらしいが、成長するにつれて上唇の形が変わってきて、長時間吹いていると唇が痛くなってしまうので、やむなくトランペット奏者への夢は諦めたらしい。だがトランペット自体は大好きなので、趣味として今でも吹き続けていたのだ。プロ奏者になる一歩手前だったのだから当然であるが、ビルヌーブのトランペットの腕前は、相当ハイレベルなものだった。エリオ・デ・アンジェリスのピアノの腕前も、かなりのハイレベルだったらしい。それもあって周りのドライバー達は盛り上がって喜んだ。(個人的な意見ですが、楽器好きな当方としては、楽器を奏でるレーシングドライバーは理由もなく好きです)
こうして、お祭り騒ぎの夜は過ぎていった。
これではレースを開催することさえできない、と困り果てたFISAは、後日ドライバーたちとミーティングを開いて相談しよう、という提案をして、なんとかストライキ運動をヤメさせ、レースを開催する準備ができた。
こういうゴタゴタがあって、やっと今シーズンの初戦である南アフリカGPの予選は始まった。ビルヌーブは予選3位、ピローニは予選6位で、126C2のデビュー戦としては、まずまずの出来だった。それに、車重の軽い「水タンク・バラスト」のノンターボ勢を相手に競ったことを考えれば上出来だろう。
そして決勝レースのスタート。FISAとのゴタゴタを後方に蹴飛ばし! 今まさにスタートをきったF1マシンの一群! ビルヌーブはいつものように勢いよくスタートダッシュを決めたが、たった6周しか走っていないのに、もうターボチャージャーが壊れてしまった。モウモウと白煙を上げながら戦列を去ろうとするビルヌーブに、南アフリカのファンたちは、ため息をついた。
ピローニの126C2は、タイヤを痛めてしまってピットストップしてタイムロスをしてしまい、完走こそしたものの、ポイントは得られなかった。
ニューマシンのデビュー戦では、こういうトラブルも付き物である。次のレースに賭けるしかない。
「優勝か無か」の極限的な意思表示(1982 ブラジルGP)
続くブラジルGPでは、ポールを獲得したのはアラン・プロストだったのだが、ビルヌーブは2位のグリッドを獲得した。堂々のフロントローである。今シーズン2戦目にして126C2とビルヌーブの真骨頂が発揮されたと言っていい。「水タンク・バラスト勢」とでも言うべき車重の軽いノンターボ勢を押しやって2位のグリッドにつけたのも素晴らしかった。
だが、ビルヌーブの気持ちは決して楽観的ではなかった。グリッド二列目以降には水タンク・バラスト勢のマシンたちが控えていて、決勝レースではターボエンジン搭載の重い126C2は不利になるからだ。
フォーメーション・ラップを終えてシグナルを睨みつけながら、ビルヌーブは、「車重の軽い水タンク・バラスト勢と、真っ正面から戦ってみせる」と燃えていた。打算めいたこざかしい作戦などはビルヌーブの頭の中には無いのだ。彼のスタンスはどこまでもレーサーであり、ただ速く走ることだけに心血を注いでいるからだ。
シグナルがグリーンに変わった。ビルヌーブは得意のスタートダッシュでたやすくプロストを抜き、プロストも「やっぱりどう頑張ってもスタートダッシュだけはジルには敵わなかったか」と妙に納得しながら走っていた。
しばらくはビルヌーブがトップを独走していたのだが、やがて思ったとおり、水タンク・バラスト勢のマシンたちが迫ってきた。ネルソン・ピケと、ケケ・ロズベルグである。いくら126C2がパワフルなターボエンジンを積んでいるといっても、車重の重さだけはどうにもならない。ビルヌーブがピケとロズベルグに抜かれるのは目に見えていた。
だがそんなことで諦めるビルヌーブではない。彼は作シーズンのスペインGPで実行したような、あの完璧なブロック走行を織り交ぜながら、各コーナーでマシンを真横に向けて走っていた。
特にこのブロック走行で見ものだったのは、ドリフトしているビルヌーブの126C2のタイヤからは、例年に無いほどのハデな白煙が上がっていたことである。サスペンションが無くなりダウンフォースが大幅に増えたため、タイヤは当然ながら今まで以上に強く路面に押さえつけられることになる。その状態でドリフトしまくっているのだから、そのためにまるでタイヤのコンパウンドをドリフトで燃焼しているかのような白煙が上がったのだ。
この白煙出しまくりのドリフトには、観客たちにとってうってつけのショーにもなった。
このレースの主役は、ビルヌーブ、ピケ、ロズベルグである。ビルヌーブがどうやってトップを死守するか、ピケとロズベルグがどうやってビルヌーブを抜くか、観客たちは見入った。そして観客たちは、もう決まり文句のように「ビルヌーブがトップを走っていると、絶対に目を離せないスリリングなショーになるぞ!」と、そこかしこで言い合っていた。「あんなハデな白煙を上げて、クレイジー! 凄いぞ!」と狂喜するファンも居た。
しかし、こんなタイヤに負担をかけまくる走りを続けていては、タイヤがレースの最後までもつワケがない。ビルヌーブのマシンは、このドリフト走行によるタイヤの急激な磨耗のために、タイヤ交換のピットインをしなければならない状態になっていた。だがビルヌーブは「タイヤがレースの最後までバーストせずにもつかどうか、極限の賭けだ。何が何でもトップを守ってみせる」と固く心に決めていた。「優勝か無か」の、まさに極限的な意思表示である。
トップの3台は、いつまでも接近戦を演じていたが、ピケとロズベルグは、ビルヌーブの性格をよく解っていて、「ああ、これがジルなんだよな。どんなに不利で危険な状況になっても絶対にトップを守ろうとする。相変わらずだ。あんなにタイヤをすり減らせて、やがてジルはイヤでもタイヤ交換のピットインをしなければならなくなる。その時が僕たちの勝機だ」と思いながら、根気強く後ろを走っていた。
そして、その時はやってきた。ズタズタにすり減った126C2のタイヤは遂にグリップを完全に失い、ヘアピンでテールが大きく振られてしまい、ビルヌーブはコントロール不能に陥った。直後に居たピケとロズベルグはニアミス回避に必死でフルブレーキング。…そしてビルヌーブの126C2は後ろ向きになってタイヤバリアーに激しくクラッシュした。
相当のところまで磨り減ったタイヤという危険、その危険を抱えた上でのビルヌーブのドリフト走行、これはスリリングというよりも殺気立っていたと言っていい。ブラジルGPでのビルヌーブの素晴らしいドリフト走行は終わった。
もう後はリオのカーニバル状態である。地元のピケを相手にロズベルグが挑んでいく。
一方のビルヌーブはクラッシュした直後に両手を上げて、ヘルメットの中では静かに笑っていた。「これでよかったんだ…」と。
ビルヌーブの「優勝か無か」、「中途半端な順位でレースを終えるくらいなら、どんな危険を冒してでもトップを死守する」というポリシーが、これでもかというほど伝わってきたレースだった。やはりビルヌーブはドライバーではなく、紛れもないレーサーなのである。
「絶妙」と呼ばれたドリフト走行(1982 ロングビーチGP)
水タンク・バラストのレギュレーションは前回のブラジルGPが終わった時点で早々に姿を消した。やはりあまりにも不当なレギュレーションのために、FISA側も「このレギュレーションを続けていると体面上マズイことになる」と判断して、禁止せざるを得なかったのだろう。こうして、ターボエンジンを乗せたフェラーリやルノーは有利な立場になったのだ。一件落着である。
しかし、フェラーリチームのスタッフは、2レース分の不利な戦いを強いられたことによる腹の虫が収まらなかったようで、このロングビーチGPで、奇抜な作りの126C2を登場させて、周囲を驚かせた。
それは「二枚ウイング」というもので、リアウイング取り付け用のステーから、左右に伸びている二枚のリアウイングだった。
これはフェラーリチームからの、水タンクバラストへの痛烈な皮肉回答だったのだ。二枚ウイングにすることで特にこれといったメリットは無いのだが、FISAに見せ付けてやらねば気が済まないという気持ちだったのだろう。「ウイングの幅は制限されているが、一枚じゃなければいけない、というルールはない」という部分を突付いたのだった。ルール違反かギリギリセーフか、というところだったが、FISAは何も言ってこなかったので、このまま予選が開始された。
二枚ウイングを付けているために却ってダウンフォースがアンバランスになったのか、ビルヌーブは得意の公道サーキットにも関わらず予選7位、ピローニは予選9位に終わった。
しかし決勝のフタを開けてみると、ビルヌーブは勇猛果敢に追い上げ、3位争いをするまでに順位を上げていた。追い上げていた時のビルヌーブの走りは、公道サーキットでは必ずといっていいほど見られる、ハデで壮絶なドリフト走行だ。特に126C2となってからは初の公道サーキット。ビルヌーブが本領を発揮しないワケがない。
前回のブラジルGPで見せたのと同じく、タイヤからかなりの白煙を上げてドリフト走行をするビルヌーブの126C2を見て、観客は「絶妙! 絶妙! ドリフト走行!」と叫んだ。それほどまでに観客にとっては過激でクレイジーなドリフト走行に見えたのだろうし、実際そのとおりだったのだ。
ビルヌーブは、ケケ・ロズベルグと熱いドッグファイトを繰り広げ、途中ブレーキングミスをしてエスケープゾーンに入ってしまうが、すぐにコースに復帰。そしてビルヌーブは3位でフィニッシュした。126C2での初の表彰台&ポイントゲットである。
と思われたが、レースが終わってから、ティレルのボスであるケン・ティレルが「フェラーリの二枚ウイングは違反じゃないか?」と抗議をしてきた。FISAも判断に迷っていたようだが、二枚ウイングの126C2は失格となり、ビルヌーブの3位は無効になった。昨シーズンのラスベガスGPで受けた失格はビルヌーブ自身のミスによるものだったが、今回の失格はビルヌーブにとっては、いい迷惑である。チームが勝手にやったことなのだから。
それだけでは体面上マズイと思ったのか、FISAはこの時点になって、前回のブラジルGPでのピケとロズベルグの順位も、彼らのチーム(ブラバムとウイリアムズ)も失格という扱いにした。
どうにも1980年代に入ってからのF1は、政治的なドロドロした印象が強くなっていった。それだけでなく、今回の立て続けの後付け失格騒動により、更にドロドロしていってしまったことも事実だ。二枚ウイングを作ったフェラーリチームのスタッフも同じようなものである。
こういうドロドロした陰謀というのは、ドライバーにも感染しやすいものだ。そして次のサンマリノGPでは、ビルヌーブがその陰謀の被害者となってしまうのだった………。
優勝の誘惑に「負けた」ピローニ(1982 サンマリノGP)
前回のロングビーチGPでは、政治的なドロドロした陰謀が渦巻いていたが、その雰囲気はフェラーリの地元イタリアのサンマリノGPでも変わらなかった。先述のFISAによる後付け失格に腹を立てたノンターボ勢のチームは、GP自体をボイコットしてしまう、という事件が起きて、サンマリノGPでの出走車は僅か14台だけという、奇妙なGPとなった。相変わらずのドロドロした雰囲気である。
ビルヌーブとピローニは共に好調で、予選ではポールポジションがルノーのルネ・アルヌー、そして2位が同じくルノーのアラン・プロスト、そしてビルヌーブは3位、ピローニは4位につけるという、グリッドの一列目と二列目に、綺麗に同じマシンが並んだ。
決勝のスタートではトップグループの順位は変わらなかったが、一周目の終わりには順位が入れ替わっていた。トップはアルヌー、そしてビルヌーブ、ピローニ、プロストと続いた。やがてプロストのマシンはエンジントラブルのためにリタイアし、トップグループはアルヌーとビルヌーブとピローニになった。
この3台は周回を重ねるごとに順位が入れ替わっていたが、やがてアルヌーはターボトラブルで戦列を去った。こうして、フェラーリの1−2体制となった。ティフォシたちにはこれ以上ないほどの最高のシチュエーションだ。
とはいえ、フェラーリの2台ともあまり調子が良くなかったので、ピットからは「ややペースを落とすように」との支持が出され、ビルヌーブとピローニはそれに従った。そのままの状態でしばらくレースは続いた。
ところがレース後半になって、どういうわけかピローニが急にペースを上げてビルヌーブを抜いた。これにはビルヌーブも意表を突かれた。なぜならば、今まで両車ともマシンをいたわって若干ペースダウンしながら走って、そのままペースは上げずにマシンをいたわって走り、順位を入れ替えないで、確実に1−2フィニッシュを狙うように予定されていたからだ。事実、フェラーリのピットからはそういうサインが出ていた。
フェラーリチームのマルコ・ピッチーニが「我々にはチームオーダーは無い。速いほうが前に出ればいいんだ」とは言ったが、実際には「ビルヌーブが前でピローニは後ろ」というチームオーダーが出ていたのだ。このチームオーダーが出ていたことについては、たくさんの証人も居た。
ビルヌーブは「ディディエの奴、どういうつもりだ?」と思いながらも一緒にペースを上げ、ピローニを抜き返そうとした。ところがピローニは、いつか見せた走路妨害同様のブロックで、強引にビルヌーブを押さえ込んだ。ピローニは例の自己中心的な性格がまた出てしまい、「僕がトップだ」と言わんばかりの態度を走りで見せた。
それでもビルヌーブは再びピローニを抜き、しばらくその状態が続いた。そしてビルヌーブは燃費の厳しいサンマリノのサーキットのことを考えて、また僅かにペースダウンをしながら走った。
そのうちに、またピローニがペースをメいっぱい上げて強引にビルヌーブを抜いた。今まではティフォシへのサービスだったんじゃなかろうか? と思っていた観客も、次第に「何かおかしい。ピローニは何か企んでいるんじゃないか?」とささやき始めた。ビルヌーブもピローニの行動には困惑していた。
遂に最終ラップ。ここでピローニは、またペースを落とし、ビルヌーブを先に行かせた。ビルヌーブは「そうか! やっぱりティフォシたちへのサービスなんだな。僕が以前ジョディ(シェクター)に対してやったように。あの時の僕は決してジョディを抜かなかったけど、これはディディエ流のティフォシたちへのサービス、つまりちょっとしたショーを見せているんだ。最後には僕を先頭に行かせてくれたし、間違いない。ディディエも、なかなかイキなことをやるな」と確信した。
最終ラップでトップに立って安心しきったビルヌーブは、再度ペースダウンし、このままの状態で1−2フィニッシュできると確信しながら、最終コーナーを回りきった。あとはゆっくりストレートを走ればチェッカーだ。
しかし! なんと! ここでピローニが猛烈な加速をしてビルヌーブを一気に追い抜いた。つまり最後の最後で、ビルヌーブに抜かせるスキを与えずに、本当のゴール寸前にピローニはトップに踊り出たのだ! もうビルヌーブがアクセルを全開にしても抜き返すチャンスは無かった。
ビルヌーブもティフォシたちも「なんだって!? ウソだろ!!」と思うのが早いか、ピローニはそのままトップでチェッカーを受けてしまった!!
………ビルヌーブもティフォシたちもピローニの行動に呆然として、言葉が出なかった。思考の鋭い報道陣は、「ピローニの行動は、もしかしたらビルヌーブを油断させて、最後の最後で不意を付いて、極めて不当な手段でトップを奪い取ったのではないか? どう見てもそうとしか思えない」と語った。
まさに、その通りだったのである。「ビルヌーブが前でピローニは後ろ」というチームオーダーが出ていたにも関わらず、ピローニはチームオーダーを無視して、容易に手に入りそうな、目の前にちらつく優勝の誘惑に「負けて」ビルヌーブを騙してしまったのだった。
昨シーズンの終わりに「自己中心的な行動は控えよう。ナンバー2ドライバーとして謙虚に走ろう」と心に決めたにも関わらず、ピローニはまた誘惑に負けた。自己中心的な行動をとって、悪質な方法でビルヌーブを騙し、優勝を奪ったのだ。
もちろん二人がペースダウンせずに走っていればこんなことは起きなかったし、ビルヌーブはピローニを引き離していただろうことは容易に想像がつく。つまりピローニは、速さではビルヌーブに敵わないから、ペースダウンを利用して、分不相応な優勝を奪ったのだ。
表彰台では嬉しそうにシャンペンを振りまくピローニ。そして離れたところで終始無言のままブ然とするビルヌーブ。二人の対照的な表情があった。ビルヌーブは完全に「ディディエに裏切られた。騙された。今までずっと信頼していたのに、こんな汚い奴だったなんて…」と怒りに燃えていた。どこまでもフェアプレイをするビルヌーブだからこそ、ピローニの裏切り行為には怒り心頭に達したのだ。そしてビルヌーブは表彰台から降りると、何も言わずに自家用ヘリコプターに乗ってモナコの自宅に帰ってしまった。ものすごいショックを受けたビルヌーブは、早く家に帰りたいという気持ちで一杯だったのだ。
二人がペースダウンせずに普通の正当なバトルをして、ビルヌーブがピローニに負けたのならば、ビルヌーブの態度は全く違っていたはずである。純粋に「ディディエ、おめでとう」と言っただろう。ビルヌーブはそういうスポーツマンシップにのっとった純粋な人間だからだ。
だが今回は事情が全く違う。ビルヌーブは純粋だからこそ、尚更ピローニのあくどい手口にショックを受けたのだった。
このピローニの裏切り行為については、表彰式が終わってビルヌーブが自宅に帰るやいなや、観客や報道陣からのバッシングの嵐になった。
ピローニは、観客から、
「なぜビルヌーブの優勝を奪ったんだ!?」
「このあくどい策略家めが! ビルヌーブがどれだけプライドを傷つけられたか解っているのか!?」
「あんな巧妙な手口で純粋な心のチームメイトを騙すなんて、お前の人間性が疑われる! 血は通っているのか!?」
「ピローニ、お前は優勝したんじゃない。ただ、ずる賢い方法で優勝を奪っただけだ。つまり盗みを働いたのだ! この泥棒め!!」
「ナンバー2ドライバーとしての自覚はどこへ行った!?」
「いくらフェラーリが1−2フィニッシュしたからといって、こんな内容では地元イタリアの我々だって不愉快だ!!」
「ビルヌーブよりも実力は劣っているくせに、そこまでして優勝の二文字が欲しいのか!? ふざけるな!!」
「この裏切り者め! 今すぐにフェラーリチームを出て行け!!」
と、かなり感情的なバッシングを浴びた。
そしてジャーナリストからは、
「ピローニ、あんたねぇ、雑誌の見出しを汚すようなマネはしないでくれよ。ティフォシたちにどう説明すればいいんだ?」
「ピローニ、忘れたとは言わせないぞ。1979年シーズンの、ジョディ・シェクターがワールドチャンピォンになった時のイタリアGPのことを。あの時のビルヌーブは目の前にちらつく優勝の誘惑に決して負けることなく、ナンバー2ドライバーとしての自覚をしっかり持ち、シェクターを援護するという仕事をビルヌーブは謙虚にキッチリこなしたのだ。今ではナンバー1、ナンバー2ドライバーの立場が入れ替わって、今度は当然ビルヌーブが勝つ番だったんだよ。それをあんな卑怯な方法で奪った。君は軽蔑にも値しない男だ」
「汚い手段でチームメイトを騙して優勝を奪い取るのではなく、一つくらい自力で勝ってみてはどうかね? ええ? ピローニ君」
と、やはりかなりキツイ言葉を受けた。
今回の件について、記者会見でのエンツオ・フェラーリの言葉は、みんなの意見を総括するものだった。
エンツオ・フェラーリ「観客たちやジャーナリストの諸君も言っているとおり、今回のピローニの行為は、極めて不当なものだ。一応、記録上ではピローニが優勝したことにはなったが、事実上の優勝者はビルヌーブなのだ。なぜかといえば、ピローニがチームメイトを騙す・チームオーダーを無視するという不当な方法を使って走らなければ、純粋にF1レーシングのバトルとして戦っていたとすれば、ピローニはビルヌーブに追いつけもしなかったことは間違いないからだ。ビルヌーブがとてつもないショックを受けたのも無理は無い。1979年のイタリアGPでシェクターを援護した時のビルヌーブの謙虚な行動は素晴らしかった。ああいう謙虚な行動こそがスポーツマンシップであり、我がフェラーリチームにふさわしい行動であり、F1レーシングのバトルをクリーンなものにする重要な要素なのだ。その意味で1979年のイタリアGPでのビルヌーブは完璧な仕事をこなしたと言える。ビルヌーブは、そういう謙虚でフェアな人間だ。だからこそ受けたショックも大きく、無言で自宅に帰ってしまい、家に閉じこもりたくなった気持ちもよく解る。ビルヌーブは2位という順位自体については何も思っていないだろう。ただ、諸君そして我々フェラーリチームが彼に与えた“最も速いドライバー”という名誉ある肩書きを汚されたことにショックを受け、激しくプライドを傷つけられたことは間違いない。ビルヌーブには私から直に電話などをして慰めてみるつもりだ。必用ならば彼と何時間でも話そう。それによってビルヌーブが精神的に立ち直ってくれることを祈るばかりだ。最後に言うが、速さの面でもフェアプレー精神の面でもビルヌーブがナンバー1ドライバーであることは確実であり、ピローニはナンバー2、いやナンバー3ドライバー程度のものだろう。今回のレースでのピローニはあくまでも2位に過ぎない。いや2位以下と言ってもいいだろう。今回の裏切り行為により、ピローニは自分の株を大幅に落としたのだ。これも自業自得というものだ。ピローニの扱いについては、今後改めてよく考え直してみるつもりだ」
このエンツオ・フェラーリの言葉を否定する者は、一人も居なかった。F1界のゴッド・ファーザーだから恐ろしくて反論できなかったのではない。誰もがエンツオ・フェラーリと同じ意見だったからだ。
ビルヌーブは自宅に閉じこもってショックで頭を抱えて塞ぎこんでいたので、報道陣がやってきてもコメント不能だった。ビルヌーブの頭の中は屈辱感と絶望感で一杯だったのだ。報道陣も「無理も無い。気持ちが落ち着くまで、そっとしておいてやろう」と言い、ビルヌーブの自宅にはそれ以上は押しかけなかった。
一方の、今回の話題の張本人であるピローニは驚いて、報道陣に向けて「まさかこれほどまでに非難を受けるとは思わなかった…」とチカラ無く言ったが、報道陣は「それは君がビルヌーブの速さを認めていないからだよ。ビルヌーブの速さを知らないのは、君だけなんだよ」と、冷たい言葉を返した。
ジャーナリストたちの中には、「ビルヌーブとピローニの仲がこじれることは間違いない。今後良からぬことが起きなければいいのだが…。なんだかイヤな予感がする…」と言う者も居た。
そして、不幸にも、その予感は当たってしまうのだった………。
悲しみのフェラーリ(1982 ベルギーGP 予選)
前回のサンマリノGPで味わった屈辱感と絶望感は、ビルヌーブにとって耐え難いものだった。彼は精神的にひどくまいっていた。
そんなビルヌーブの救いとなったのは、ファンからの慰めの手紙やファックス、妻のジョアンナ夫人の励まし、かつてのチームメイトだったジョディ・シェクターの幾多の訪問による応援、そしてエンツオ・フェラーリからの改めての高い評価だった。これらのことがベルギーGPの前の二週間に渡って続けられたために、ビルヌーブは幸い、少しずつ精神的に安定してきた。
しかし、一番大事な、張本人のピローニからの謝罪は一切なかったのである。もしここでピローニがビルヌーブに心からの謝罪をしていれば、ピローニが自分の精神的にまだまだ未熟だった部分を素直にビルヌーブに告白して謝っていれば、ビルヌーブの気持ちはもっと明るくなっていただろう。しかしそれは無かったのだ。
ピローニは「時間が経てばジルも許してくれるだろう。マスコミも怒りが収まるだろう」と、甘い考えでいた。それどころかピローニは「僕とジルの、どちらか速いほうがナンバー1ドライバーだ」とマスコミに向けて強がってみせた。これが極めて悪い結果を引き起こしてしまうことも知らずに…。
反省しないピローニに対してビルヌーブは、「どういうことか、よく解った。これからはディディエをチームメイトだとは思わずに、他のチームのドライバーと同じように接することにする。フェラーリで走っているのは僕一人だけだと思うことにしよう」と心に決めた。ビルヌーブは完全に心を閉ざしてしまっていたのだ。同時に屈辱感と絶望感がまた湧き上がってきて、また怒りもこみ上げてきて、ビルヌーブは冷静さをも失っていた。
モーターレーシングのような限界ギリギリの危険を冒すスポーツでは、冷静さを失って走ることほど、これほど危険なものはない。怒りに燃えて走ることほど危険なものはない。こんな極めて危険な状態で、ビルヌーブはベルギーGPの予選に挑むことになった。これが結果的に取り返しの付かない事態になってしまう。
ベルギーGPの予選では、ビルヌーブはピローニとは一切口をきかなかった。「ディディエのほうから誠心誠意を込めた謝罪がなければ、彼とは口をきかない」とビルヌーブは決めて、心を閉ざして、塞ぎこんでしまうことも多かった。
そんな暗くてやりきれない気持ちを抱えていて、ピットで考え込んでいたビルヌーブのところに、マクラーレンのピットからニキ・ラウダが歩いてきた。ビルヌーブとラウダはとても仲がよく、特にラウダはビルヌーブのことを敬愛していたほどだった。彼らは気さくに会話をした。
ラウダ「よぉ、ジル。調子はどうだい?」
ビルヌーブ「やぁ、ニキ。マシンのほうは今ひとつセッティングが決まらないね。精神的なセッティングも決まらないけど」
ラウダ「精神的なセッティングか。ははは、お前も面白い表現をするなぁ。例のことはもう忘れろ。お前はとにかく1レース1レースを速く走ることだけ考えればいいのさ」
ビルヌーブ「そう心がけるよ。ディディエの奴が本当に心から謝罪してくれれば、僕はまたディディエと仲直りするつもりだ。ディディエもマスコミから総叩きにあったようだし、心を入れ替えてくれればいいな、と僕は思っているよ」
ラウダ「お前もお人よしだな。そこがお前のいいところなんだが。アイツのことはとりあえず忘れろ。それより、マシンのセッティングのデータの参考になればと思って、ちょっとアドバイスに来たんだ」
ビルヌーブ「へぇ、それはありがたいね。でもニキの走り方で出したセッティングデータは、僕の走り方には合わないと思うけど。走行スタイルが全然違うからね」
ラウダ「まぁそう言わずに聞けって。いいか? まずリアウイングの角度だが…」
ラウダはセッティングデータを教えるという口実で、ビルヌーブを励ましに来たのだった。なんでもいいからビルヌーブを元気にさせて、明るい気持ちにさせてやりたい、とラウダは思ったからだ。二人の仲のよさが解るというものだ(このピットでの二人の会話のスナップショットは、今でもモータースポーツ雑誌で紹介されることがある)。
ラウダのセッティングデータは、思ったとおりビルヌーブの参考にはならなかった。だがビルヌーブはラウダの本当の目的(ビルヌーブを励ましにきたこと)を感じ取って、「ニキ、本当にありがとう。参考になったよ」とお礼を言い、その表情はほころんでいた。
しかし実際にはビルヌーブのマシンはセッティングがなかなか決まらず、タイムが思ったように伸びなかった。
ピローニが先日「僕とジルの、どちらか速いほうがナンバー1ドライバーだ」とマスコミに向けて言ってしまったことにより、巷では「ビルヌーブ対ピローニ、どっちがナンバー1か?」などという、調子に乗った無責任なマスコミの噂が持ち上がってしまっていた。
予選ではその時点で、トップタイムをルノーのプロストとアルヌーが競っていた。そしてその次にフェラーリの二台、ビルヌーブとピローニが続いていた。ルノーの二人の競い合いなど比較にならないほど、フェラーリの二人の予選タイムの争いはすさまじいものだった。ビルヌーブとピローニの対決がイヤでも注目されていたからだ。
ピローニのマシンはセッティングがそこそこ決まっていて、ルノーの2台に告ぐ3番手のタイムを出した。それよりも僅かに遅れてビルヌーブは4番手のタイムだった。まだ、もう少し予選の時間は残っている。ビルヌーブはなんとしてでもピローニのタイムだけは破りたかった。ビルヌーブは先日のショックがまだ抜け切らずに冷静さを失っていた。
先にも書いたが、予選走行などという極限状態の走行を、冷静さを失って走ることほど危険なことはない。ビルヌーブの予選走行は、そういう意味で危険極まりなかったのだ。彼がいつものように冷静に予選走行をしていれば、あんな最悪の事態にはならなかっただろうに…。
ビルヌーブは、2セット目の予選用タイヤすなわち最後の予選用タイヤをすり減るまで使い切って走っていた。ビルヌーブは、「絶対にディディエよりも速いタイムを叩き出してやる」と思い詰めて、冷静さを欠いて走っていた。
そして、予選終了の直前、高速シケインを抜けた後の左コーナーで大惨事は起きてしまった。
高速シケインを抜けた所で、目の前にはタイムアタックを終えてクールダウンしてスロー走行している、マーチに乗るヨッヘン・マスが居た。ビルヌーブは瞬時にマスのアウト側から抜こうと判断してアウト側にステアリングを切った。しかしミラーを見ていたマスは「ジルがすごいスピードで来る。アウト側に寄って道を譲ろう」と思い、やはりアウト側にふくらんだ…。
その結果、マスのマーチの右後輪とビルヌーブの126C2の左前輪が接触し、126C2はマーチに乗り上げた反動で空に舞い上がった!
時速230キロ以上出ている状態で全く減速されずに飛んだ126C2は、100メートル以上もの距離を飛び続けて、そのままノーズから地面に叩きつけられ、更に150メートル以上に渡ってコース脇で暴れ狂ったようにメチャクチャにトンボ返りをうち、マスの目前に着地した。126C2はコクピットの前半分が無くなり、リアのタイヤ一つだけを残して、車体は全く原型をとどめないほどに損傷していて、コナゴナといってもいい状態だった。だが126C2のコクピットには、ビルヌーブの姿は無かった。
126C2が狂ったようなトンボ返りをうっている最中に、あまりの衝撃でarexonsの強固なシートベルトが切れ、更にシートまで外れ、ビルヌーブはシートごとマシンから放り出されて、20メートル以上も空中を振り飛ばされ、キャッチフェンスのポールに後頭部から落下する形で叩きつけられたのだった。その反動で彼のGPAヘルメットが外れ、ヘルメットはコース脇に転がっていた。ビルヌーブは意識不明の状態だった。
ポールに叩きつけられたビルヌーブの側にはマーシャルが居て、即座にドクターを呼んで人工呼吸や心臓マッサージを施したのだが、ビルヌーブは意識不明のままだった。ひどい衝撃のために、ビルヌーブの首と背中の骨は…折れていたのだ。
ビルヌーブはすぐに救急ヘリコプターで、近くのセント・ラファエル病院に運ばれて、病院で必死の救命治療が行われたのだが………夜の9時12分に、絶命が確認された。
ビルヌーブの死亡のために、エンツオ・フェラーリを始めとするフェラーリチームだけでなく、全チームのスタッフとドライバー、ジャーナリスト、観客、世界中のF1ファンが涙を流した。そしてフェラーリチームは、ビルヌーブのことを思い、このベルギーGPへの出場を棄権した。
悲しみのフェラーリ。ビルヌーブの居ないフェラーリ。今までのビルヌーブの熱くてクレイジーで魅力的で芸術的な走り、それがもう見られない。そんな言葉が各所で聞こえてきた。誰もがビルヌーブの走りと純粋な心を愛していたのだ。ビルヌーブと親友になっていたドライバーも、ニキ・ラウダやアラン・ジョーンズを始め、たくさん居た。
エンツオ・フェラーリは、涙を流しながら、「また息子を亡くしてしまった…」と語った。昔、若くして亡くした実の息子ディノ・フェラーリをエンツオは愛し、亡くした息子のために「ディノ246GT」という乗用車を製造して販売したくらいに愛していた。同様に、ビルヌーブのことをよく理解し、息子のように可愛がっていたのだから、そう思うのも無理は無い。
見かけ上では事故の原因を作ったのは、間違いなくヨッヘン・マスである。だが、ビルヌーブとマスとの互いの思い込みで一緒にアウト側のラインをとってしまっただけで、運が悪かったとしか言えなかった。
そして…。
翌日の新聞やニュースなどで、表面的にはヨッヘン・マスが原因でビルヌーブが事故死したように伝えられたのだが、今までの事情をよく知っているF1関係者は、口々に叫んだ。
「ヨッヘン・マスは悪くない。ただお互いに運が悪かった、タイミングも悪かった。それだけだ」
「ビルヌーブが事故死した本当の原因を作ったのは、他ならぬ、前のサンマリノGPで裏切り行為をしたピローニである!」
「あの行為によってビルヌーブは精神的に余裕が無くなり、どうしても冷静になることができずに、そんな精神状態で限界ギリギリの予選走行をしなければならなかった。それがどんなに危険な状態だったのかは容易に想像できる。そしてその危険な状態は最悪の結果を招いてしまったのだ」
「ピローニがビルヌーブを殺したも同然だ!」
前のサンマリノGPからの二週間のことを考えれば、そう考えるのが自然な道理だろう。FISAの冷酷な連中は別として、他のF1関係者の誰もが「この死亡事故の元々の原因を作ったのは、ピローニである! 誰がどう見てもそれは明確である!」と断言した。
ピローニにしてみれば、そう言われても仕方が無かった。もちろんピローニは人一倍ショックを受けた。「まさかジルが死んでしまうなんて…。僕がサンマリノGPであんなことをしなければ…」と、悔やんでも悔やみきれない表情だった。ピローニは自分の今までの傲慢さ、精神的な弱さを呪った。自分自身を呪い続けた。
しかし、いくらピローニが後悔したところでビルヌーブは帰ってこないし、世界中のF1ファンからのゴウゴウの非難も避けられない。まして弁解の余地は全く無い。
こうして、1982年のベルギーGPは、悲しみのうちに開催され、悲しみのうちに幕を閉じた。
そして、ビルヌーブを振り飛ばし、スクラップと化したフェラーリ126C2・058の映像が、いつまでも、いつまでも、人々の心を痛めてやまなかったのだった…。
エピローグ
ビルヌーブの事故死により、ピローニは今までの自分の傲慢さを心の底から反省し、この後本当に心を入れ替えて死に物狂いで走り、1982年のワールドチャンピォン候補にまでなっていたが、ドイツGPの予選でアラン・プロストのルノーの後輪に乗り上げ、ビルヌーブと全く同じように宙を舞って大クラッシュをし、両足を複雑骨折して、F1界からの引退を余儀なくされた。そしてパワーボートのレースに転向するが、1987年にピローニはパワーボートのレースの事故で亡くなっている。これを因果応報と言う人も居るが、ちょっと言いすぎな気もする。
ビルヌーブの死後、フェラーリの本部そしてビルヌーブの妻ジョアンナ夫人に宛てて、世界中のF1ファンから手紙や電話やファックスが届いた。どれも「ジルは最高のF1レーサーで、最も速いレーサーでした。人間的にも素晴らしい人でした。ジルのことは一生忘れません」というような内容のものだった。現在でもビルヌーブについての賞賛の言葉が届いているという。
ビルヌーブの母国であるカナダのノートルダム・サーキットは「サーキット・ジル・ビルヌーブ」と名づけられ、彼の名前は母国で永遠に残ることになった。ビルヌーブは生前から国民的英雄になっていて、ビルヌーブの葬儀にはカナダの首相が参加したほどだった。
イタリアの市街地でも「ビルヌーブ通り」と名づけられた通りが出来、イモラサーキットのとあるコーナーには「ビルヌーブ・コーナー」という名前が付けられた。イモラサーキットはビルヌーブが最後に決勝を走ったサーキットだ。その時の彼のグリッドだった3番グリッドにカナダ国旗のペイントが施された。今でもイモラサーキットにはそのペイントが残っている。
そして、いろんなカテゴリーのレースでその後成長していく若いドライバーたち、そのドライバーたちの中にはビルヌーブの意志を継ぐ者も多い。ビルヌーブの息子であるジャック・ビルヌーブもその一人だ。
ビルヌーブがマシンから振り飛ばされた時、偶然それを見ていたカメラマンは「ジルは確かにヘルメットの中で笑っていた。なぜか笑っていたんだ」と語ったが、真偽は定かではない。
ビルヌーブが最後に乗ったマシン126C2のカーナンバー27は、その後特別な意味を持つようになった。シーズンが何年進んでも、どんなドライバーが乗ろうとも、「カーナンバー27のフェラーリには、ジル・ビルヌーブの魂が宿っている」と言われ続け、それは今でも続いている。
あとがき
この「ジル・ビルヌーブ列伝」を書き始めてから完結させるまで、なんと7年近くもかかってしまいました。サイトを始めたのとほぼ同時に書き始めたのですが、時にはサボっていたことも多く、こんなに年月がかかってしまいました。もっと頑張っていれば早く完結できたでしょうけど、どうかお許しください。
ちなみに、資料としていろんな書籍などを買い漁りましたが、中でも取り分け参考になったのが、「ジル・ヴィルヌーブ 流れ星の伝説(ジェラルド・ドナルドソン著/豊岡真美・坂野なるたか・盛岡成憲 訳)」と、そして、当時の数々の「auto technic」誌でした。やはりリアルタイムでの記事というのは参考になりますね。その上で当方のアレンジを織り交ぜた状態で書いたつもりですが、当方の勘違いで間違った記事を書いてしまっている部分があるかもしれません。その時はメールフォームからご連絡いただければ幸いです。実際に間違いの指摘のご連絡をくださる人もいらっしゃって、とても助かっています。ありがとうございます。
この「ジル・ビルヌーブ列伝」のデータについて、無断転載オッケーですが、出展がうちのサイトであることを書いてくだされば嬉しいです。
もちろん、このページ「ジル・ビルヌーブ列伝 」を無断転載しても一向に構いません。ご自由にお使いください。