◇「インペレーターの霊訓(全2巻)」から◇


※今までの断定口調を修正しました。もちろん長年の研究の結果、神様や霊界の存在は100%信じていますし、公言して、はばかりません。ですからその意味では断定口調のままでもよかったのかもしれませんけど、こんな未熟な魂の自分がエラソーに見えちゃうの恥ずかしいから、やっぱしここは分相応に、「〜らしいです」「〜だそうです」とかの、「〜って偉い人が言ってた」表現に変えています。上から目線とか教条的とかにだけは、絶対になりたくないので。

要するに、私は霊的真理を教える側じゃなくて、どこまでも「教わる側」のヒヨッコ魂なので、自戒を込めて、自分に強く言い聞かせるつもりで書いています。


「インペレーターの霊訓(全2巻)」から、霊的真理をピックアップしていきます。原文はこちら。その1 その2

博愛主義者と哲学者について。真の博愛主義者とは、自分のことは後回しにして、ひたすら他人のことを思いやる・他人のために尽くす人のことなんだそうです。また、真の哲学者とは、先入観や固定観念や偏見なしに、真理と証明されたものは、それまでの自分の哲学を曲げてでも受け入れる、どこまでも純粋な真理探究者のことらしいです。そういう素直な潔さって素敵ですよね。

報復することの愚かさについて。たとえ誰かから傷つけられても、報復することは同じレベルの人間ということになるので、そんな時こそ愛と慈悲を持って自分の心を制御するべきなんだそうです。愛と慈悲こそ、報復的手段に勝る叡智は無いのだそうです。

霊媒が発狂することについて。高級霊が送ってくる霊界通信では霊媒の身も心も高級霊に守られているので心配はないんですけど、危険なのは霊媒に低級霊が憑依した場合で、最悪の場合は霊媒は身も心も低級霊に無理やり乗っ取られて発狂することがあるらしいです。それをスピリチュアリズム普及団体の高級霊のせいにするのは、おかど違いというものなのでしょうね。

魂の成長の手段について。人間界に再生することだけが成長のための唯一の手段では無いのだそうです。霊界には数多くの教育施設があり、そこでも霊的真理をいくらでも学ぶことができ、魂の成長も為されるそうです。しかも再生だけが普通一般のことでもなく、むしろ霊界において魂の成長を為すことのほうが多いらしいですから、かなり気長に気楽に生きていっていいんでしょうね。この情報には本当に救われる気分になりました。

更にインペレーターによれば、
「魂の本来の故郷である霊界での霊的人生は文字通り永遠であり、その永遠の霊的人生の、ほんの初期の段階にのみ地上人生はある。すなわち、魂の永遠の旅路はまず幾度か続く地上人生から始まり、やがてそれが終われば(解脱すれば)、あとは霊界でのみの生活になり、地上とは比較にならないほどの精妙さ・緻密さを伴って永遠の修行が始まる。これこそが本当の意味での修行の始まりなのである」
とあります。これは凄いことです。
地上人生にしか目に入っていない大多数の現代人は、この言葉を深く深く心に刻み込まなければならないんだそうです。

言うなれば地上人生は、たとえばF1レースの周回数が無制限で全マシンがリアイアするまで永遠に行われる(地上ではあり得ませんが)という場合、地上人生は最初の1周程度の規模しかないことになりますね。
あるいは海にたとえるなら、地上人生は砂浜の部分で、その先の広大なる海が解脱後の永遠の霊界での霊的人生である、とでもいいましょうか。そんなかんじだと思います。

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↑これについて、ちょっと個人的な意見を言わせてください。

だからいつまでも地上生活や物質への未練や執着を抱いていては、なかなかその先の霊界での永遠の霊的人生での修行が進まなくなってしまう。
私はこの観念を、霊界研究を始めた18年前からずーーーっと抱いています。だからこそ毎度毎度、
「来世に期待とかいう人も多いけど、それは地上人生のみを基準に考えている証拠であって、霊界での本当の人生を意識しまくれば来世に期待とか絶対に言えなくなる。だからこそ私は早く解脱して永遠の霊的人生に移りたい」
って思い続けています。だから物欲も最低限しか持っていないつもりです。
解脱したあとの霊界での永遠の人生こそが、人間にとっての本当の人生の始まり。これが私の信念です。

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本題に戻りましょう。

人間の義務について。神を愛し敬うこと、同胞の魂の成長の手助けをすること、体を大切にすること、できるだけ多くの霊的な知識を得ること、より深い霊的真理を探究すること、善行に励むこと、祈りと精神統一によって守護霊や背後霊たちとの親交を深めること、以上、これらが理想的な義務の遂行といえるのだそうです。

キリスト教の間違った教義について。何度も書いていることですけど、死の直前の信仰の告白による救いや、神の国で永遠に賛美歌を歌い続けることや、その他の霊は永遠の火刑に処せられるなど、どれもデタラメらしいです。神はそんな心の狭い残酷な存在ではないそうで、誰一人として神から見放されることはないどころか常に全員が神から愛されているらしいです。このことを覚えておけば絶望することもなくなるでしょう。

真の意味の天国について。真の意味の天国とは、神の周りで永遠に賛美歌を歌い続けるというような退屈きわまる無活動の世界ではなく、常に自分の魂の向上進化に目を向けて、他人を愛し、心が一歩一歩高級霊に近づいていく世界、純粋と進歩と愛にいそしむ世界、これが真の意味の天国であると本書では書かれています。人間的な欲望や感情や願望などはカケラもないんだそうで。願望を抱いているという意味で私はまだまだ未熟ですけど。

「無知は罪である」という言葉について。よく知識人が「無知は罪である」と言いますけど、無知はわざとでなければ決して罪ではないそうです。知識人を名乗る人ほど、霊的真理を知らないことが多いらしいです。人間は基本的に霊なんですから、最も大切な知識は霊界の実情と霊的真理なんだそうです。その知識をわざと得ようとしないことが罪になるそうで。人間界でしか通用しない知識は、知らなくても全く罪ではないそうです

知的な人間について。ほどほどに知的な人間はいいんですけど、あまりにも知識と理屈ばかりが先行している人間は、霊的成長の度合いが未熟なことが多いらしいです。知識はいくら詰め込んでも害はありませんが、霊的成長が伴っていなければ全く意味が無いのだそうです。

霊的存在としての人間の義務について。霊的存在としての人間の義務は大まかにまとめると三つあり、魂の成長霊的知識を得ること、そして無垢な心による言動とのことです。この三つが揃った時、人間は初めて真の意味で生きていることになるそうです。

魂の成長が生きがいになることについて。人間=霊にとって、魂の成長ほど生きがいになることはないそうです。これでよしというラインはなく、満足することなく、永遠に成長しながら生きがいを感じていくのだそうで、これは人間界においてだけでなく霊界に行ってからも同じなんだそうです。

霊的に成人した人間について。霊的に成人した人間は、嫉妬に狂う神とか、火炎地獄とか、選ばれた者だけが集う天国とか、肉体を持ったままの復活などという幼稚極まる観念はとっくの昔にかなぐり捨てているらしいです。そしてより一層高い霊的真理を学んでいくのだそうです。

非業の死を遂げた霊について。こういう霊の場合は、自分が死んだ場所をうろつかずに、しばらくの間休眠したほうがいいらしいです。そうしないと現場をうろつき回る自縛霊となってしまうので、そうならないために、中間境で当分の間休んだほうがいいんだそうです。

ハンデを持った人について。身体的障害や外見的なハンデを持った人は、忍耐力根気信頼心などの観念を魂に植え付けさせるために背後霊がわざわざ用意した場合が多いらしいです。逆に物質的に豊かで贅沢な生活を送る人間は、その人間を堕落させようとして低級霊が仕組んだワナである場合もあるので注意が必要らしいです。

最後の審判について。全人類を一同に集めて一人一人を審判していくという事実は無いそうで、キリスト教でいわれている最後の審判は全くの迷信なのだそうです。

イエスの言葉について。「この世を旅する者となれ。この世の住人となるなかれ」「汝ら、眠れる者よ、目覚めよ。死せる者の中より起きよ。キリストが光を与えん」の意味は、大まかにまとめると、「この世的な物質的なことに心を奪われずに、いつも霊的な心を持って、霊的真理をたずさえてこの世を旅する者になりなさい。人間界での出来事に惑わされずに、いつも霊界のことに心を開いていなさい。そうすれば私が霊界の高い界層に導いてあげよう」というような意味だそうです。人間界はあくまでも旅の宿に過ぎないということですね。この言葉にもずいぶん勇気付けられました。

本当の信念について。本当の信念とは、魂の奥底から湧き出る炎のようなエネルギーで、どんな逆境にも誘惑にも負けず、イエスが比喩した「山をも動かす」くらいの激烈な心のエネルギーのことらしいです。

進歩的人間のたどる生活について。それは、自己犠牲の利他的な精神世間の誘惑に負けない自制心低級霊の攻撃に耐えられるだけの精神力を持った生活なのだそうです。それを果たしてこそ本当の意味の幸福が待っているんだそうで、かなり抽象的なことしか理解できませんけど、感覚的にはわかる気がします。


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