◇「個人的存在の彼方」から◇


※今までの断定口調を修正しました。もちろん長年の研究の結果、神様や霊界の存在は100%信じていますし、公言して、はばかりません。ですからその意味では断定口調のままでもよかったのかもしれませんけど、こんな未熟な魂の自分がエラソーに見えちゃうの恥ずかしいから、やっぱしここは分相応に、「〜らしいです」「〜だそうです」とかの、「〜って偉い人が言ってた」表現に変えています。上から目線とか教条的とかにだけは、絶対になりたくないので。

要するに、私は霊的真理を教える側じゃなくて、どこまでも「教わる側」のヒヨッコ魂なので、自戒を込めて、自分に強く言い聞かせるつもりで書いています。


「個人的存在の彼方」から、霊的真理をピックアップしていきます。

悪の存在について。人々に不幸や悲しみを与える悪の存在を神は許しているようです。なぜかというと、人間の魂は不幸な環境の体験によってのみ、成長するようにできているかららしいです。

夢幻界での飽きについて。何の努力もいらない夢幻界での生活には、平和さはありますけど、新しい刺激が全くないそうで、何十年・何百年も夢幻界で生活していると、いつかは必ず飽きがくるのだそうです。各人はそれぞれ次の道を考えて、もう一度人間界へと下降するか、あるいは、それにウンザリした気の利いた者は一つ上の世界であるエイドスの世界への上昇を選ぶのだそうです。

ダブルについて。睡眠中はダブルは肉体の中に収まったままで、絶対に抜け出ることはないんだそうです。抜け出るのはダブルの中の幽体のみで、この幽体は極めて柔軟性・流動性に富んでいて定まった形はないらしいんですけど、自然と肉体に似た容貌をそなえるんだそうです。もしダブルまで一緒に肉体から抜け出るとしたら、それは死を意味するんだそうです。

守護霊のカルマについて。守護霊は三回か四回の前世を送っていると思われるらしいんですけど、まだ完全には浄化しきっておらず、守護霊のカルマも完全には清算されていないらしいです。そこで人間の守護にあたって間接的な人間界での人生を送ることがよくあるんだそうです。またもう一つの方法として、類魂の記憶の中に入って間接的に人間界での人生を体験することによってカルマを清算するんだそうです。

魂の性別について。魂には性別は無いらしいです。パウロの言葉「もはやユダヤ人や異邦人もなく、奴隷もなく自由人もなく、男もなく女もない。我々はイエス・キリストにおいて一体だからである」は、そのことを言っているのであって、性別に関係なく神の前には一つだということらしいです。

高級霊やソウルマンについて。偉大な霊格を持った高級霊やソウルマンが、人間界では全く無名の人生を送ることがよくあるんだそうです。身分の低い家庭に生まれて、性格は消極的で挫折と苦労の多い人生を送ることが多いらしいです。でも心の中では霊界からのインスピレーションを常に受けていて、霊界に戻った時のために霊性を高めているんでしょうね。イエスが「あの世では先なる者が後になり、後なる者が先になること多し」と言ったのはそのことらしいです。要するに、金銭欲や地位欲や名誉欲などが強いほど、そしてその結果お金持ちになって社会的地位にしがみついている人ほど、人間界では成功者で「先なる者」として評価されるんでしょうけど、霊界に行ったら正反対の「後なる者」という評価を受けて、とても低い界層にしか住めないのだそうです。それに対して、金銭欲も地位欲も名誉欲もほとんど持っていなくて、社会的地位などどうでもいいという風に「心から」達観できている人は、人間界では「後なる者」と見られて全く評価されませんけど、霊界に行ったら高い評価を受けて、「先なる者」として高い界層に住めるんだそうです。それだけ心が欲で汚れていないからですね。イエスは、それを言いたかったらしいです。

二つ以上の天体生活について。類魂のメンバーの中には二つ以上の天体生活を体験しないとエイドスの世界に入れない者が居るらしいです。また、エイドスの世界で心行くまで純粋美を味わった者は、二度と天体上の生活を命じられることは無いそうです

終末について。イエスの言葉「天も地も消えゆく。だが私の言葉が消えることはない」は、物的宇宙の消滅を予言しているものと思います。もちろん霊界は永遠に消滅はしないらしいですけど、地球を含めた全ての天体と宇宙空間は全て消えてなくなるということらしいです。聖書にある「最後の審判」はもしかしたらそのことを指しているのかもしれませんね。でも今の宇宙がなくなった後どんな新しい宇宙が出現するのかは、まだ神の懐の中にあるようで。人間にできることは、祈祷書の言葉「心静かに瞑想し、我こそ神なりと悟るべし」をかみ締めて平静を保つのみなんだそうです。

祈りについて。神に祈る時は、この世的な雑念を全て消し去って、幼な子のような無垢な心にならなくてはいけないそうです。イエスも「汝ら心を入れ替えて幼な子のごとくならずんば神の国へ入るを得ず」と言っています。また、祈る場所はなにも大聖堂や教会である必要はないのだそうです。山奥でも川辺でも自分の部屋でもいいんでしょうね。大事なのは祈る時の心の状態なんでしょう。

集団での祈りについて。集団で祈る時は注意が必要らしいです。群集は口をそろえて「哀れな罪人である我々を救いたまえ」と言いますけど、それは口先だけの話で、本当は自分らのことを哀れとも罪人とも思っていないことのほうが大多数らしいです。要するに形式だけの見せかけの祈りに陥っている人が多いということで、そんな時はいっそ無言でいるほうが遥かにマシと本書では書かれています。

静寂の大切さについて。「心静かに瞑想し、我こそ神なりと悟るべし」の言葉を実践するのは、現代人にとっては難しいことですよね。日々の仕事があり、複雑な人間関係があり、家庭の心配もあります。でもそういった雑念を振り払って、静寂の中で瞑想することはとても大切なことなんだそうです。なぜならそういう静寂には魂にとっての必須の安らぎがあるかららしいです。

地獄について。地獄という場所は存在しないんだそうです。ただ単に因果律の自動的な作用で苦しい状態に置かれるというだけのことらしいです。また、過ちを犯したからといって罰を受けることも無いそうです。これもやはり因果律の作用で償いにふさわしい状態に置かれるらしいです。永遠の火刑というのも存在しないそうです。何事にも適度な頃合いというものがあり、罪を償ったら、その苦しい状態からは開放されるらしいです。

愛するということの正しいあり方について。プラトンがこう言っています。「世俗的な物の中にも美を感じ、あらゆる形態にも愛らしさを感じ取らねばならない。更に進んで公正な行為、公正な行動原理を徐々に悟るようになり、そして最後に究極の原理、すなわち絶対美を知覚するようになる」と。プラトンのこの言葉は愛するということの正しいあり方の見本らしいです。難しいですけど、いつかは実践したいものですね。

人類が全て霊的に兄弟であるということについて。他人を傷つけることは自分を傷つけることであり、他人を救うことは自分を救うことになるそうです。なぜなら、イエスが言っているように「我々は互いに肢体である」からで、人類が全て霊的に兄弟であることを人々が悟れば、争いごとも戦争もこの世からなくなるのでしょう。

パウロの贖罪説について。パウロは、イエスの血が人類を救い罪を償ってくれると説き、死ぬ直前での悔い改めで天国に行けるようなことを説いていますけど、これはとんでもない間違いなんだそうです。これがもし本当だとしたら、人間界において他人の迷惑も考えずに好き勝手なことをやってどんな悪逆非道な行為をしても、死ぬ直前での悔い改めでそれが全て償われることになってしまいます。霊的真理はそんな都合のいいものではないそうで、撒いたタネは必ず刈り取らなければならないんだそうです。パウロも死後きっと、間違った考えを改めたんじゃないでしょうか。

天国に貯える宝について。人間は個別の霊として魂の成長のために生きているらしいですけど、類魂のことを忘れてはならず、自分の霊的進歩のスピードは、叡智に基づく愛によって大幅に加速されるそうです。類魂全体のことを意識しながら自分も霊的にレベルアップしていくにはそれが一番いいんでしょうね。それこそがイエスの言う「天国に貯える宝」なんだそうです。


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