◇夢幻界(幽界)へ◇


※このページにおいて、所々断定口調になっている部分がありますけど、断定口調のほうが伝わりやすいからそうしているだけであって、妄信しているわけではありません。霊界に行って見聞きしてきたわけではないですし、様々な霊界通信の書籍などから私なりに解釈して個人的な意見を書いているだけですから、私の断定口調を鵜呑みにしないで、ご自分でご判断をお願いします。


中間境で幽体のバイブレーションの調整を終えた霊は、いよいよ最初の居住地、夢幻界(またの名を幽界)に行きます。この夢幻界に行く時には、死んだ本人は言わば「新米の霊」ということになりますが、新米の霊は大抵、案内役のガイド霊に連れられて夢幻界に行くことになります。ガイド霊は死んだばかりの新米の霊に、夢幻界の構造や生活様式や、時には住む家のことまで手配してくれます。家を建てる時には、人間界と同じく建築家の霊がたくさん居て、意念のチカラで家を作り上げるのです。

ただし、夢幻界でも真ん中辺りから下の界層では、まだ意念のチカラを発揮するまでに魂のレベルが上がっていないので、人間界と同じように手作業で仕事をやっていることもあります。「500に及ぶあの世からの現地報告」では、そういう霊が手作業でレンガを積んで家を建てていたそうです。それでも肉体的な疲れは全く感じないので、体を使う仕事でも頭を使う仕事でもなんでも、好きなだけできます。

また、意念のチカラだけで仕事をできる界層に住んでいたとしても、その人が希望すればあえて手作業で仕事ができるそうです。考えてみればアタリマエですね。高いスキルを持っているベテランの仕事人が初心者用の仕事をするようなものですから。

霊界での仕事は基本的に「低い界層に沈んでいる霊を助けるか、地上人を助ける」ことらしいんですけど、それだけが仕事じゃなくて、生前の趣味の延長としての仕事も思う存分できるそうです。

ハナシを建築家に戻して、それでも建築家は家を建てた報酬は要求してきません。彼らは他人に喜んでもらうことによって、自分たちの建築家としての仕事が一層楽しいものになるからで、楽しい気持ちにさせてくれたことが報酬の代わりになるんですね。つまり、お互いに喜び合うことが夢幻界を含めた霊界での幸福らしいです。死んだらもはやお金は何の意味もなくなるんですから。

この夢幻界に入ってきた霊は、ガイド霊の他に、以前死んだ肉親や親族や友人や恋人など、もう一度会いたいと思っていた人たちに会うことができます。「あの人に会いたい」と思えばその思いが直ちに実現して、感激の再会となります。相手は新米の霊のことを夢幻界からずっと見守ってくれていて、この夢幻界に入ってくるのを待っているんです。また、たとえ相手が夢幻界より上の世界に住んでいたとしても、一時的に夢幻界に降りてきてくれて、会うことができます。人間が死ぬ時、周りの人たちに向かって「今度会う時はあの世で会おうね」と本能的に言ったりするのは、間違っていないんです。その通りなんですよね。

でも、相手が「あの人には絶対会いたくない」と思っていれば、再会は果たせません。逆に言うと、仲が悪かった人とはまず会うことはないんです。そういう意味では安心です。

この夢幻界の様相は、人間界と実によく似ています。町並みや住宅、公園や施設、自然の様子など、ほとんどそっくりといっていいくらいです。それらが人間界のものよりもずっと美しく輝いています。ただし、車やバイクや電車や飛行機などの乗り物はありません(低い界層にはあるようですけど)。霊界全体においては、心に思うだけでその場所に瞬間移動できるので、乗り物は必要ないんです。

夢幻界では、自分の好きな服を選ぶことができます。いろんな霊界通信を読んでいると、霊が着ている服は、その霊が人間界で生きていた頃に流行っていた服が多いみたいです。やっぱり自分が生きていた頃に着ていた服がいちばん落ち着くんでしょうね。

夢幻界というか霊界全体においては、動物も存在します。どんなに獰猛だった動物もここでは非常におとなしく、人間に慣れています。動物たちはとてものびのびと平和に暮らしていて、動物同士の争いもありませんし、弱肉強食の殺し合いもありません。エネルギーなら霊界の大気から摂取できるからです。

ちなみに、不快な生き物いわゆる下等動物はここには存在しません。そうしたものは中間境の極めて低いバイブレーションの世界の中にしか存在しないようです。

ここ夢幻界では、思ったことが全てかなう世界で、家などは建築家たちに頼んで建ててもらうんですけど、その他に、あれが欲しいこれが欲しいと思ったら、直後にそれが目の前に現れます。食べ物でも服でも趣味の道具でも何でも瞬時に目の前に出てきます。

美食家はいくらでも世界最高級の料理を食べられるし、守銭奴はいくらでもお金を貯められるし、セックス好きな人はすぐに同じような欲望を持っている相手が見つかります。欲望を満たすためにはもってこいの世界なんですね。

でも、いくら美味しいものを食べても、いくらお金を貯めても、いくらセックスに明け暮れても、やがては飽きてきます。何しろなんの努力もなしに欲望が満たされるので、このお手軽な楽園に対して逆にウンザリしてくるようになります。あまりにも簡単に願いがかなってしまうので拍子抜けして、ありがたみも感じなくなり、もっと別の刺激を欲しがり、自分で努力して何かを得ようとするようになるそうです。その時が、向上心の芽生えた時なんですね。

いえ別に、欲望だけに限りません。ただ池のほとりに座って静かに水面を眺めている、とにかくのんびりとくつろいでいる、そんな霊も居ます。だけどその霊も、そういう何の変化も刺激もない状態にやがてウンザリしてきて、向上心が芽生えるらしいんですよね。

ただ、いつまでも同じ状態にとどまっている霊も多いそうです。パラノ的な楽しみに幸せを感じるとでもいいましょうか、いつまでも変わらない楽しみを続けている霊も多く、そのために、何十年、何百年もその状態から進歩していない霊も居るそうです。決してそれはいけないことではありません。夢幻界を含めた霊界には、法律も規則もないし、基本的には本人の自由意志に全て任されているからです。

夢幻界では、人間界にあるほとんどの娯楽が楽しめます。音楽、楽器の演奏、その他の芸術、読書、映画、演劇、コンサート、各種のスポーツなどなど、他にもたくさんあって数え切れません。ただ狩猟など動物の生命を奪う娯楽は禁止されています。要するに動物や人の生命を奪うような娯楽以外ならなんでも楽しめるということです。

加えて言うと、音楽や絵画や演劇などの芸術的な娯楽は、もともとは(広義の)霊界のものだそうです。ですから芸術関係の娯楽や仕事をしたいと思えば、夢幻界では大変喜ばれます。

ここ夢幻界では老衰がなくて、大半の人々は青春時代の容姿になって若返るそうです。また、生前に憧れていた顔かたちやプロポーションがあれば、それが実現するそうです。

生前に高い名誉と地位を持っていて、更に財産も豊富に持っていたという霊の場合は、夢幻界においては大抵、その名誉欲と地位欲と財産欲を捨てられずに、常に他人を蹴落とそうとしたり、他人の物を奪ったりすることが多いそうです。そういう心の状態では、夢幻界では欲望を満たすことができても、霊的なレベルは相当低い霊になってしまっています。ゆえに夢幻界の中でも下のほうの界層にしか住むことができません。人間界で培ってしまった歪んだプライドが足かせとなって、上の界層に登れないのです。そういうプライドを全てかなぐり捨てて、やっと夢幻界の中間部あたりの界層に住むことができるようになるそうです。

また、人間界ではエリートと呼ばれていても、相当歪んだ価値観を持っている人物も居ます。「この世の中は一部のエリート人間だけが動かしていて、他の大多数の人間たちはクズ同然だから、そういうクズ連中はエリート人間の奴隷になって働いて、働きづめで死ねばいい」と本気で思い込んでいる人物が実際に居るのだそうですから驚きです。そういう極めて歪んだ価値観の人物が、ネットにおいてもリアルにおいても、「バカは死ね」などという無責任で冷酷極まる発言を堂々とするのでしょう。そういう人物の霊性がいかに低いか、いかに野獣的な心を持っているか、いかに愛が無いか、これは誰でも理解できますよね。外見や結果だけで判断する、盲目的なエリート思考というのは、全く愛に欠けていて、ロクな人間性を作りません。愛に溢れていて謙虚に学ぶ姿勢のエリート思考ならばいいのですけど…。

また、エリートに限らず、学校や職場などでイジメやパワハラなどを面白がってやっている・傍観して楽しんでいるような人間は、やはり上の盲目的なエリート志向の人物と同じく、極めて幼稚な精神レベルの人間だということが解ります。エリートであれその正反対であれ、どういう社会的地位にあっても、残虐性があることには変わりないからです。当然彼らも「バカは死ね」などという無責任で残酷な言葉を平気で使います。

マイヤースは、「残酷な心・残虐性の強い人間は、心の奥深くに食い入った変態で、己の魂を著しく傷つける」と言っています。残虐性を持った人間というのは、他人の心を傷つけているだけではなく、自分で自分の魂を著しく傷つけているワケです。それが自らの霊性を大きく下げて、死後の悲惨な行き先を自分で決めてしまうことにも気づかずに…。そういう人には、本当に霊的真理に目覚めて欲しいと思います。

人間は死ねば、もう名誉も地位も財産も関係ありません。一番…というか唯一の大事な財産といえば、幼な子のような「無垢な心」だけなんですね。その霊がどれだけ無垢な心を持っているかによって、夢幻界での居住地=界層が決まります。無垢であればあるほど、優しさやいたわりの気持ちを持っていればいるほど、夢幻界では上の界層に住めるようになります。

上の界層になればなるほど、回りの人々は親切で優しく暖かく接してきてくれます。争いごともなく、辺りの景色は信じられないほどに美しく、草花などはそれ自身が光り輝いているそうです。川や湖などの水は信じられないくらいに綺麗で透き通っていて、更に、水に入っても体や服が濡れることはありません。素晴らしいことですよね。できるだけ上の界層に住みたい、と誰もが思うのではないでしょうか。

かつて人間界で社会生活をしていて、他人を蹴落としてまでして競争に勝って昇進・出世して、果ては大金持ちとなって大邸宅をかまえ、有り余るほどの財産を持っていた人。そしてその有り余る財産を(募金などの方法で)他人のために全く使わなかった人。そういう人は夢幻界では悲劇です。夢幻界のかなり下の界層にしか住めないんですから。上の界層に登りたいと思っても、今まで培ってきた貪欲な心が足かせとなって登れないのです。

「登れない」ということを詳しく言うと、「上層界からのお迎えの霊が来てくれない」ということです。本人が貪欲な心を本当に捨てて、今までの地位や財産などが全く無意味だということを心の底から悟らないと、上層界の霊はお迎えに来てくれません。死後の世界では、お互いに相手の思っていること・考えていることが全てお見通しなので、いくら上辺の言葉や態度だけで悟ったフリをしてもムダなんですよね。バレバレなんです。ここが人間界と決定的に違うところでもあります。ある意味怖いですよね。

また、イエスの言葉に、「あの世では、先なる者が後になり、後なる者が先になること多し」という言葉があります。金銭欲や地位欲や名誉欲などが強いほど、そしてその結果お金持ちになって社会的地位にしがみついている人ほど、人間界では成功者で「先なる者」として評価されるんでしょうけど、霊界に行ったら正反対の「後なる者」という評価を受けて、とても低い界層にしか住めないのだそうです。それに対して、金銭欲も地位欲も名誉欲もほとんど持っていなくて、社会的地位などどうでもいいという風に「心から」達観できている人は、人間界では「後なる者」と見られて全く評価されませんけど、霊界に行ったら高い評価を受けて、「先なる者」として高い界層に住めます。それだけ心が欲で汚れていないからです。イエスは、それを言いたかったのです。

かといって、たとえ生前の社会的地位は低くて貧乏で、一見霊界で「先なる者が後になり後なる者が先になる」ごとく祝福されそうな環境に見えたとしても、その人がひねくれた性格で、学校や会社でイジメをやっていたり、人を平気で傷つけるような人間だったとしたら、夢幻界のかなり下の地獄的な界層にしか住めません。これは考えるまでも無いことで、それだけ心が汚れているから、そういう極めて低い界層にしか住めないんです。イジメをやる人や人を傷つけることを何とも思わない人は、まず死後の世界なんて信じていませんし、神様を信じる心も持っていないので、霊界の法則によって自動的にそういう結果になるのです。霊界では「愛」の多さだけが結果に直結する、そういうシステムになっているので、その人がどんなに否定しても抵抗してもムダな足掻きなのです。

欲も汚れもない無垢な心に少しでも近づくように努力しないと、いつまで経っても上層界からのお迎えは来てくれません。霊界全体の秩序・構造として、上層界から下層界へは赴いて行けても、下層界から上層界へは、お迎え無しでは絶対に登れない、というのが霊界全体の構造なんですよ。

生きていて何が厄介かって、自分の心ほど厄介なものはありません。ついつい「ラクをしたい」と思ったり、ウソをついたり、けんかしたり、そういう悪感情を持ってしまうことは誰にでもありますよね。私も悪感情を持ってしまうことはもちろんあります。これじゃいけないと思いつつも、ついつい、と。

で、そういう悪感情、特に怒りや憎しみの感情は、そのままブーメランとなって自分に必ず返ってきます。他人に罵声を浴びせて傷つけた人も、バカにされて傷ついたところまではいいけど相手に対して怒りや憎しみの感情を抱いてしまった人も、やっぱり自分が発したマイナスのエネルギーは自分に返ってきて、いちばん解りやすい例ですと体調を崩します。私は、霊界研究を始めるよりもだいぶ昔、「人生を台無しにされた」という理由から、ある人物を心底憎んで恨んでいた時期がありました。でもそのマイナスのエネルギーは最終的には自分に返ってきて、体調を激しく崩して、とうとう寝たきりになってしまったこともありました。それからです、「どういう理由があろうと、人を憎んだり恨んだりするのは良くないことだ」と思うようになったのは。だって体調を崩して苦しい思いをするのは自分自身ですから、怖いじゃないですか。傷つけられるからには、必ず何かしらの理由があると思うんです。その理由を見つけ出せば、問題は解決するし霊的にも成長できるんですよね。

で、その悪感情のブーメランが返ってくるタイミングは、常に霊界のことを意識している人ほど早いような気がします。悪感情を抱いたら即座に何かしらの形で返ってくるカンジです(←私今ここ!)。先日なんて、無意識に悪感情を抱いてしまって即座に体調を崩しましたもん。たぶん、その人にとって一番解りやすいタイミングで「いつまでも悪感情を抱いていては成長できないよ」というメッセージをくれるんだと思います。

霊界全体は精神世界。心の状態がそのまま回りの環境を作ってしまい、その環境がその霊の住む界層となるのです。つまり、エンマ大王様なんてものは居ません。最後の審判もありませんし、ガブリエルのラッパもありません。ただただ、本人の心が自ら作り上げた環境が出来上がるだけなんですね。天国に行くとか地獄に落ちるとかいう表現は単なる比喩で、「あんた天国行き」とか「あんたは地獄行き」とか言って裁く人物なんて誰もいなくて、本人が自分で自分を裁くことになるんです。

翼を持った天使というのも居ません。悪魔の象徴であるサタンも居ません。ですから天使とサタンの戦いも存在しません。

霊界の高級霊(シルバーバーチなど)から言わせれば、人間界においてのキリスト教、仏教、イスラム教、ヒンズー教その他たくさん存在する宗教の教えは「ことごとく失格」だそうです。人間界に存在する全ての宗教が失格ということです。教えの内容があまりにも霊界の現実と違っているからだそうです。更に、キリスト教で崇拝されているナザレのイエス(イエス・キリスト)は、人間界へのスピリチュアリズム普及プロジェクトの総指揮官を務めているらしいです。キリスト教徒の人たちがこれを知ったら、相当驚くことでしょう。

なぜ全世界で最も信者の多いキリスト教の内容までもが失格なのか。その理由ですが、イエスが人間界に生存していた時に説いた教えの本当の意味は、「人間は基本的に霊であるのだから、霊界の秩序に基づいて、私のような霊的な生き方をしなさい。私は霊的な生き方の手本だから私の生き方を見習うようにしなさい。そうすれば霊界に帰った時に、より高い界層に住めるようになって幸福になれる」という意味だったからです。

そのイエスの教えを、後世の人々が主に政治的な目的で曲解・捏造してしまい、聖書の内容まで捏造してしまい、「キリスト教の教えを信じない者は地獄に落ちる。だから信じればそれだけで天国に行ける」などということを広めてしまったからです。イエス本人はそんなことは一言も言っていません。

イエスは霊界の構造と秩序、そして人間界での正しい生き方を教えた、単なる人間でした。「水の上を歩いた」とか「死後に復活して弟子たちの前に現れた」などの奇跡を起こした唯一の人物とキリスト教では言われていますが、奇跡を起こした唯一の人物というのは間違いです。ただ単に、霊能力がずば抜けていたというだけのことです。水の上を歩くのは、極めて高度な霊能者ならば簡単にできることですし、実際にそれができる霊能者は現代に至るまでにも多数存在しているそうです。復活して弟子たちの前に現れたというのは、単なる死後の霊の物質化現象に過ぎません。交霊会などで霊媒のエクトプラズムを使って霊が物質化することと同じで、イエスの復活現象は、霊的観点から見れば全然珍しくもありません。

イエスが優れていたのは、ずば抜けた霊能力を持っていたこと、そして、生き様がどこまでも霊界の秩序にのっとっていたこと、これに尽きます。イエスが教えたかったのは霊界のことだったのです。結局、悪いのは、イエスの教えを曲解し、聖書の内容を捏造した後世の人々だったんですね。

ちなみに私は、今まで宗教に入ったことは一度もありませんし、今後入るつもりもありません。霊界研究のサークルに一時期入っていたことはありますけどね。でも宗教となると一切興味が無いんですよ。

というわけで、天国や地獄というのはあくまでも自分自身が作り上げる環境に過ぎないんです。人間界で例えるなら、無垢な心を持った人が幸せで裕福な生活を保障されて、無垢な心から遠い人ほど貧乏で不幸の多い生活を余儀なくされる、とでもいいましょうか。

話は戻って、夢幻界の別の呼び方について。夢幻界の別の呼び方には、幽界、サマーランド、ブルーアイランド、ロートス・フラワー・パラダイス、など様々なものがあります。でもみんな意味は同じです。呼び方が違うだけで、楽園という意味ではどれも同じなんですね。

「幽界」という呼び方の説明は省略します。

「サマーランド」という呼び方はそのまま「夏の世界」というような意味です。日本では夏といえば暑くて不快指数の高い季節ですが、スピリチュアリズムの発祥の地であるイギリスでは夏といえばとても快適で過ごしやすい季節です。日本でいえば春や秋のあの心地いいかんじと思ってください。それでイギリスでは、とても快適で過ごしやすい季節がずっと続く世界という意味で「サマーランド」と呼ばれ始めたそうです。つまり夢幻界では暑さや寒さは感じず、ちょうど心地よい気温や湿度が続くということです。この心地よさは上の世界であるエイドスの世界や(狭義の)霊界においても同じです。

「ブルーアイランド」という呼び方は、ここ夢幻界全体が、うっすらと青みがかっているからだそうです。その薄〜い青がとても美しく輝いているので「ブルーアイランド」と呼ばれ始めたそうです。

「ロートス・フラワー・パラダイス」という呼び方は、エジプトの睡蓮ロートス・フラワーが語源で、ただただ静かに、穏やかな波に揺られている睡蓮をリラックスした気持ちでずうっと眺めている、というイメージです。何もしなくていい、ただ目の前にある美しく静かな睡蓮の流れる様を眺めてリラックスしていればいい、それほどまでに何の苦労も要らない世界という意味で、苦労のない静かなパラダイスというイメージなんですね。

このように呼び方はいろいろありますが、夢幻界は楽園と考えられているようです。

ただし、夢幻界でもだいぶ下のほうの界層は、お世辞にも楽園とは言いがたいものです。レベルの低い界層だけに、環境があまり良くないんですよ。霊界での空気は、目に見えないエーテル質の流動体のようなものなんですけど、その空気は濁っていて、自然の景色はあまり美しくはなく、チリやホコリも多く、人々の争いごとも多いです。夢幻界の最下部の界層ともなると空は真っ暗で、苦しみに悶えながら生活している霊がたくさん居て、浮遊霊や自縛霊もそこに居ます。つまり人間界にもっとも近い、バイブレーションの極めて低い界層です。私たちが幽霊を見たとか金縛りにあったとかいうのは、この夢幻界の最下層部の霊たちが働きかけているわけなんですね。これでは夢幻界の最下層部は楽園には程遠い、俗に言う「地獄界」と言ってもいいくらいの環境の悪さです。

ですから、たぶん夢幻界の最上部が、楽園と呼ぶにふさわしい世界なんだと思います。私が持っている霊界通信の書籍群に載っている内容は、通信を送ってくるほとんどの霊が夢幻界の割と上の界層に住んでいるらしいですから、私たち人間は「夢幻界=楽園」と考えてしまいがちです。でも下のほうの界層は先述のとおりで、実際には下のほうの界層に住んでいる霊もたくさん居るわけです。下のほうには行きたくはないですね。最低でも夢幻界の真ん中くらいの界層には行きたいものです。

結論として、楽園のような世界という意味で、サマーランド、ブルーアイランド、ロートス・フラワー・パラダイスの位置付けは、夢幻界の上層部を示すと思って間違いないでしょうね。下の表のようなかんじでしょうね。

夢幻界(幽界)

上層部

一番環境のいい楽園。

中層部

一応楽園だが、環境がやや悪い。

下層部

環境が極めて悪く、まるで地獄界。

私は果たして夢幻界のどこら辺の界層に行けるのかな〜? 無垢な心をあまり持っていないので現時点ではちょっと自信ないです。

人間界での苦しみは魂の成長のためには必要なことではあるんですけど、大事なのは苦しみそのものではなくて、その時の心のあり方です。苦しみを憎みながらイヤイヤながら受け入れるのではなく、幼な子のような無垢な心になって、神や守護霊を信じて苦しみを受け入れることが大事なんですよね。スピリチュアリズムの一部の書籍では「苦しめば苦しむほど魂の成長が為される」という一説がありますけど、それよりも、イエスの言葉「汝ら心を入れ替えて幼な子のごとくならずんば、神の国へ入るを得ず」や、シルバーバーチの言葉「愛することしか知らないから愛するまでです」や、ジュリアの言葉「神は愛、そして愛は神です。愛せよ、愛せよ、愛に生きよ」、これらの言葉のほうが最も大きい霊的真理を語っていると思います。要するに、魂の成長を為すには苦しみも大事だけど、それよりも無垢な心と愛が絶対必要だということが解ります。

思うんですけど、低級霊や高級霊が居るなら、その間の「中級霊」というのもあってもいいんじゃないでしょうか。特別悪人でもなく善人でもない、ごく普通の精神を持った人のことを中級霊と呼んでもいいと思います。私たちの大半が中級霊なんじゃないでしょうかね?

ちなみに、夢幻界の最下層部に居る未熟な霊=低級霊は、人間として最低限の道を歩みなおすために、再び人間界へ再生することも非常に多いそうです。また、再生とまではいかなくても、霊性の高い先祖が居る家の人の背後霊の一人に低級霊がなって、その低級霊に修行をさせることも実に多いそうです。背後霊は複数居て、霊性の高い霊も中くらいの霊も低い霊も居るそうで、背後霊たちも一人一人自分のカルマを持っているし、霊性を上げるために修行をしているらしいです。ちなみに私の部屋には「チッ!」という人間の舌打ちのようなラップ音をしつこく出す低級霊が居て、もう20年くらい住み着いているんですけど、そうするとその低級霊は私の背後霊の一人で修行中なんでしょうか? 私は霊性なんて全然高くないし、他人に修行をさせるなんていう身分じゃないですけど、先祖に霊性の高い人が居るのかもしれませんね。うん、私は偉くない。

ところで、この夢幻界に入ってからは、というよりも霊界全体においては、行きたいと思う場所があれば、その場所のことを思い浮かべて念じるだけで、一瞬でその目的地に瞬間移動できます。テレポート能力と同じですね。もちろん目的地には歩いても行けますし、空を飛んでも行けます。それから、重さというものが存在しないので、重たそうに見える物でも軽々と持ち上げることができます。

既に肉体が無いのですから疲れを感じません(精神的な疲れは感じるんですが、しばらく瞑想するだけで精神的な疲れが取れます)。それから素晴らしいことに、身体障害者の人が亡くなって幽体としての存在になれば、体の障害は完全に消えるんです(幽体自体は元々全く障害が無いので)。それから食べる必要も眠る必用もありません。食べ物でも物でも何でも、念じるだけですぐに目の前に現れます。その現れた物体は霊界のエーテル質の素材から作られたもので、その人がその物を必要だと思っている限りはそこに存在し続けます。その人が必要ないと思ったらすぐに目の前から消え去ります。つまり何の奮闘努力も要らないんです。

このように夢幻界では、人間界での欲望や願望を思う存分叶えてあげて、それに満足したら、つまり奮闘努力が全く要らない状態に飽き飽きして、その人自身がウンザリして「もっと向上心を持って奮闘努力をしなければ!」と思えば、更に上の界層に行けるというわけなんですね。これも、その人自らが向上心を持つまでは人間界での欲望や願望を叶えてあげるという、神の配慮なんだそうです。つまり、「人間界での欲望や願望は、霊界の真理においては的外れのものだった」と悟らせるわけなんです。こうして霊は強制的にではなく、自発的に向上心を持つようになります。

雑記に書いたことをこっちにも載せます。いろいろ皆さんの参考になると思うので。

2015/05/01(雑記)

大昔からずっとなんだけど、うーむ、こうしてタイピングしてるとラップ音鳴りまくり。人間の舌打ち「チッ!」って音とほとんど同じ。

私の住んでるところは、交通量の多い交差点の角っこなんだけど、その交差点、昔からやたらと事故が多くて、死亡事故もあった。いわゆる悪霊たちが巣くっている「魔の交差点」なんじゃないかな。でも何十年もその状態で自縛霊になったまま地上付近をうろついてるなんて、なんだか悲しすぎる・・・ 本人たちが自ら目覚めない限りは、たとえ霊界の高級霊といえども手が出せないらしいから、ほうっておくしかないらしい。

その交差点近辺の住人は、悪霊たちの影響で、悪の素質のあるであろう人は本当に極悪になっちゃってるようだし、そういう風に、人間は常に地上付近の悪霊から悪い影響を受けているらしい。基本的に地上付近に居るのは悪霊か、この世に未練を残した浮遊霊だけなので、人間は悪い感情・マイナスの感情を持たないように、よくよく気をつけなければならないと思う。

これが既に成仏してきちんと幽界や霊界に行った誠実な霊ならば、今度は逆に、ある程度高い世界から地上に向けて良い影響を与えようと働きかけてきてるらしい。だから人間は、悪霊と善霊の影響を常に受けている。悪感情と善感情、どっちに同調するかは本人の魂次第ってことになる。

いずれにせよ、交差点に巣くっている悪霊たちがいつか成仏して、あと私の背後で何十年もラップを鳴らしてくる霊も成仏して、カルマの清算のために再生して一からやり直すとか、とにかく少しでも魂が向上してほしいな。

私は私で頑張ります。ああ、幼な子のように思いっきり無邪気な気持ちになって、人を好きになりたい。困っている人を助けてあげたい。そんな気持ちでいっぱい。

この交差点に居るのは、幽界の最下層部か中間境でさまよっている霊たちでしょうね。地上に最も近い世界だから、幽霊とか金縛りとかっていうのは、そういうレベルの低い悪感情を持った霊たちが働きかけているので、いきおい霊の姿や雰囲気も怖いものになっちゃうんですよ。よくテレビとかでやってる心霊特集で「霊=全て怖いもの」という一部の間違った認識を改めてほしいものです。ほとんどの霊は全然怖くないどころか、優しさと愛でいっぱいですもん。悪感情を持っていて更に地上付近でさまよっている霊だけが怖いんですよ。

要するに、地上と同じなんです。悪意を持った人間は霊になっても悔い改めない限りは悪人だし、善意を持った人間は霊になってもそのまんま善人なんです。霊になっても人格なんてこれっぽっちも変わりはしません。ただ肉体が滅んだだけで、人格は生きていた時とまるで変わらないんですよ。

ついでに言うと、生前の丹波さんが、「昔から『バカは死ななきゃ治らない』といわれているが、死んだからといって悪人がすぐに聖人君子になるわけじゃない。その意味で、バカは死んでもバカだ」って言ってました。言い方はキツイけど、あらゆる意味でそのとおりだよなーと思います。

だから尚更、生きているうちに霊界の秩序や法則を知っておいたほうがいいんです。そのほうが本人の幸せのために一番いいんですよ。霊界では、他界してきた霊たちが霊的真理を知ってからみんな口をそろえて言うことは、「生きているうちに霊界の勉強をしていれば、死んでからここまでひどい世界に来ずに済んだのに。無意味な人生を送ってしまって激しく後悔している」だそうですから。


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