◇「シルバーバーチの霊訓(全3巻)」から◇


※今までの断定口調を修正しました。もちろん長年の研究の結果、神様や霊界の存在は100%信じていますし、公言して、はばかりません。ですからその意味では断定口調のままでもよかったのかもしれませんけど、こんな未熟な魂の自分がエラソーに見えちゃうの恥ずかしいから、やっぱしここは分相応に、「〜らしいです」「〜だそうです」とかの、「〜って偉い人が言ってた」表現に変えています。上から目線とか教条的とかにだけは、絶対になりたくないので。

要するに、私は霊的真理を教える側じゃなくて、どこまでも「教わる側」のヒヨッコ魂なので、自戒を込めて、自分に強く言い聞かせるつもりで書いています。


「シルバーバーチの霊訓(全3巻)」から、霊的真理をピックアップしていきます。原文はこちら。その1 その2 その3

死が悲劇かどうかについて。死ぬことは悲劇ではなく、利己主義と貪欲と強欲の巣窟である人間界で生きていることこそ悲劇であるのだそうです。

大きな悟りについて。大きな悲しみや苦しみからは、大きな悟りを得られるそうです。小さな苦痛からは小さな悟りしか得られず、大きな苦痛によって人間の魂は強化され純化されて、より大きな悟りを得た魂になるそうです。

賢明な人について。賢明な人とは、全てのことを魂の成長のために受け止められる人、試練に耐えて、誘惑に負けずに、困難に正面から立ち向かう人らしいです。あまりに単純すぎる真理のために、人間界の「知識人」からはバカにされるようです。そういう知識人のほうが愚かなのかもしれませんね。

新しい霊と古い霊の割合について。人間界に初めて生まれてくる新しい霊と、人間界に再生してくる古い霊との割合は、大体半々くらいらしいです。それだけ神は新しい霊をどんどん作っているということみたいですね。

守護霊の任命について。ある人が人間界に誕生するにあたって、その人の守護霊を決める際に、守護霊が自分から名乗り出るのではなく、全て高級霊からの任命によって行われるそうです。ある霊が「この人の守護霊になりたい」と希望したからといってなれるワケではないんですね。

知識と責任について。霊的真理という知識を得たからには、それに責任が伴うそうです。責任とは、霊的真理の普及をすることと実践をすることで、日常生活においてはなかなかできないことですけど、やらなければならないことらしいです。その責任を果たさないと、霊界に行ってからそれなりの代価を支払うハメになるそうです。霊的真理を学ぶ時には責任が伴うということを意識して、心して勉強したいですね。でもなんか、重い荷物を背負わされたような気がしますね。

シルバーバーチの霊訓の中でも特に大切な教えについて。人類はみな霊的に兄弟姉妹であることだそうです。人種や民族や肌の色に関係なく、全ての人類が霊的に結びついているということらしいです。

自然界の法則について。利己的な生き方をした人間は、その人の霊性にいじけた心を植えつけ、逆に利他的な生き方をした人間は、霊性が発達するそうです。そうなるように自然界の法則が働くかららしいです。

本当の財産について。人間にとって本当の財産とは、人間界で実行した利他的な行為のことだそうです。お金や地位や名誉は全く無意味なんですね。

睡眠中の体験について。睡眠中は幽体が霊界旅行をしていて、多くの体験をします。娯楽にいそしんでいる時もあれば霊的な教育を受けている場合もあり、教育的な体験では、主に死後の体について教わるそうです。問題なのは、異次元の体験であるために霊感の全くない人には睡眠中の出来事が思い出せないことなんですよね。少しでも霊感があれば断片的にであっても思い出せるらしいです。思い出せる思い出せないに関わらず人間は例外なく睡眠中に霊界旅行をしているのは、個人的にも納得がいくことです。

宗教について。宗教とは何か、それは、いつどこに居ても他人のために自分を役立たせること、これに尽きるそうです。法衣やステンドグラスや教義や祭典などは全く無意味らしいです。

偶然などの出来事について。偶然・運命の気まぐれ・奇跡・偶発事故というものは存在せず、全ては因果律の働きによって必然的に起こる出来事なんだそうです。

動物の霊について。動物の霊は集魂(しゅうこん)というグループに属していて、犬は犬の集魂、猫は猫の集魂という風に、種類別に分かれているそうです。人間に可愛がられた動物は死後も自我を保ち続けて、飼い主の愛が続く限り自我が存在し続けるんだそうです。でも人間と比べて魂の進化のスピードが遅いために、人間の霊が進化していくにつれて動物の霊とは離れ離れになり、動物の霊は自我を失って集魂の中に吸収されていくんだそうで。そして集魂全体の霊性が発達しきったあかつきには、人間の霊として人間界へと誕生してくることも多いらしいです。

神を恐れることについて。神の摂理は完璧でありどこまでも公平で、マジメに生きてきた人間には素晴らしい世界が待っていて、片や他人への迷惑を考えずに利己的に生きてきた人間には恐ろしい精神的苦悶が待っているそうです。そうなればマジメな人間が神を恐れる心配などありませんよね。神を恐れることを必要とするのは利己主義者だけなんだそうです。

霊界の法則について。人間界の法律は必要に応じて訂正されたりしますけど、霊界の法則は始めからずっと永遠に変わらないそうです。神の作った法則は完璧だからで、霊界の法則に従って生きていけば必ず幸せになれるそうです。ですので心配することは全くないのでしょう。

偉大さの尺度について。偉大さの尺度は、その人の利他的・奉仕的精神の度合いなんだそうです。利他的に生きるほど、与えるものが多いほど、偉大な霊となるんだそうで、そうありたいものですね。

魂の挫折感について。精神的な倦怠感と絶望感が強いほど魂の挫折感は大きくなるそうです。精神的な倦怠感を乗り越え、絶望感をなくして希望を持って生きれば、前向きで明るい人生になるそうで。霊的に楽天的な精神状態になることが大切らしいです。

自分の言動への自信について。自分の言動に自信をつけるためには、自分は基本的に霊なんだということを強く意識して、常に魂の成長を心がけることだそうです。

シルバーコードの性質について。心身ともに健康な状態ならば睡眠中にシルバーコードはどこまでも伸びていきますけど、病気だったり心配事が強いと、シルバーコードが硬直してしまってあまり伸びきらず、完全な幽体離脱が行われずにただウトウトするだけだったり不眠症になったりするんだそうです。

相対的体験と試行錯誤について。人間界は学校のようなもので、善と悪、楽しみと苦しみなどの相対的な体験においての試行錯誤によって魂は成長していくんだそうです。心の中の神性が日常生活において現れることによって初めて魂が成長するという意味で、人間は自分の魂の庭師のようなものなんだそうです。

偉大な霊能者について。発達には魂そのものの成長と、単なる心霊的な能力の開発の、二つの発達があるらしく、魂の成長なくして心霊的な開発だけが進んだのでは、その人の霊格は低いバイブレーションにとどまるんだそうです。二つの要素が同時に開発されて初めて偉大な霊能者になるらしいです。

人間界の最終的な状態について。人間界で生きている地球の人類は、最終的には霊格が相当上がって、霊と直接交信ができるようになるそうです。

不治の病について。不治の病というものは存在しないのだそうです。病気が治らないのは、その人のカルマに関係があって、カルマの清算が終われば病気は必ず治るのだそうです。

取り越し苦労について。取り越し苦労や無用な心配をする人は、霊的に未熟な人だそうです。とても知的な人であるにもかかわらず霊的には未熟なことが往々にしてあるんだそうで、霊的に未熟なのは、霊的真理を正しく理解していないで心配ばかりしているからで、神に対する絶対の確信がないかららしいです。私ゃまだそういうレベルかも・・・

苦しみ以外の方法について。魂の成長にとっての方法は苦しみしかないわけではないんだそうです。成長をするには他にいくらでも方法があって、苦しみはその中の一つに過ぎないのだそうで。ですから「何が何でも苦しみの道を歩むんだ!」と力まないで、奉仕をすることや愛を与えることに専念するのもいいのでしょうね。

宇宙の消滅について。私は以前イエスの言葉「天も地も消えゆく。だが私の言葉が消えることはない」の意味を物的宇宙の消滅であると書きましたけど、シルバーバーチは「宇宙の消滅は絶対にありません」と言い切っています。そうするとイエスの言葉の本当の意味はなんなのか、現在では不明です。どちらにしても霊界は永遠に存在し続けるらしいので、その点では安心みたいです。

 

以下、補足説明です。

サイト「スピリチュアリズムのすすめ」さんに載っている、イエスの言葉、

「義のために迫害される人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」

昔はこの言葉の意味が解りませんでしたけど、最近になってやっと解りかけてきました。言葉じゃなくて感覚で理解したカンジです。この言葉の「義」を「愛」に置き換えてみると解りやすいでしょう。つまり、

愛に生きるが故に迫害される人々は幸せです。なぜなら、天国はその人たちのものだからです」ということです。愛を与えようとして、受け入れてくれる人も居れば、冷たく突っぱねる人も居ると思います。どういう反応をされても、たとえ迫害されても、愛に生きる姿勢と心は揺るがない、神様を信じて真っ直ぐに愛の道を進む、そういう心の持ち主が天国(霊界の高い界層)に行けるので幸せだということですね。

それとは逆に、愛に生きる人を迫害するような人は、愛することを知らない可愛そうな人なのだと思います。愛することを知らないということは、神様の心を全く持っていないということだからですよね。「愛する心」は、神様が人類全員の潜在意識に与えた宝物で、その宝物が心の奥底に沈んでしまって完全に隠れてしまって、代わりに、相手を憎む・妬む・蔑むというマイナスの心が意識を支配しているのだそうです。昔の私が正にそうでした。

また、シルバーバーチの言葉に、

「霊性を悟ることは容易なことではありません。各自が自分で努力し自分で苦労しなくてはなりません。しかし同時にそれは登るにつれて喜びの増す、素晴らしい霊的冒険でもあるのです」

という言葉がありますけど、霊性を悟る、すなわち人間界でよく使われている言い回しでは、「悟りを開く」とか「悟りの境地に達する」という言葉がありますよね。でも、上の引用文の通りで、「悟りを開いた」とか「悟りの境地に達した」という言葉は、それこそイエスやシルバーバーチやインペレーター、そして身近な人物ではマザー・テレサやマハトマ・ガンジーやヘレン・ケラーや中村久子さんや長南年恵さんなどの超高級霊になって初めて言えることであって、人間界で修行中の人間が軽々しく言えることではないのだと思うんですよ。冗談でも言ってはいけないと思うんですよ。

なぜ冗談でも言ってはいけないのか、それは、「悟りを開いた」とか「悟りの境地に達した」と自分で言って、しかも悪いことに、不特定多数の人間が見ている公の場所で言ったりすると、人間界では冗談で済まされても、霊界においての基準では神を冒涜していることになり、神様が創った霊界の法則が自動的に働いて、その人の霊的波動が一時的に下がってしまって、その低い波動に感応しやすくなった低級霊(興味本位のからかい霊・イタズラ霊)が「待ってました!」といわんばかりにワッと寄ってきて、その人に霊的な悪影響を及ぼすと思うんです。体調を崩させたり、大きなトラブルを引き寄せてしまったり、そういう事例は過去にも数え切れないくらいあったようですし、私の過去の知人にもそういう人が居たので、尚更実感が沸くんです。ですので、冗談でも言ってはいけないと思います。「悟りを開いた」とか「悟りの境地に達した」と大マジメに言ってそう思い込んでいる人のほうが、本人の意思が強い分、まだ害が少ないかもしれませんけどね。

いずれにせよ、悟りの境地に達するのは、人間界で修行をしている人間には、論理的に考えてもまずムリな話でしょう。そうですね・・・再生を卒業(解脱)して霊界でのみの修行を許されて、初めて「悟りの入り口に、やっと差し掛かった。でも出口は全く見えない」という程度のものでしょう。霊的真理をナメてかかると、とんでもない目にあいますから、くれぐれも注意してください。これは自戒を込めて言っています。はい、私も本当に気をつけます。本来、知識、特に霊的真理という知識を得れば得るほど、人間は謙虚になっていくものだからです。「まだまだ自分の知らない真理がたっくさんある。今までの傲慢な態度ではいけない!」と思うようになって、自然に謙虚になるのだそうです。私はまだ修行不足なので、そこまで謙虚にはなりきれていませんけど・・・

でも、引用文の通り、悟りの境地への道・霊的成長の道は、登るにつれてラクになるどころか苦しみが増えるけど、同時に「ここまで霊的成長ができた。嬉しい! よし、もっと登ろう!」という、喜びがどんどん大きくなっていく登山のようなものでしょう。ただし山の頂上は見えないそうで、成長にも進化にも知識にも英知にも限界というものが無いのだそうです。またまたシルバーバーチの言葉ですけど、

知識にも真理にも叡智にも成長にも限界というものがないと悟った時、あなたは真に自由の身になります」

ここまで来ると、もはや超越界(神界)まで達して、神様のすごく近くに居る霊の言葉です。限りなく深い言葉ですね・・・


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