前置き:フェラーリ126Cの武器と弱点
当時のF1界のエンジニアに、ハーベイ・ポストレスウェイト博士という人物が居た。この人物は後にフェラーリのシャシー開発部門を担当することになるのであるが、フェラーリ126Cが設計・開発された頃はまだフェラーリチームには入っていない部外者だった。
そのポストレスウェイト博士が部外者ながらも、今シーズンからF1GPに出走することとなったフェラーリ126Cを見た感想は、「いかにも! そう! いかにもダウンフォースの少なさそうなシャシーだ。フェラーリのシャシー開発陣営はあの程度のレベルなのであろうか? ドライバーの立場を考えたら気の毒としか言いようがない。ターボエンジンの完成度は素晴らしいが、シャシーのほうはお粗末に過ぎる」だった。
また、ロータスチームを運営するコーリン・チャップマンは、やはり部外者ながらもフェラーリ126Cを見てこう言った。「なんというか、有り余るターボエンジンのパワーに対してシャシーが完全に負けているように見えるな。例えて言うならば一般公道を走る乗用車に1000馬力のパワーボートのエンジンを載せたようなもので、結果としてコーナーでは駆動輪が空転してどこに横っ飛びするか解らないジャジャ馬マシンとでも言おうか。シャシーグリップがエンジンパワーに全く追いついていないマシンだ。フェラーリもずいぶんとアンバランスなマシンを作ったものだ。そうだな………ウイリアムズのマシンのように、当たり前すぎて参考点が全く無いつまらないマシンのほうが、トータルバランスという面ではよっぽどマシだろう」。
このように、今シーズンから投入されたフェラーリ126Cは、パワーに満ち満ちているターボエンジンであるにもかかわらず、そのパワーを100%は生かせないような貧弱なシャシーだったのだ。
もっと悪いことにこのターボエンジンは極めてピーキーな、いわゆるドッカンターボだったため、シャシーはますます負けてしまい、結果としてトータルバランスの極端に悪いマシンとなっていた。
126Cの武器は、その完成度の高いターボエンジンのパワーにある。サーキットを一周する際に、エンジンパワーによって2秒は有利になりそうなほどの素晴らしいエンジンだった。片や弱点は、シャシーグリップの貧弱さからコーナリングスピードがなかなか上がらず、サーキットを一周する際に、シャシーの貧弱さゆえに4秒は不利になり、結果として一周につき2秒も不利になってしまうというデータが出された。
このデータを出したのはビルヌーブだった。彼はシーズンオフの間フェラーリのテストコースで走り込み、126Cのアンバランスさを痛感したのだった。であるから、ポストレスウェイト博士やチャップマンの言葉を聞いても「まったくもって妥当なコメントだね」と苦笑せざるを得なかった。
今シーズンから新しいチームメイトとなったディディエ・ピローニも、アンバランスな126Cには失望させられたという。ピローニは昨シーズンはリジェに在籍していたのだが、「名門と言われるチームに入りたい」という気持ちが強くあり、昨シーズンの半ばからフェラーリチームと交渉をし、契約にこぎ付けたのだった。もちろんピローニも超一流の速さを持ったドライバーだ。そうでなければエンツオ・フェラーリが契約に応じるハズはない。
ピローニはフェラーリチームに入ったばかりの頃、正直言ってかなりオドオドしていたらしい。なぜなら、チームの中では完全にビルヌーブがムードメーカーでチームの輪を作っていたからだ。だからピローニは「この輪に溶け込んでいけるのだろうか?」と不安になったという。
しかし、誰にでも同じように接するビルヌーブは「ディディエ(ピローニのこと)、126Cはサーキットで2秒も不利な出来損ないのジャジャ馬マシンだけど、どうやったら速く走らせることができるか、一緒に考えてがんばっていこう」という風に、ピローニがチームの輪に溶け込めるように、いつもながらの分け隔てしないオープンな態度で接した。これにはピローニも大いに喜んでリラックスできたようだった。
ちなみに今シーズンでのカーナンバーは、コンストラクターズ・ポイントの関係で、昨シーズンにアラン・ジョーンズの付けていたカーナンバー27番がビルヌーブに回ってきた。そして28番をピローニが付けることになった。
そう、ビルヌーブのカーナンバーは27番なのである。ビルヌーブはこのシーズンになって初めて、フェラーリでのナンバー1ドライバーとして正式に扱われることになったのだ。
ターボエンジン用のドリフト走行(1981 ロングビーチGP)
今シーズン最初のGPはロングビーチだ。ビルヌーブの得意とする公道サーキットである。ビルヌーブは相変わらず「公道サーキットは性に合っていて大好きだ」と公言してはばからない。
今シーズンからはグッドイヤーが一時的にF1から撤退したために、タイヤメーカーは全チームともミシュラン一色になり、タイヤに関する条件は全チームとも同じになった。今までミシュランの理不尽なまでの不利さに悩まされていたフェラーリチームは、これで悩みのタネが一つ減ったというところだ。
それでもフェラーリ126Cには深刻な問題が二つほど残っている。シャシーグリップの無さと、ピーキーなターボエンジンが持つターボラグである。この二つの問題を可能な限り解決させようとして、ビルヌーブはシーズンオフの最中に新しいテクニックを身に付けていた。
そのテクニックとは、まず、コーナーの遥か手前からマシンを真横に向けて直ドリ状態に入り…と、ここまでは今までのビルヌーブのやり方だが、その次にはブレーキングを殆どせずに、つまりヒール・アンド・トゥでのブレーキング踏力をほんの僅かにして、更に次の瞬間にはなんとアクセルを全開にしてコーナーに入っていくというものだ。観客の立場から見た場合、コーナー手前でビルヌーブの126Cがロクに減速されないまま、アクセル全開のまま直ドリ状態になり、どう見てもそのままコースアウトするとしか見えないようなスピードでコーナーに入っていく。つまりコーナーへの進入スピードが異常なまでに高いのだ。
その状態で今度は左足ブレーキのテクニックを使い、ドリフトコーナリング中に「ポン! ポン! ポン!」と断続的に左足でブレーキペダルを踏んで減速しながら、同時にドリフト中のマシンの向きも微調整する。結果的にコーナーのクリッピング・ポイント辺りになる頃にはマシンは首尾よく減速されていて、なおかつアクセルは全開のままなのだからエンジンの回転数も落ちておらず、ターボラグも発生せず、コーナーからの立ち上がりでモタつくことは無くなる。
コーナー手前でしっかり減速するのではなく、直ドリでのタイヤの摩擦とドリフトコーナリングによる摩擦そしてコーナリング中での左足ブレーキの補助的な僅かな減速、これらが全て重なり合ってやっとマトモな減速になるというものだ。コーナーへの進入スピードも高い、コーナリングは今まで以上のハイスピードなドリフト走行、そしてターボラグが発生しないのだから立ち上がり加速にもロスがない、こういうテクニックをビルヌーブは身に付けていた。ラリーのテクニックを応用したものだったのだ。
ビルヌーブの126Cのエンジン音を傍から聞いていれば、コーナーが連続しているにも関わらず、アクセルを全開にしている状態が異常なまでに長いということだ。126Cを速く走らせるためにビルヌーブが編み出した「ターボエンジン用のドリフト走行」と言ってもいいだろう。ロングビーチのコーナーというコーナー、というよりもコース全体において、ビルヌーブはその走行を実行しており、マシンが真横を向いている状態のほうが遥かに多かったのだ。
今回のGPのフリー走行でビルヌーブのこの走り「ターボエンジン用のドリフト走行」を初めて見た観客たちは、126Cのブレーキが壊れただのアクセルが戻らなくなっただのと悲鳴を上げることもしばしばで、観客たちはコンクリートウォールの奥の安全地帯に居るにも関わらず、ビルヌーブの126Cがコーナーに迫ってくると「こっちに突っ込んでくる!」と怯えて逃げ出す始末だった。それほどまでにビルヌーブの「ターボエンジン用のドリフト走行」は過激でクレイジーそのものだった。今年でF1キャリア5年目になるビルヌーブだが、デビュー当初の過激さやクレイジーぶりは少しも衰えていない。むしろ更に増してきていた。もちろんこんなワザができるのはビルヌーブだけである。
チームメイトのピローニは愕然として「僕にはあんなクレイジーな走り方は到底できない。ジルには恐怖心が無いんだろうか?」とコメントした。
それでもピローニには地味ながらも潜在的な速さがあり、かなりの実力を持っている。予選ではビルヌーブが5位、そしてピローニは奮闘して6位に付けた。ビルヌーブのクレイジーなドリフト走行の速さも、ピローニのオーソドックスなグリップ走行の速さも、タイプこそ違えど共にチーム内での良きライバルと言っていいだろう。
ビルヌーブとピローニの速さをもってしても、予選グリッドが5位と6位しか得られなかった原因は、ひとえに126Cのアンバランスさに尽きる。少ないシャシーグリップの126Cを考えたら、彼らのグリッドはできすぎと言ってもいいだろう。126Cは少なくとも昨シーズンの「クズ鉄312T5」に比べれば、だいぶ期待できそうなマシンだ。
決勝では、ビルヌーブはスタート早々から得意のロケットスタートを見せて第一コーナーでトップに躍り出たが、レースの前半でドライブシャフトが折れてしまいリタイア。ピローニもほどなくして燃料系のトラブルでリタイアとなった。126Cには、ニューマシンに付き物である耐久性の問題も残されていたのだった。
126Cの愛称「ガラクタ」(1981 ブラジルGP)
ブラジルGPが始まる少し前の話である。
フェラーリのテストコースで、ビルヌーブは126Cのシャシーグリップの貧弱さを少しでも改善すべく、テスト走行を延々とやっていた。前回のロングビーチGPで、実戦でのシャシーグリップの無さがどれほど深刻な事態なのか、ビルヌーブにはよく解ったからなのであった。何せ、あれだけ過激なターボエンジン用のドリフト走行を駆使してもタイムは思ったほどには上がらなかったのだから。
ビルヌーブは、テストコースで周回を重ねてはピットインし、メカニックや設計者にシャシー性能改善のアドバイスを伝えることを続けていた。それが何日も何日も続いた。しかし、決定的な改善策は見出せなかった。せいぜい、ほんのちょっとだけシャシーグリップが良くなったという程度で、少なくともレースで上位を狙える可能性は殆どゼロに等しかった。
そんなテスト走行の最中に、ビルヌーブはピットインして、マシンからは降りずに、ヘルメットだけを脱いで、メカニックや設計者に向かってこう言った。「このマシンはガラクタだよ」。
しかしビルヌーブは、それ以上の文句は言わず、マシンから降りて憤まんやるかたなくホイールを蹴飛ばしたりは決してしなかった。彼はボスのエンツオ・フェラーリにも面と向かって言った。「このマシンはガラクタだ。でも僕は一日中テスト走行をするよ。無理な運転をしてスピンもするだろうし、キャッチフェンスに突っ込むこともあるだろう。それでも少しでも改善策が見出せれば嬉しいし、それにこれは僕の仕事で、僕は仕事が好きだからね。だけどこのガラクタマシンではレースには勝てないってことを言いたかったんだ。ボス、これだけは解ってほしい」。
エンツオ・フェラーリはビルヌーブのこの言葉を潔く、そして深刻に受け止めた。ビルヌーブが嫌味を込めて発した言葉ではなく「少しでも速く走りたい」という意思が、エンツオ・フェラーリにもひしひしと伝わってきたからだ。
しかしやはりこれ以上の改善策は見つからず、結局、僅かな改良を加えただけの状態でフェラーリチームはブラジルGPに挑まなければならなかった。ビルヌーブは昨シーズンの312T5の愛称を「クズ鉄」と名づけたが、126Cの愛称は「ガラクタ」と名づけたのである。マシンの問題点こそ違えど、どっちのマシンも似たり寄ったりの愛称&妥当な評価である。
こんな希望の無い状態で、ブラジルGPの予選は始まった。ビルヌーブはなんとか予選7位につけ、決勝では得意のスタートダッシュを決めて、前を行くアラン・プロストのテールギリギリにくっ付いていた。しかし、ビルヌーブよりもプロストのほうがブレーキングのタイミングが早かったために、ビルヌーブはプロストに追突してスピンしてしまった。その結果、後続車は大混乱となり、後続車の内の数台がクラッシュした。
ビルヌーブのスピンのあおりを食らってクラッシュした後続車のドライバーたちは、「ジルの奴め! 少しはプロストとの車間距離を開けておけ! 相変わらず危ない走りをする奴だ!」と怒っていたが、反面、彼らは「でもまぁ、あれがジルのドライビング・スタイルなんだから仕方が無いか…はぁ〜…」と諦めていた。
一方、後続車の多重クラッシュの原因を作った張本人のビルヌーブは、フロントウイングが曲がってしまい、極度なアンダーステアのまま苦しみながら走行を続けていたが、奮闘むなしく、ターボトラブルのために白煙をモウモウと上げながらリタイアするハメになった。
プロストのマシンだが、ビルヌーブに追突された時のダメージを負っていなかったのはプロストにとっては救いだった。しかし、ビルヌーブと同じ126Cに乗るピローニが、プロストに周回遅れにされそうになった時、ピローニは焦りからによる自らのスピンをしてしまった。周回遅れにされそうだったピローニは、本来ならばプロストに素直に道を譲って然るべきなのに、どこをどう焦ったのか、プロストに抜かれまいとして無理をしてしまい、その結果スピンして、あろうことかプロストまでをも巻き込んでクラッシュしてしまった。当然両者ともリタイアである。ピローニはあまりにもプライドが強すぎると思われる。周回遅れにされそうな時には、素直にラインを変えるか減速するかして抜かせるのが、F1だけでなくレースの世界の常識である。
ビルヌーブはピローニの行いについては何も言わなかった。というより、先のテスト走行でガラクタ126Cに失望し、ガラクタはガラクタなりにどこまで速く走れるかだけを考えていたために、ピローニの些細な行動まで考える余裕が無かったのかもしれない。
こうして126Cは、デビュー2戦目にして、早々にビルヌーブから「ガラクタ」という愛称を付けられてしまったのだった。これも仕方の無いことである。
すり板のごとき花火大会(1981 アルゼンチンGP)
アルゼンチンGPでも、ビルヌーブは予選7位と、全くふるわなかった。それでも決して諦めることなく、決勝レースではビルヌーブは大胆なコーナリングラインを見せていた。
少しでもコーナリングスピードを稼ごうとして、ビルヌーブはコーナーの途中から出口に至るまで、片側のリアタイヤを芝生地帯に落としこんでドリフト走行をしていた。これはコーナリングラインのRを少しでも大きくしてコーナリングスピードを稼ぐためだった。アクセル全開の状態で芝生はけたたましく刈り取られて空中に激しく散乱し、観客にとっては見応え充分なショーになった。
それだけではなく、芝生地帯にリアタイヤを落とし込んでいるために、126Cの地上高が一瞬下がり、アンダーボディが縁石に激しく擦れて、マシンの底からハデに「ババババッ!!」と火花が飛んだ。
(1990年代に入る頃のF1で使われていた金属製の「すり板」による火花のようなもので、燃料を満タンにした状態での決勝レースで、序盤は車重が重いためにすり板と地面が擦れてあちこちのマシンの底から火花が飛んでいた、あれと同じような状態だった)
1981年当時はすり板のようなレギュレーションは無かったので、観客たちはビルヌーブの演出する花火大会も楽しむことができた。珍しい光景をシャッターに収めようとしてカメラマンたちはあちこちのコーナー脇を行ったりきたりすることになる。
しかし、そんなムチャなコーナリングが災いしたのか、ビルヌーブの126Cはドライブシャフトが折れてしまい、リタイアとなった。
後日のレース雑誌で「ビルヌーブ、花火屋を開店」という冗談の見出しが載せられたのだが、それほどまでに彼のコーナリングラインは大胆だったのだ。
希望の兆し(1981 サンマリノGP)
次なるサンマリノGPはフェラーリの地元イタリアだ。予選結果はティフォシたちにとって、まるで「待ってました」と言わんばかりの結果となった。ピローニは地道に頑張って6位のグリッドを得たのだが、ビルヌーブはなんとポールポジションを取った。
ビルヌーブ本人が「ガラクタ」と名づけた126Cをサンマリノのコースで堂々のポールにつけることができたのは、かなりの幸運が重なったためだった。たまたま126Cとサンマリノのコースとの相性がよく、更にビルヌーブの弾き出したセッティングデータがものを言った結果だったのだ。
ところがこのビルヌーブの出したセッティングデータは、ピローニのマシンには合っていなかった。ピローニにはピローニなりの走り方があるからで、少なくともビルヌーブのドリフト走行に基づいて出されたセッティングデータは参考にならなかったのだ。これはこれで仕方が無い。
決勝では、ビルヌーブは得意のスタートダッシュを見せて、レース序盤はトップを独走。ティフォシたちは熱狂した。だが、間もなく雨が降り出してきて、各車レインタイヤに交換するべくピットインをした。ビルヌーブはピットインのタイミングがやや悪かったために順位を下げてしまったのだが、気を取り直して本来の過激極まるドリフト走行を駆使し、不安定な路面状況ながらもファーステスト・ラップを叩き出しながら全開走行を続けてトップグループを追った。
片やピローニはといえば、地道なドライビングが功を奏して、素晴らしいことにこの時点でトップに躍り出ることも幾度かあったのだ。ピローニもようやく126Cに慣れてきたと見え、ターボエンジンのパワーをうまく引き出していた。しかし終盤までタイヤがもたず、ジリジリと順位を下げてしまった。
トップグループの仲間入りを目指していたビルヌーブは、やがてその希望が叶えられそうになった途端に126Cのクラッチディスクがタレてきた。レース終盤になるにつれ、どんどんクラッチディスクが加熱して滑り出していってしまい、やはりジリジリと順位を落としてしまう。
結果として、ピローニが5位、ビルヌーブは7位でフィニッシュとなったのだが、ビルヌーブのポールポジションや序盤でのトップ独走やファーステスト・ラップ、そして一時的にピローニがレースのトップを走ったことを考えれば、運に助けられたというものの、フェラーリチームにとって少しずつ希望が見えてきたようなGPだった。
ピローニの機転(1981 ベルギーGP)
ベルギーGPは、FISAとGPDAの対立が際立ったものだった。出走台数の多すぎによるレースでの危険性を全く省みないFISA、そのFISAの権威主義的で高圧的な態度に対し、ドライバー側の団体であるGPDAは抗議の意思表示として、決勝のフォーメーションラップでストライキ運動を起こす計画を練っていた。
GPDAの委員長に立候補したのは、政治的なことに関心が深いピローニだった。ピローニはビルヌーブに対して「ジル、君もストライキ運動に参加しなよ。FISAのお偉方はレースの危険性を完全にナメてやがる。あのバカなお偉方に痛い目を見せてやろうぜ」と誘ったのだが、レースそのもの(走りやバトル自体)にしか興味の無いビルヌーブは、最初はすごく嫌がっていたといわれる。しかしピローニの熱意に負けて「しょうがないなぁ。付き合おうか」というかんじでビルヌーブもストライキ運動に参加することになった。
ストライキ運動とは、運動に参加しているドライバーたちはフォーメーションラップを回らないというものだった。決勝グリッドにはビルヌーブが7位、ピローニは3位につけていたのだが、それだけでなく、他のストライキ参加マシンたちも、フォーメーションラップを回らなかった。つまりグリーンフラッグが振られても発進しなかったのだ。
その結果、ストライキ運動に参加していないマシンだけが、停まっているマシンたちをすり抜けながらフォーメーションラップを回るという、非常に奇妙な光景が見られた。まるでグリッドについた半分のマシンが同時にスターティング・マシントラブルを起こしたかのようだった。
これにはFISA側も困ってしまったのだが、「こんな挑戦をされてレースを一時中断するわけにはいかない」と意地になり、そのままレースをスタートすることに決めた。しかし、意地になったこのFISAの判断がマズかった。
スタートの直前、リカルド・パトレーゼのアロウズのエンジンがストール。本当にスターティング・マシントラブルが起きてしまった。もっとマズいことにアロウズのメカニックがパトレーゼのマシンのエンジンをかけようとしてコースに入ってしまい、それとほぼ同時にレースはスタートとなって、アロウズのメカニックは後続車に軽くはねられてコース上に倒れ込んでしまった。
この光景をミラー越しに見て一瞬で判断したのは、パトレーゼの前のグリッドにつけていたピローニだった。ピローニは「このまま全車がスタートするとアロウズのメカニックは轢き殺される!」と判断して、わざとコース上を大々的に横切る形で、ゆっくりとジグザグ走行し、後続車の動きを強引に止め、強制的にレースを一時中止に導いたのだった。ピローニのこの機転は素晴らしいもので、ドライバー仲間からも観客からも「人間の安全を第一に考えた素晴らしい機転」と賞賛された(その後アロウズのメカニックは無事に助け出され、幸いにもケガは回復した)。
FISA側は怒鳴りつけてきた。「何が機転だ! もともとスターティング・マシントラブルを誘発させたのは、ストライキをしたドライバー本人たちじゃないか! パトレーゼのマシンはエンジンのアイドリング状態が長かったためにオーバーヒートして、そのためにエンジンが止まったんだろう。それに、スタート直前にコースに乱入するメカニックもメカニックだ。轢いてくださいと言わんばかりじゃないか! 全てがくだらない茶番劇だ!」。
それに対してピローニは言った。「もともと? じゃぁきくが、もともとの出走台数の多さを省みないで、多すぎる台数でレースを開始させたあんたらはどうなんだ? あんたらお偉方が危険を省みないから、こういう結果になったんだろ。もともとはバカな判断をしたあんたらに落ち度があったんだよ。レースをしたことのないお偉方には解らないだろうけどね」。
双方ともに罵声を浴びせ合う、これではまるで泥試合である。
ビルヌーブはこの泥試合にうんざりして、早く決勝の再スタートがきられないか、ピットでいらついていた。こういうところも、レース自体にしか興味の無いビルヌーブらしい部分である。ビルヌーブはこんな泥試合など見たくも聞きたくもなかったのだ。
やがて決勝の再スタートがきられ、ビルヌーブは4位で、ピローニは8位でチェッカーを受けた。ビルヌーブはガラクタ126Cで、今シーズン初のポイントを何とか獲得することができたのだ。今の126Cの性能では、これがやっとなのだろう。
こんな状態ではまだまだフェラーリチームの先行きは暗く、まして優勝などは夢のまた夢に思えた。
しかし、次のGPでフェラーリチームは、ビルヌーブの成し得た神業のような快挙により、一気に明るい表情になるのだった。
スキッピング・ドリフトによる快挙(1981 モナコGP)
ビルヌーブは、他の数人のF1ドライバーがしていたのと同じように、モナコの街に自宅を構えて家族全員で住んでいた。そういう意味ではモナコのコースは彼のホームサーキットとも言える。
モナコGPの話をする前に、ここでちょっとビルヌーブの普段の食事について話してみよう。
ビルヌーブは昔から、ステーキとポテトを主食にしていて、他の料理には興味を示さなかった。モナコに住んでいながら高級なフランス料理にも全く関心が無く、どんなに高級な料理を出されてもステーキとポテトしか食べないことが大半だった。ビルヌーブは特にステーキとポテトが大好物だったから食べていたのではなく、食事そのものに執着が全く無かったのだ。
ビルヌーブはよく、ジャーナリストからのインタビューで語ったものだった。「僕は食事をするということには興味が無いんだ。とりあえずステーキとポテトが手軽で好きだから、いつもそれを選んでいるだけなんだ。毎年F1サーカスで世界中を旅行しているようなものだけど、どこの国に行っても、その国の名物料理なんて興味が無いね。妻のジョアンナに“いつものヤツでいいよ”と言えば彼女はすぐに近くのスーパーに行ってステーキ用の肉とポテトを買ってきてくれる。ジョアンナがどんなに名物料理を奨めても断ってきたよ」。
ジョアンナ夫人もジャーナリストに語ったことがあった。「ジルはいつでもそうだわ。せっかく珍しい名物料理があるのに、他にもっと美味しい料理があるのに、彼は、私に近所の適当なスーパーでステーキ肉とポテトだけを買ってこさせるのよ。私は珍しくて美味しい料理を食べたいから、世界各国を回っている時には彼をホテルに置き去りにして、子供たちを連れて名物料理を出すレストランに行くことも多いわね。彼はそれでも全然不平を言わないわ。なぜなら、彼にとって食事というのは、生きるために仕方なくやっている作業に過ぎないのよ。彼は、食事を楽しむ時間があったらその分マシンに乗っていたい、という考え方なの。別にわざとステーキとポテトだけを選んでストイックぶってカッコつけてるわけじゃなくて、本当に食事には興味が無いのよ。でもあれじゃ栄養のバランスが悪すぎだわね」。
そんな調子でビルヌーブはモナコGPの前座であるパーティーに出席しても、相変わらず「ステーキとポテトだけを食べたら後はさっさと帰って、レースのことを考えたい」という具合だった。しかし、各国の首相が参加するパーティーでそんなことを言うわけにもいかず、ビルヌーブは仕方なく、興味も無い高級料理を一緒に食べなければならなかった。この食事は彼に言わせれば、味などどうでもよく、かなり退屈だったらしい。
しかし、ここモナコGPはドライバーの持久力が大切なネックとなることも確かだ。ジョアンナ夫人はそれをよく知っていて、ビルヌーブにできるだけいろんな料理を食べてスタミナを付けるように奨めた。ビルヌーブはただ料理を奨められるだけでは断っていたところだが、レースのためという理由が入れば、率先していろんな料理を食べた。ジョアンナ夫人もなかなかに、彼の扱い方を心得ていた。
さて、そうこうしているうちにモナコGPの予選が始まった。
予選でビルヌーブは、ターボエンジン用のドリフト走行をこれでもかというくらいに爆発させた。第1戦のロングビーチGPで披露したあの走行に更に磨きがかかったもので、マシンを真横にしてコーナーに入った際に、モナコのコースのバンピーな路面のせいで、ビルヌーブの126Cは真横になったまま一瞬空中に浮き、そして着地。このアクションが繰り返された。コーナーごとに彼の126Cは猛烈な勢いでスキップしながら空中に浮いては着地を繰り返すという、スキッピング・ドリフトとでも言うべきコーナリングを見せた。というより、ビルヌーブの走り方でバンピーな路面のモナコを走ると、自然にマシンが激しくスキップするのだ。
直線など全く無いに等しいコースなのに、相変わらずアクセルを全開にしている時間が異常なまでに長く、そのフルパワーを伝えられたリアタイヤからはコンパウンドのカスが飛び散り続けた。もちろんコース上の殆どにおいてビルヌーブのマシンは横を向きっぱなしである。
そして、昨シーズンの312T5で実行した、わざとリアタイヤをガードレールに「ドンッ!」とぶつけて、その反動でマシンの向きを変えて次のコーナーへの進入に備えるという、跳ね返りドリフトまで織り交ぜて見せた。
観客たちはただただ呆然とするばかりで、ビルヌーブのこの激烈なパフォーマンスに見入った。
一般的には、「低中速コーナーが連続するモナコのコースほど、ターボエンジンのマシンにとって不利なコースはない」と言われていた。「ターボラグによるコーナー出口での立ち上がりの悪さは、ドライバーのテクニックだけでは到底克服できず、よってターボエンジンのマシンはモナコでは遅い」とまで言われていた。
にも関わらず、ビルヌーブは先述の走り方でなんと予選2位のグリッドを獲得した。ポールポジションはブラバムのネルソン・ピケだったが、そのすぐ隣のグリッドである。この予選結果には誰もが驚かされた。「ターボエンジンのマシンはモナコでは遅い」という常識に加えて、「どんなに頑なな常識にも例外はあるものだ」と誰もが認めざるを得なかったのだ。とあるジャーナリストに至っては「ステーキとポテトを主食にしていれば不利なモナコでも速く走れるんだなぁ」と冗談で誤魔化し、ビルヌーブの神業な走りに対して、ただもう笑うしかないというほどだった。
チームメイトのピローニは、ビルヌーブの強烈な速さとクレイジーなコーナリングに圧倒されて焦ったのか、予選走行で3回もクラッシュしてしまった。そのためにスペアカーのセッティングに手間取り、ピローニは予選17位のグリッドに沈んだ。たとえピローニがクラッシュせずに順調に予選を走っていたとしても、ガラクタ126Cましてターボエンジンでは、せいぜいピローニは予選10番以内に入れるかどうかも怪しかっただろうし、それがモナコでの本来の妥当なグリッドというべきだろう。それほどまでにビルヌーブの速さが異常なのである。
決勝のスタートでは、ビルヌーブはロケットスタートを決めることができず、ピケを抜いてトップに躍り出ることはできなかったが、ピケの真後ろにピッタリと張り付いて、トップを奪うべく何度もアタックを仕掛けた。
それとほぼ同じくして中団グループでは多重クラッシュが起き、数台がリタイアした。アラン・ジョーンズとピローニはこのクラッシュに巻き込まれることなく、自動的に二人とも順位が上がった。
ビルヌーブは相変わらずトップのピケを猛追していたのだが、126Cのブレーキの利きがだんだん弱くなっていってしまった。ブレーキのフェード現象である。モナコはブレーキを酷使するサーキットでも有名だが、126Cのブレーキの耐久性や信頼性は低かったのだ。これもシャシー設計でのミスの一つに入る。
ブレーキのフェード現象のためにビルヌーブは少しだけペースを落とさなくてはならず、そのために後ろに迫ってきていたジョーンズにブレーキング競争で抜かれてしまい、ビルヌーブは3位に落ちてしまった。
一度フェードを起こしたブレーキというものはなかなか制動力が回復しないどころか、レース終了までフェードが悪化していくものである。ビルヌーブはこのままジリ貧になっていくだろう、と誰もが思った。
しかしこの時点でビルヌーブは、「スタートから今まではピケを突っついていたから、思ったようなレコードラインを取れなかったけど、これで予選と同じ走り方ができるじゃないか」と考え方を変えた。彼得意の、予選さながらのギリギリのドリフト走行をレース終了までずっと続けるというレース運びに切り替えたのだ。
ここからのビルヌーブの走りは、予選で見せた激烈なスキッピング・ドリフトと跳ね返りドリフトを織り交ぜたものに変わっていった。なんとなればこの走法は、ブレーキにそれほど負担をかけずにすむので、ブレーキがフェードしていてもタイムにはあまり影響は出なくなるのだ。ビルヌーブはこれを生かした。観客からしてみれば、ビルヌーブの走りが予選走行と同様の過激なものに変わったことは、この上なくスリリングなショーだった。
一方、2位のジョーンズは(序盤でビルヌーブがやったように)トップのピケに張り付いてプレッシャーをかけ続けていた。やがてピケは冷静さを失ってクラッシュという自滅の道をたどる。
この時点でトップはジョーンズ、2位がビルヌーブとなった。しかしジョーンズは30秒近くもビルヌーブを引き離していた。先ほどから走り方を変えたビルヌーブは、過激でクレイジーなドリフト走行で追い上げ、少しずつジョーンズとの差を縮めていった。フェードした126Cのブレーキを抱えながらの追い上げは、かなり危険な雰囲気が漂っていた。
やがて、ジョーンズのマシンにも不具合が出始めた。ジョーンズのウイリアムズは燃料がベーパーロックを起こし始めて、エンジンパワーが上がらない状態になっていったのだ。これでビルヌーブのマシンもジョーンズのマシンも、共にトラブルを抱えたままトップ争いをすることになったのだが、ジョーンズのペースが僅かに落ちているので、今までのビルヌーブの追い上げが更に功を奏するものとなった。
まるで、必死になって逃げるジョーンズ、地の果てまでも追いかけるビルヌーブというかんじで、観客たちはビルヌーブの追い上げに熱狂的になった。こういう時の観客の心理は決まっている。ビルヌーブがトップ争いに関わると、レースは他の誰よりもスリリングなものになるということだ。実際ビルヌーブの走りはスリリングそのものだった。
ビルヌーブの126Cはコーナーごとに真横になり、空中に浮いては着地して狂ったようにスキップし、リアタイヤがガードレールにぶつかり、その反動で全く逆の方向にマシンが向いて次のコーナーに突入、この情景が際限なく繰り返された。こんな極めてクレイジーな走り方でトップを追うというのは、観客にとっては熱狂的以外の何物でもない。
そして、その時は訪れた。残りわずか4周というところの第一コーナーで、とうとうビルヌーブはジョーンズを抜いた。そのままジョーンズの追従を許さず、ビルヌーブはトップでチェッカーを受けた! 本当に久しぶりの優勝である。
ターボラグという致命的な宿命を抱えたエンジン、そのエンジンには全く不利なモナコのコース、シャシーグリップの貧弱さ、そしてブレーキのフェード。126Cが抱えたこれら全ての逆境とデメリットを、ビルヌーブはずば抜けたテクニックと集中力で見事に克服したのだ。序盤でジョーンズに抜かれた後、走り方を変えたことが優勝のカギとなったのだった。
他のチームどころか、フェラーリチームのスタッフでさえも、「126Cなどという絶望的なマシンで優勝とは、信じられない!! 神業だ!!」と驚愕していた。
126Cのとことん不利な性能をいちばんよく知っているエンツオ・フェラーリは、この奇跡的な優勝に感涙を禁じえなかったという。記者会見でエンツオ・フェラーリはジャーナリストたちのインタビューに答えた。「諸君、今シーズンの初めに私はビルヌーブから“126Cはガラクタだ”と言われたのだ。とてもF1マシンとは思えないほどの、ひどい出来だということだ。しかし我々には殆どなす術がなかった。何しろシャシーの改善は思ったようには進まなかったからだ。だがビルヌーブは絶対に諦めることなく、ガラクタのひどいマシンで、しかも極めて不利なこのモナコで優勝を遂げた。これは、神業、奇跡、快挙、どんな言葉でも表現しきれない」。
エンツオ・フェラーリまでもが認めた126Cの出来損ないぶりは、ビルヌーブがモナコで優勝したことの凄さを証明するのに充分すぎるほどだった。
ビルヌーブも記者会見で優勝の喜びを表していたが、一言、「やっぱりステーキとポテトばっかり食べてたんじゃダメだね。ジョアンナに奨められて他の料理を食べたことも勝因の一つだよ」と冗談を言って報道席を笑いに包んだ。こういうユーモラスな一面も、彼の人間的な印象を良くすることに一役買っていた。
こうしてビルヌーブは、今までよりも更にF1界での評価が上がったのである。彼のテクニックと速さを否定する者は、もはや一人も居なくなった。
また、チームメイトのピローニは、スタート直後の多重クラッシュのおかげで労せずして順位を稼いだとはいうものの、地道に頑張って4位入賞を果たした。これでフェラーリチームはコンストラクターズ・ポイントを大幅に獲得することができたのだった。
ジャック・ラフィーの絶句(1981 スペインGP)
前回のモナコGPでは、ビルヌーブの常軌を逸した速さに加えて彼の大得意なコースだったこともあり、126Cでもなんとか優勝できた。しかしピローニのほうは、スタート直後の多重クラッシュによって順位が自動的に上がったに過ぎず、ピローニは運に助けられたゆえの4位だったのだ。つまり、マシン自体のシャシーグリップは相変わらずガラクタ同然だったのだ。
モナコGPで結果を得たとはいうものの、フェラーリチームのシャシー開発スタッフにしてみれば、126Cのシャシー改善は相変わらず見出せずに困っていた。その状況を知っている外部のレース関係者たちに言わせれば、「もうフェラーリは、前回のモナコGPのようにはウマくはいかないだろう」というのが大方の意見だった。126Cのシャシー性能は相変わらずダメなままで、レース関係者からまでもガラクタ呼ばわりされていた。
そんな、マシン的に希望の見えない状態で、スペインGPの予選が始まったのだが、やはりここでは前回のような奇跡は起きなかった。どんなに頑張ってもビルヌーブは予選7位、ピローニは予選13位のグリッドしか得られなかったのだ。
ポールポジションを取ったのはリジェに乗るジャック・ラフィーだった。その後のグリッドにアラン・ジョーンズ、カルロス・ロイテマン、ジョン・ワトソン、アラン・プロスト、ブルーノ・ジャコメリと並び、その次がビルヌーブだった。
しかしビルヌーブは決して諦めなかった。決勝でフォーメーション・ラップを回り終えて再びグリッドについた時、「スタートダッシュでどこまで抜けるか、イチかバチかの賭けをしてやる」と、ビルヌーブはコクピットの中で静かに燃えていた。
そしてグリーンライトが点灯してスタート。ポールのラフィーがスタートをミスり、ジョーンズとロイテマンに抜かれて、彼らウイリアムズの2台が先頭に踊り出た。各車そのままの順位で第一コーナーに突入かと思われたが、ビルヌーブだけは違っていた。
ビルヌーブは126Cのアクセルペダルを床に踏んづけたまま、シフトアップの時も決してアクセルを緩めることなく、エンジンを大幅にオーバーレブさせて、物凄い勢いで車線変更しながら、ジャコメリ、プロスト、ワトソン、ラフィーを第一コーナーの手前で抜いていった。そしてビルヌーブは、先頭を走るウイリアムズの2台を猛追した。ビルヌーブ得意のロケットスタートがほぼ100%発揮されたといってもいい、素晴らしいスタートダッシュだった。ビルヌーブは、今まで実行したスタートダッシュの中でも取り分け危険度の高い、限界を超えたと言ってもいいスタートダッシュに賭けていたのだ。そしてその賭けは成功したのだ。
2週目、コーナーの突っ込みでビルヌーブはロイテマンを抜いて2位になった。しかしトップのジョーンズはだいぶ先を行ってしまっている。ウイリアムズのマシンの完成度は素晴らしく、126Cのようなシャシーグリップの大幅に劣るマシンで追いつくのは至難のワザだった。ビルヌーブは諦めずに懸命に飛ばしたのだが、やはりマシンの大幅な性能の差はカバーできず、少しずつジョーンズとの距離が離れていってしまう。
しかし、スペインの高い気温がジョーンズを襲った。ジョーンズはコクピット内のあまりの暑さに頭がぼやけて、一瞬反射神経が鈍り、コーナリングをミスってコースアウトしてしまった。ジョーンズは何とかダートから飛び出したが、トップグループからは完全に脱落した。ジョーンズにとって今回のスペインGPでの気温はあまりにも過酷だったのだ。
この時点でビルヌーブがトップとなったのだが、一瞬でも油断は許されない状態だ。何しろ126Cは一周に付き、エンジンパワーの面では他のマシンよりも2秒以上は有利だったのだが、コーナリングスピードの面では4秒以上も不利だったからだ。結果として一周につき2秒以上も不利ということになる。126Cは極度に不安定なコーナリング性能のために、普通にコーナリングしていたのでは、たちまち後続車たちに抜かれてしまう。トップに立ったとはいうものの、このままでは、お先真っ暗も同然だ。ましてビルヌーブの真後ろには、4〜5台の後続車が既に追いついていて、トップグループは団子状態になっていた。126Cは一周につき2秒以上も不利なのだから、ビルヌーブがたちまち後続車に抜かれるのは目に見えている。
そこでビルヌーブは、今まで以上にマシンをハデに横に向けてドリフトし、ブロック走行を開始した。もちろんブロックは正当なレーシングテクニックだ。
ただ、126Cという、明らかにコーナリング性能の数段劣るマシンでブロックを続けることは、いつコントロールを失ってコースアウトするか解らないことを意味する。こんな極めて危険な状況でも、ビルヌーブは臆することなくブロック走行を続けた。
ここまでならば、まだ他のドライバーたちにもチャンスがあった。なぜなら、ブロックをしているマシンというのは明らかにコーナリングスピードが遅く、よって若干レコードラインを外して突っ込めばコーナリングスピードで勝てる=抜けるからである。
しかしビルヌーブのブロック走行は普通ではなかった。本来のレコードラインを縦横無尽に横切り、どこから攻められても126Cの車体の一部が障壁となってブロックできる、こういうテクニックをビルヌーブは駆使していた。
つまり、不安定なコーナリング性能の126Cでは到底考えられないことだが、ビルヌーブはブロック中のドリフト走行におけるラインを自由自在に操っていたのだ。これが事実なのだから恐ろしい。
このテクニックには、ビルヌーブの後ろに張り付いているドライバーたち全員が驚いた。「信じられない。126Cなんていう不安定なコーナリング性能のマシンでドリフト中のラインを自由自在に変えるなんて! しかもその時々のあらゆる攻めに応じた柔軟性のあるブロックだ。奴は一体どんな魔法を使っているんだ? こっちのほうが明らかに速いのに、どうしても抜けない。このブロックを打開できない。どうすればいいんだ!?」。
後続車のドライバーたちが焦りを感じている中、その後続車たちの中では順位が数回変わることがあった。しかし、ビルヌーブがトップだという状況はいつまでも変わらなかった。ちなみにスタートで出遅れたラフィーはジワジワと追い上げてきていて、トップグループの仲間入りをして、ビルヌーブに次ぐ2位のポジションにまで上がってきた。ビルヌーブを攻め落とせそうなのは、勢いのあるラフィーしか居なかった。
ゴールまであと18周というところで、しびれを切らせたラフィーは、思いつく限りのあらゆる方法と走行ラインでビルヌーブを抜きにかかったが、もう少しのところで抜けなかった。どう攻めても、126Cの車体のどこかが邪魔をしてブロックされてしまうのだった。
126Cというマシンでドリフト中のラインを自由自在に操るだけでも驚異的なのに、もっと信じられないことに、ビルヌーブが走るブロック走行のラインは、誰がどう見ても不当な部分や強引な部分が全く無く、極めて自然なラインで、100%純粋なレーシングテクニックだったことだ。他のドライバーならば、ちょっと小ずるい、やや走路妨害とも思える方法でブロック走行のラインを変えることも時々あるのに、ビルヌーブに限っては走路妨害のカケラも感じさせなかった。FISA、ドライバー、観客、テレビ視聴者の誰が見ても、ビルヌーブのブロック走行は、どこまでもフェアなものであり、かつ完璧のガードだったのだ。
ここまで正当で完璧なブロックをされているからには、後続車にとってはもうビルヌーブがミスをするのを待つしかなかった。ビルヌーブが一瞬でもドリフト中のマシンの挙動を乱したり、一回でもシフトミスをすれば、後続車の誰か、特に一番気合の入っているラフィーに抜かれることはまず間違いない。
ラフィーはレースが残り少なくなっていくにつれ、果敢にリジェのノーズをねじ込ませて、ビルヌーブにプレッシャーを与え続けた。だがビルヌーブは全く動じず、平然としてブロック走行を続けた。
いよいよ最終ラップがやってきた。ラフィーは最後のアタックとばかりに、126Cのアウト側一杯のラインを取った限界ギリギリの追い抜きに挑戦したが、ビルヌーブの走りの限界のほうがもっと高かったためにラフィーの追い抜きは失敗し、そのままトップグループは団子状態でチェッカーを受けた。トップはビルヌーブだ! ビルヌーブは、このスペインでも奇跡的な優勝を遂げた! モナコに続いて二連勝である!
トップグループであるビルヌーブ、ラフィー、ワトソン、ロイテマン、デ・アンジェリスの差は1.24秒差という、とんでもなく接近したゴールだった。1.24秒の中にトップグループ集団が全て入っていたのだ。
レースを見ていた関係者、マスコミ、観客の全てが、ビルヌーブの人間離れしたテクニックを認めた。観客も報道陣も、他のチームの関係者も、そこらじゅうで驚きの声を上げた。
「だって126Cだぞ!」
「あの出来損ないマシンだぞ!」
「ガラクタマシンだぞ!」
「コーナリング性能なんて一つ下のカテゴリーのマシン程度だぞ!」
「全く非の打ち所が無い、正当で完璧なブロックだ!」
「あんな極めて不安定なマシンで、よくもまぁ!」
「どうやったらあんなマシンコントロールができるんだ!?」
「人間業じゃない!」
「凄い!! 凄すぎる!!」
優勝したビルヌーブ、2位のラフィー、3位のワトソンは表彰台でシャンパンファイトを繰り広げた。ビルヌーブのF1界での評価は、モナコの時よりも更に上がったのだった。エンツオ・フェラーリは、「今日のビルヌーブの走りは、かつての天才ドライバー、ヌボラーリの再来と言っても過言ではない」と、極めて高く評価した。
ちなみにチームメイトのピローニは、自らのミスでノーズを壊してしまい、ノーズ交換のためにピットインをしてタイムロスをしてしまい、レース結果は15位だった。しかしこのピットインが無かったとしても、ピローニは上位でフィニッシュはできなかっただろう。126Cの性能を考えれば、それが普通なのである。同じマシンに乗るピローニと比べてみてもビルヌーブの異常なまでの速さとテクニックが解るというものだ。
惜しくも5位でフィニッシュしたエリオ・デ・アンジェリスは報道陣にコメントした。「まいったよ。僕はわずか1.24秒差の中に居て、もしジルがミスをしようものなら、場合によっては僕が優勝していてもおかしくはなかった。だけどジルは要所要所をキッチリ完璧にブロックで押さえて、明らかに僕たちよりもラップタイムが遅いのに…僕たちは抜けなかった。ジルは本当に凄い奴だ。あんな過激でパーフェクトな走りを目の前で見ることができて、僕はある意味幸せかもしれない。だって、あのコーナリング・テクニックは既に芸術の域に達しているんだから」。
ワトソンとロイテマンも同じようなコメントをして、ビルヌーブのテクニックの凄さを語っていたのだが、ラフィーは終始無言だった。
無言だったというのは不正確かもしれない。ラフィーは、ビルヌーブのテクニックと冷静さとタフさを目の前で見せられて、絶句していて、どうコメントしたらいいか解らなかったらしい。リジェのノーズを126Cの横に強引に突っ込んで果敢にアタックしていったにも関わらず、全く効果が無かったのだから無理も無い。やがてラフィーは、これしか言えないという表情で言葉を漏らした。
「ジルには負けたよ………。あんな………あんなひどいマシンで勝つなんて………」
見とれていたカメラマン(1981 フランスGP)
フランスGPでは、ビルヌーブの予選走行が、カメラマンを虜にした。
とある特徴的なコーナーがあった。そのコーナーはクリッピングポイントまでが上り坂、そしてクリッピングポイントから後は下り坂という、上昇と下降を織り交ぜたコーナーだった。
そのコーナーでビルヌーブは、例によってコーナー手前からマシンを真横にして、220キロ以上スピードが出ている状態で、クリッピングポイントをかすめてコーナー出口まで完全にマシンを横に向けたまま走りぬけた。つまり彼の126Cは、真横になりながら上昇と下降のコーナーを駆け抜けたのだ。それが予選の間中、延々と続いた。もちろん彼の126Cはフルカウンター&フルスロットルのまんまだ。
これにはカメラマンたちも見とれてしまった。カメラマンたちは何度シャッターを切ったか覚えていないというほどだった。なにしろ100メートル以上も真横になったままコーナーを駆け抜けていく様は、カメラマンにとっては絶好のシャッターチャンスだったからだ。
(1989年のイタリアGPでゲルハルト・ベルガーが時速200キロでスピンした時、ベルガーは「今までで一番怖いスピンだった」と言ったことがあったが、ビルヌーブはそんな恐怖感はカケラも持っていなかったのだ)
そういう風にビルヌーブはがんばったのだが、なかなかセッティングが決まらず、予選結果は11位のグリッドしか得られなかった。しかも決勝ではマシントラブルでリタイアしてしまった。マシントラブルがなければ、上記の予選の走り方を決勝でも実行していたのだし、追い上げが得意なビルヌーブのことだから、だいぶ上の順位でフィニッシュしたであろうと思われる。
ピローニの精神的な弱さ(1981 イギリスGP)
イギリスGPでは、ビルヌーブは予選で8位につけた。しかしチームメイトのピローニは予選4位にまでつけた。ピローニの地味ながらも速い走りがだんだん実証されてきたのだ。「ピローニよ、あっぱれ」と周りの者たちは賞賛した。
しかしピローニは、速さは素晴らしかったのだが、人間的に決定的な問題があった。ピローニは決勝で、後ろから追い上げていたビルヌーブに道を譲らなかったのだ。アラン・プロストに告ぐ2位を走っていたピローニは、既に3位にまで浮上していたビルヌーブを執拗に押さえ込んで抜かせようとしなかった。強引にブロックして抜かせなかったのだ。
このピローニの強引なブロックは、ビルヌーブが先のスペインGPで実行したような正当で非の打ち所の無い立派なレーシング・テクニックと比べたら、本当に月とスッポンで、全く性質が違っていた。ピローニのブロックは、ほとんど走路妨害に等しかったからだ。
人情として考えても、人道的に考えても、ピローニはビルヌーブに道を譲るべきなのだ。それがF1レーシングの常識だ。1979年のイタリアGPでビルヌーブがシェクターの後ろに付いてシェクターを決して抜かずに、ナンバー2ドライバーとしての自覚を持って謙虚でフェアな走りをして、優勝の誘惑に負けることなく、2位でフィニッシュしたように、本来はピローニもナンバー2ドライバーとしての自覚を持つべきなのだ。それが当然の義務なのだ。
これは、もともとピローニが名誉欲と地位欲に駆られてフェラーリチームに入ったことにも起因する。チームに入ったばかりの頃のピローニはおとなしくしていたが、チームに慣れてくるにしたがって、だんだん自己中心的になってきていて、名誉欲と地位欲を現してきたためだった。要するに今回の決勝での不当で強引なブロックにより、ピローニの化けの皮が剥がれたのだ。
ピローニには精神的な弱さもあった。不当な方法でチームメイトを強引にブロックしてでも上の順位になりたい、という、名誉欲と地位欲に負けてしまう弱さだ。このピローニの強引なブロックには、ビルヌーブも不快感を覚えた。どこまでもフェアプレイをするビルヌーブだからこそ、尚更ピローニの強引なブロックに不快感を持ったのだ。
このピローニの強引なブロックのために、ビルヌーブはあわてて減速せざるを得なくなることが多く、その隙を突かれてアルヌーに抜かれてしまい、ビルヌーブは4位に落ちてしまった。
それで焦ったのか、ビルヌーブはウッドコートシケインを抜ける時に、尋常ならぬスピードで突っ込んでいった。しかし思ったとおりリアタイヤがスライドし、縁石に激しく乗り上げて、ビルヌーブの126Cはハデにタイヤから白煙をあげながら大スピンをしてしまった。
このスピンのあおりを食らった後続車はフルブレーキングとニアミス回避に必死で、なんとか難を逃れた。しかしアラン・ジョーンズはコースアウトし、アンドレア・デ・チェザリスに至ってはキャッチフェンスに激しくクラッシュした。やり場の無い怒りを抱えたチェザリスは、コース脇に居た観客からの笑いに対して更に憤慨し、観客に対して「うるせー!!」と怒鳴った。チェザリスは怒りっぽいことでも有名である。
一方のビルヌーブもキャッチフェンスに激しくクラッシュして、フロントウイングはかなり曲がって、タイヤの一つはバーストし、サイドポンツーンはメチャクチャという状態にも関わらず、コースに復帰して、なんと全開走行を始めた。これだけでも観客たちは度肝を抜かれた。「あんな状態のマシンでピットまで戻る気なのか?」とみんなが驚いた。1979年のオランダGPでの三輪走行よりももっと過激で危険な行動である。ビルヌーブは「マシンが動く限りは何が何でも走る」というポリシーをここでも実行したのだ。
ビルヌーブはこんなクラッシュしたスクラップ同然のマシンでも、ピットに戻るべく全開走行をした。しかし、ピットまで戻る前に、他のパーツまでもがメチャクチャに破損して、全く走れない状態になったため、ビルヌーブは仕方なく、ピットに向かう途中でリタイアを決断した。
このレースで印象に残ったのは、ピローニの人間的な問題と精神的な弱さ、そしてビルヌーブがピローニに対して「ディディエはもしかしたら卑怯な奴かもしれない」という疑惑を持ち始めたことだった。
ピケとジョーンズからの絶賛(1981 ドイツGP)
ドイツGPが始まる前に、今シーズンのワールドチャンピォンの有力候補であるネルソン・ピケそしてアラン・ジョーンズに、ジャーナリストがインタビューをした。
ジャーナリスト「ネルソン、くだらない質問かもしれないけど、F1マシンを速く走らせるコツというものはあるの?」
ネルソン・ピケ「もちろんドライバーのドライビングテクニックが第一だけど、それと同じくらい重要なのは、マシンをセッティングする能力だよ。ドライビングテクニックだけじゃダメだ。どうやってそのコースに合ったセッティングを見つけ出せるか、それはドライバーに課せられた義務と言ってもいい。そういう意味では、ジルは最高のドライバーだろうね。ジルはドライビングテクニックとセッティング能力の両方ともずば抜けて優れたドライバーだ。あの出来損ないの126Cで、モナコとスペインで優勝するなんて、全くもって神業だよ。それはひとえに彼のドライビングテクニックとセッティング能力によるものだね。僕も見習いたいところだ」
ジャーナリスト「アラン、君もそう思うかい?」
アラン・ジョーンズ「ネルソンの言うとおりだ。今まで出会ったドライバーの中で最も高く評価できるのは誰か、と訊かれたら、僕は即座にジルだと答えるよ。ジルはドライビングテクニックとセッティング能力に加えて、とてもタフで、どんな逆境に立たされても冷静で、神経も細かく、どこまでもフェアな走りをして、ねばり強くて絶対に最後まで諦めないんだ。ドライバーとしてこれだけいい素質を持っているんだから、あんなひどいマシンで二連勝したことも納得できる。僕にはとてもじゃないがあんな奇跡は起こせないよ」
ジャーナリスト「ネルソンとアランにインタビューしているのに、なんだかジルの誉め言葉のオンパレードになっているよ(笑)」
ネルソン・ピケ「だって自然にそうなってしまうんだよ。確かに僕とアランは今シーズンのワールドチャンピォンの有力候補だけど、もしジルがマトモなマシンに乗っていたとしたら、僕たちなんてジルに置いて行かれちゃうだろうからね」
アラン・ジョーンズ「そういう意味では、今シーズンのネルソンと僕は運がいいんだ。だってジルが126Cというガラクタマシンに乗っていて順位を上げてこられないことが多いから、僕たちは助かってるんだ。それでもジルは時々、あんなガラクタマシンでも奇跡的な走りを見せるから油断はできないね」
こんな風に、ピケとジョーンズはビルヌーブのことを、今シーズンは低迷しているにも関わらず絶賛した。ビルヌーブが126Cという絶望的なマシンで時々見せる神業な走りを、二人はよく知っているからだ。もちろん他のドライバーたちも知っていたことは言うまでも無い。
しかし今回のドイツGPでは、ビルヌーブは予選8位、そして決勝ではタイヤがタレてきたための緊急ピットインにより、10位に終わった。
リザルトだけを見れば、一見、「ビルヌーブはそんなに速くは無い」という印象を受けるかもしれないが、それはとんでもない勘違いなのだ。ただ単に、絶望的なマシンに乗っているから結果が出ないというだけのことである。そのことはピケとジョーンズのコメントを見ればよく解るというものだ。
グッドイヤーのF1界への復帰(1981 オーストリアGP)
オーストリアGPからは、今までF1界から一時的に撤退していたグッドイヤーが復帰した。復帰してきたグッドイヤーのタイヤの性能は素晴らしく、これはミシュランタイヤを履いたチームにとってはかなり不利になる。もちろんフェラーリチームも例外ではない。
昨シーズンまでのグッドイヤーとミシュランの戦いが、また始まったわけである。しかし悲しいかなミシュランのタイヤは、グッドイヤーに比べると相当性能が劣っていた。当然その分ビルヌーブやピローニにも、タイヤの性能差という、とばっちりが来るのである。
にも関わらず、ビルヌーブは不利な126Cそして更に不利なミシュランタイヤという状況で、予選で驚くべき3位につけた。前回のドイツGPでアラン・ジョーンズが言っていた、「ジルはあんなガラクタマシンでも奇跡的な走りを見せるから油断はできないね」という言葉が見事に現実となったのだった。
そして決勝レース。ビルヌーブは得意のロケットスタートを決めて、1週目の終わりの最終コーナーを抜ける時点でなんとトップに躍り出た。126Cとミシュランタイヤの性能を考えれば信じがたいことである。
しかし、グッドイヤータイヤに比べるとミシュランタイヤは耐久性に欠けていて、決勝レースでは余儀なくタイヤ交換のためのピットインを強いられることが予想されていたのだ。思ったとおりレース中盤にも差し掛からない内にビルヌーブのタイヤはどんどん消耗していき、やがてタイヤが殆どグリップしなくなっていた。それでも「タイヤをダメにする危険を冒してでも全力でトップを守りきる」というビルヌーブの決意は変わらなかった。
しかしそれはあまりにも危険すぎた。殆どグリップしなくなったビルヌーブのマシンは、シケインの出口でコントロールを失ってコースアウトしてしまい、6位に落ちてしまった。
それでもビルヌーブはタイヤ交換のためのピットインという手段は選ばなかった。タイヤがグリップしなくなったのなら、それを逆手にとってドリフトしまくればいい、という考えで、あらゆるコーナーで彼は126Cを真横に向けて走り抜けた。
だがそれもつかの間、タイヤのグリップ性能があまりにも下がりすぎたために、ドリフト走行でさえもタイヤは言うことを聞いてくれず、ビルヌーブのマシンはコーナーでコントロールを失って激しく横っ飛びし、コース脇のバリアに激突し、リタイアとなった。グッドイヤー勢に対抗するには、あまりにも無茶な試みだったのだ。
フェラーリチームにとっては、ミシュランタイヤを履いたマシンの宿命に、また悩まされることになったのである。
「フライング・ビルヌーブ」という愛称(1981 オランダGP)
オランダGPでは、ビルヌーブは予選16位のグリッドしか得られなかった。ミシュランタイヤの泣き所がモロに出た予選だった。ピローニは地味ながらも確実な走りを見せて、ビルヌーブよりも上の12位のグリッドを得た。
僅かずつではあるが着々と速さを増していくピローニに対し、ビルヌーブは例によってイチかバチかのドリフト走行をしていたために、今回はその賭けが外れた予選結果となったのだ。
決勝のスタートでは、ビルヌーブは「とてつもないスタートダッシュを見せてやる。これもイチかバチかの賭けだ」と意気込んで、猛烈な加速で他車の僅かな隙間をすり抜けていった。しかしスタートダッシュの途中でブルーノ・ジャコメリのアルファロメオのタイヤに乗り上げ、ハデに宙を舞って他車の頭上を飛び超えて、第1コーナー脇のバリアに突っ込んだ。
この結果ビルヌーブの126Cはフロントサスがメチャクチャに壊れてしまい、完全に走行不能となったために、彼はすぐにマシンを降りて第1コーナーを駆け足で横切ってピットに帰った。
観客はビルヌーブのハデな空中遊泳クラッシュを見て「フライング・ビルヌーブ」という愛称を付けた。後日のモータースポーツ雑誌でも、「スタートの後の“フライング”をしたビルヌーブ」という、彼が宙を舞ったことへの皮肉の見出しを付けた。今までのビルヌーブのレース戦歴におけるクラッシュの中で、ハデに宙を舞うシーンが多かったためであろう。
チームメイトのピローニも、自らのミスでパトリック・タンベイのリジェに接触してクラッシュし、同じくリタイアとなってしまった。フェラーリ勢は全滅という、散々なレースだった。
ピローニの自己中心的な行動(1981 イタリアGP)
以前にもピローニの人間的な問題について触れたが、ここイタリアGPでも、ピローニの自己中心的な行動が見られた。
ピローニは予選で、時速200キロを超えるスピードでクラッシュしてしまい、126Cを完全にスクラップにしてしまった。そしてピローニは、最初は普通に自分用のスペアカーに乗り込んで予選走行を再開した。
と、ここまではよかったのだが、ピローニのスペアカーは挙動がかなり不安定でマトモなラップタイムを出すことは難しそうだった。ここでピローニの自己中心的な性格が出てしまった。ピローニは再びピットに戻ると、なんとビルヌーブ用のスペアカーに乗り込んでピットアウトしてしまったのだ。チームのスタッフの言うことも聞かずに、ただ自分のスペアカーの調子が悪いからという理由だけで、ビルヌーブに無断でビルヌーブ用のスペアカーを使ってしまったのだ。
これには、さすがの冷静なビルヌーブも怒った。ビルヌーブの1台目のマシンは、予選中にターボトラブルを起こしてエンジンから白煙を噴きながらピットまで戻ってきたのだが、ビルヌーブは当然自分用のスペアカーを使って予選走行を再開するつもりだった。これが普通の道理である。ところがビルヌーブがピットに戻ってみると、彼用のスペアカーが無い。既にピローニが乗っていたからだ。こんなことをされては、ビルヌーブに限らず誰でも怒って当たり前である。
まして、ピローニがそういう不当な方法で予選8位を得て、スペアカーを奪われて指をくわえてピットでイライラしているしかなかったビルヌーブは、結果的にピローニよりも劣る予選9位という、極めて不本意なグリッドしか得られなかった。もしビルヌーブが彼用のスペアカーで予選走行を再開していれば、彼の予選順位は9位などというグリッドにはならなかったハズなのに、である。ビルヌーブはピローニの人間性に対して、更に疑惑を抱いていた。
決勝でもビルヌーブは126Cのターボトラブルに見舞われ、僅か数週でリタイアとなってしまった。
今回のピローニの自己中心的な行動は、まるで来シーズンのイタリア(サンマリノ)GPでの、例の「裏切り行為」を予想するかのようだった。
優勝にも等しいレース結果(1981 カナダGP)
今シーズンも、ビルヌーブの母国カナダでのGPがやってきた。それに前後して、来シーズンの1982年もビルヌーブはフェラーリチームに在籍することを表明し、記者会見でも正式に発表された。
ビルヌーブが契約を更新した大きな理由としては、今シーズンの途中から、あのハーベイ・ポストレスウェイト博士がシャシー開発スタッフとしてフェラーリチームに既に参入していたからだ。ハーベイ博士は126Cの改良版とも言える126C2というニューマシンの開発をかなりのところまで進めていた。
そして今までの各GPの合間に、開発中のニューマシン126C2のテスト走行が繰り返されてきた。テスト走行の結果は喜ばしいもので、126C2というマシンは現行の126Cと比べたら、改良版と言うにはいささか表現不足で、全く新しい、シャシー完成度の極めて高い別物のマシンだということが判明した。ハーベイ博士のシャシー開発能力は素晴らしいものだったのだ。
更に126C2用のエンジンの設計も進んでおり、よりパワフルなものとなっていたことも嬉しい事実だったのだ。「これならば来シーズンの我々は完全に低迷期から脱することができるだろう」とフェラーリチームの誰もが思った。
このように、126C2のシャシー性能とエンジン性能にはかなり期待できそうだったので、ビルヌーブは「来シーズンはとても条件が有利になる」と確信して、在籍契約の更新を決意したのだった。
さて、今回のカナダGPにはビルヌーブの弟ジャック(息子の名前もジャックだが、弟の名前もジャックだった。ちょっと紛らわしい)がアロウズに乗って参加していて、予選中、兄ジルのスリップストリームで弟ジャックは引っ張ってもらってなんとかタイムを上げようと頑張ったが、マシントラブルに悩まされ、弟ジャックは残念ながら予選落ちとなった。
兄ジルのほうのビルヌーブに話を戻そう。ビルヌーブは、予選のドリフト走行で126Cのサスペンションの不具合から大スピンをしてクラッシュしてしまい、スペアカーのセッティングに手間取って、予選を11位で終えた。
この時点では、地元のファンたちはビルヌーブの決勝レース結果には期待していなかった。くどいようだが、126Cというガラクタマシンで上位を狙うことはまず無理だと誰もが思ったからだった。しかし、やがてそのファンたちの沈んだ思いは覆されることになる。
雨があまりにも激しく降っていたために、決勝のスタートは1時間以上も遅れた。しかしこの雨はビルヌーブにとって何よりの救いだった。雨となるとグッドイヤー勢とのタイヤの性能差が殆ど出ないからである。
そして雨が少し弱まってきたので決勝はスタートとなった。他車たちが水煙の中をモタついて加速している最中にビルヌーブはスタートダッシュを決めた。ここまではよかったが、勢いがよすぎて、ルノーのアルヌーに追突してしまい、アルヌーはそのままコースアウトしてクラッシュしてしまう。
一方のビルヌーブのマシンは、フロントウイングがやや曲がり、アンダーステア気味になったにも関わらず、マシンを横向きにしてドリフト走行を続けた。
雨のおかげでグッドイヤー勢とのタイヤの性能差が無くなったために、ビルヌーブはどんどん追い上げ、レース序盤で早々に3位にまで浮上していた。11位のグリッドからなんと3位にまで追い上げてきたのだ。もちろんビルヌーブは3位で満足するような人間ではない。「優勝か無か」、ビルヌーブは懸命に飛ばした。
ところが前を走るエリオ・デ・アンジェリスがなぜか急ブレーキをかけたため、背後にピッタリ付いていたビルヌーブはエリオ・デ・アンジェリスにも追突してしまい、ただでさえ曲がっているフロントウイングがますます曲がって、更に風圧のためにフロントウイングは上を向いてしまった。
このままではビルヌーブに対してブラックフラッグ(故障・破損のためにピットインせよ、という命令のフラッグ)が出されるかもしれなかった。しかし「そんなことを考えているヒマはない」と、ビルヌーブは相変わらず全開走行を続けた。
ビルヌーブの気迫が幸いしたのか、ブラックフラッグが降られるよりも前に、完全に上を向いてしまった彼の126Cのフロントウイングは、風圧で自然に外れたのだ。これはブラックフラッグを免れたという意味でラッキーといえる。
というかビルヌーブは、「ブラックフラッグが出される前に、意図的にフロントウイングを脱落させてやる」と思って、わざとフロントウイングを各コーナー入り口の外側の壁にぶつけまくったのだった。風圧と同様に、この「フロントウイングぶつけ作戦」も効いたのだろう。ビルヌーブもなかなかに冷静な判断をしたものである。ブラックフラッグが出されれば当然強制的にピットインさせられ、フロントウイングを交換しなければならず、それはレースでの順位を強制的に下げられてしまうことを意味していたからだ。
フロントウイングが完全に無くなったためにフロントタイヤのグリップは極端に落ち、極度の、まさに悪魔的ともいえるアンダーステアにビルヌーブは苦しみながらも、全開走行をヤメなかった。やはり「どんなにマシンが損傷しても、走れる限りは走る」という彼の考えは変わらなかったのだ。
フロントとリアのグリップのバランスが極端に崩れているため、頼りになるのは彼特有のドリフト走行だけである。以前のレースにもあったことだが、「ウイングの損傷や脱落なんて眼中に無い!」と言わんばかりに、彼はゴールまで少しもスピードを緩めなかった。
こんなひどいスクラップ寸前の状態のマシンで、ビルヌーブはなんと3位でフィニッシュした。当然ながら、これには誰もが驚かされた。いくら雨でマシンやタイヤの性能差が出にくいとはいえ、シャシーグリップの貧弱な、しかもフロントウイングの無い126Cで3位とは、信じがたい結果である。
観客たちは「この3位という順位は優勝にも等しい!」と、1980年のカナダGPで発せられた言葉と同じ言葉を発した。ビルヌーブの尋常ならぬドライビングテクニックを見れば、まさにそのとおりである。
表彰台では、優勝したラフィーと2位のワトソン、そしてビルヌーブが登ったのだが、ラフィーとワトソンは口をそろえて言った。「ジルよ、この表彰台に登ってくるのがお前だとは全く思わなかった。あんなひどい状態のマシンで、よくここに登れたものだな。全くお前は、あんな状態のマシンでどう走ったら、この表彰台に登れるんだ? 本当にお前は凄い奴だよ。観客たちが言っているとおり、実質上の優勝者は、ジル、お前かもしれないな」。
来シーズンへの大いなる期待(1981 ラスベガスGP)
今シーズンの最終戦である、アメリカのラスベガスの公道を封鎖して作られたサーキットでのGP。これは「ラスベガスGP」という愛称で呼ばれた。とあるホテルの駐車場をコースの一部に使うというユニークなサーキットだ。
ビルヌーブの公道サーキットでの天才ぶりは相変わらずで、126Cを壊れるまでぶん回してやろうか、と思えるほどの過激な走りを見せ、予選では出来すぎといってもいい3位のグリッドを獲得した。
決勝レースのスタートでトップに躍り出ることを狙っていたビルヌーブは、その思いが強すぎて珍しく冷静さを欠いたのか、スターティンググリッドにマシンを停める際にミスってしまい、グリッドの正規のラインよりも僅かに前に出てしまった。このままレースはスタートとなって、ビルヌーブは2位争いや3位争いを繰り広げていた。しかしビルヌーブの頭の中には「グリッド位置のことでペナルティを課せられるんじゃないか?」というイヤな予感がしていた。彼自身も自分の起こしたミスは解っていて「やっちゃったなぁ…」と思いながらレースを走っていたのだ。
しかし皮肉なことに、競技委員会からペナルティの判断が下される前に、ビルヌーブのマシンは燃料系統のトラブルでコース脇にストップしてしまい、リタイアとなった。
その直後、「正しいグリッド位置に停めなかった」という理由で、ビルヌーブはF1キャリアで初めての「失格」というペナルティを競技委員会から受けることになった。なんともバツの悪い終わり方である。
こんなバツの悪い終わり方で1981年シーズンは幕を閉じたのだが、フェラーリチームは来シーズンへの大いなる期待に胸を躍らせていた。シャシー性能においてもエンジン性能においてもかなり完成度の高いニューマシン126C2、そしてタイヤの契約先をいよいよグッドイヤーに変更するということで、来シーズンのフェラーリチームはコンストラクターズ・チャンピォンまでをも狙えるかもしれない、というほどに、飛躍的なレベルアップの準備が出来ていた。これもハーベイ博士の参入とエンジン設計者の勤勉さ、そして淡々と126C2のテスト走行を続けてきたドライバー、ビルヌーブとピローニの努力によるものだ。
来シーズンの126C2に与えられるカーナンバーは、今シーズンと同じで、ビルヌーブが27番、ピローニが28番である。やはり来シーズンのビルヌーブのチームメイトは同じくピローニであり、ピローニはナンバー2ドライバーとして扱われるのだ。
ピローニは今まで時々やってきた自己中心的な行動を反省して、ビルヌーブに対して、「ジル、あの時はすまなかった。僕はナンバー2ドライバーなのにワガママだったんだ」と謝った。それによってビルヌーブはピローニの今までの行動を許し、「ディディエ、君だって僕と同様にレースへの執念に燃えている男だ。時々ワガママになっても仕方が無いよ。その代わり僕も時々ワガママになるかもしれないから、お互いにワガママは程々にして気をつけよう。ボスから“前代未聞の手に余るワガママコンビ”なんて言われたくないからね」と、冗談半分で返事をした。これによって二人のギクシャクしていた今までの間柄は解消されることになった。ビルヌーブとピローニは仲直りしたのだ。
ピローニは、ビルヌ−ブの人間性に心を打たれ、「ジルは天才ドライバーであるだけじゃない。ジルはとても率直でフェアで純粋な人間だ。こんないい奴をチームメイトに持ててよかった。今後は自己中心的な行動は控えよう。レースでもできるだけジルを援護するようにしよう。僕はナンバー2ドライバーとして、もっと謙虚にならなければいけない」と心に決めたのだった。
ピローニと仲直りしたことにより、ビルヌーブは気持ちがスッキリして、来シーズンのレース展開を思い描くことだけに集中することができたのである。
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