◇とっても長い紆余曲折の話◇


まだ楽器を始めていなかった1988年のある日、NHK-FMで流れていたフルートの曲のメロディに惚れて、曲名は今でも不明だがフルートの音色がとても好きになった。
しかし私にはフルートなんて難しくて吹けないという妙な諦めの気持ちがあり、1989年10月に生まれて初めて買った楽器はエレキギターだった。
CDを聴いてるだけではなく、何か自分で曲を弾いてみたいと思って始めたのだった。たぶん同じような動機で楽器を始めた人も多いだろう。

ギター初心者がイキナリ買ったのが、フェンダージャパンの白いストラトキャスターだった。6万円くらいだったかなー。
今思い返してみれば、もっと安いのでもよかったのにと思うのだが・・・。だって数年後にはやむなくギターをやめざるを得なかったのだから。その理由は追々書くとして・・・

とにかく最初に買った楽器ということで嬉しくて、毎日弾いていた。いや、弾くというよりは「弦をはじく」程度のレベルだった。それでも何ヶ月かすると、まぁなんとか指が動くようになって、指先の皮膚もだいぶ固くなってきて弦を押さえるのに苦労しなくてすむようになった。

その内に、何かコピーしてみようかと思うようになり、主にフュージョン系の曲をコピーし始めた。最初にやったのはリード部分で、メロディを演奏することを特に好んでいた。当時はギターに夢中だった。

で、リード部分だけではイケナイと思い、コードのストロークやアルペジオも練習した。最初は誰でもうまく弦を押さえられないものなのだろうが、私の場合はそれが極端に苦手というか、コードを押さえるのが苦痛で、すぐに手首が痛くなってしまう。最初は当然かもしれないが、何ヶ月かけて練習しても手首がすぐに痛くなって弦を押さえられなくなるという状態だった。
なんでかなーと不思議に思っていたのだが、ただ単に私の押え方が悪いんだろうと思って、当時はあまり気にしなかった。いろんな教則本を読んだりして押え方も勉強して練習したけど、痛くなる現象は一向に変わらず。

そんなこんなで年月が経ち、まだ症状が出るので、いくらなんでも変だと思うようになって、ふと医者に行って手首の状態を検査してもらったら、「シンジラレナーイ。カンベンしてよー」と思わせるような診断結果が出たのだった。
医者の診断によると、私の手首はスジが極端に痛んでいるとのこと。ギターみたいに手首に負担がかかる楽器はしないほうが無難だと言われたのだった。すぐさま私は切り替えして「これって今までギターの弦を変な押え方でやってきたせいでしょうかね?」ときいてみたが、医者の返事は「多分違うでしょう。この痛み方は普通じゃないですから」とのこと。

そんなに痛んでるのか。ってことはつまり、
私「あのー、じゃーひょっとして、今までギターの弦を押さえるのが痛くてたまらなかったのは、押え方が悪いとかの問題じゃない・・・と」
医者「痛かったのは楽器とは関係ないでしょう。他に、強く手首を痛めたような覚えはありませんか?」という返事だった。

そう言われても、うーん、そういう覚えは・・・。あっ、そうだ。そういえばオートバイで転んで左手首をかなり痛めたことがあった。確か痛みがひくまで2ヶ月か3ヶ月くらいかかったっけ。それを医者に話すと・・・
医者「間違いなく、それが原因でしょうね。その事故の時には医者にかかられましたか?」
私「いえ、確か行きませんでした。痛かったけどちゃんと動かせたので、ついムリして、痛みがひくまでガマンしてました」
医者「その時に治療を受けていれば今回のような症状は出なかったかもしれませんが、今それを言っても始まらないので、とりあえずギターのような手首に負担がかかる楽器は、やめたほうがいいですよ。もっと痛めるかもしれませんから。この痛み方ですと手術で完全に治るかどうかも解りませんので、手術もお奨めはできないです」

・・・私はショックだった。医者もそれを察したのか、
「でもその時に治療を受けていたとしても完治していたとは限らないですよ。オートバイ事故のようにかなり激しく痛めた場合は尚更です。治療を受けていたにせよ受けなかったにせよ、ギターを諦めるという今の結果は同じだったかもしれません」
という言葉を返してくれたのが唯一の救いだった。

確かにそのとおりかもしれない。オートバイ事故は自業自得としても、手首をかなり痛めたのには違いないんだから。私はそう思って医者を後にしたのだった。

そうした事情でギターを諦めた1993年冬。

ギターを諦めて、それから数週間が過ぎ、私は途方に暮れていた。まいったなー、ってことは弦楽器全般がムリということになるんだろうなー。それよりも、自分がやりたい弦楽器ってギターしかなかったからなー。かといって楽器そのものを諦めるなんてことは到底ムリだ。そんな考えが巡っていた。既にそこまで音楽にどっぷりと浸かっていたので。

ふむ、じゃーここはスパッと頭を切り替えて、弦楽器以外の楽器を始めてみよう。それっきゃない。

そう思ったのはいいが、さーて、いざ探してみると何の楽器を始めるのか自分でも見当がつかない状態だった。
なんとなーく楽器屋を巡る時期が続いて、ただ漠然と考える日々が過ぎていき、だんだん焦りも感じていた頃、ひょんなキッカケで以前NHK-FMで聴いたフルートの音色のことを思い出し、やはりフルートを吹けるようになりたいと思い、東京都昭島市のYAMAHAショップに行き、生のフルート(モダンフルート)を見て、どの機種を買おうかと迷っていたら、フルートよりもかなり小さいピッコロという横笛があることを知り、とても可愛らしい笛で私の興味はピッコロに釘付けになった。

管楽器ならばギターほどには手首に負担がかからないハズだと思って楽器屋さんで相談して、先に書いた医者に電話をかけて相談と確認をして、ピッコロ程度のチカラのかかり具合ならば手首は大丈夫だという結論に達したのだった。
その日は取りあえずYAMAHAのフルート&ピッコロのカタログ(両方一緒に載っているカタログしかなかった)をもらって帰宅した。

楽器屋さんでYAMAHAのカタログを貰ってきた私は、早速どの機種にしようかと考えていた。高い機種はべらぼうに高い(数十万する機種も多い)し、それはとてもじゃないけど手が出ないので、グラナディラ製の中でもかなり安い機種を選んだ。

今度は昭島市ではなく東京都小金井市の宮地楽器Top Winds(管楽器専門店舗)さんまで出向いて注文し、注文して2週間くらい経ってから、入荷したとの連絡を受け、その翌日宮地楽器さんに寄って店頭で新品を購入。当時は新品でも135,000円で今よりもだいぶ安かった。
かなり遠い楽器屋さんだったので家に帰るまでに時間がかかったが、嬉しくて気にならなかった。たぶん今後は「笛」と名の付くものにのめり込んでいくんだろうなという予感がしていた。


当時のピッコロの手入れ用品

そんな経緯で1994年春、初めての管楽器を手に入れた。モダンピッコロのYAMAHA YPC62である。YAMAHAピッコロの中では下から2番目に安い機種だが、先にも書いたとおり全管グラナディラという木でできてるやつだ。
(メモ:グラナディラという木はアフリカン・ブラックウッドのことらしい。また、エボニーは黒檀(こくたん)のことらしい)

最初は同じYAMAHAでも最下機種のプラスチック管のYPC32にしようかと思ったがYPC32はデザイン面で気に入らず、よりストレート管に近いYPC62を選んだのだった。
できればつい最近(2018年春)知ったジュピター JPC1010E(旧名JPC305ES)や、ゲマインハート 4Wのような膨らみの無いジョイントのピッコロが良かったのだが当時は知らなかった。

手に入れた翌日から早速練習開始。まず何と言ってもアンブシュアをマスターせねばならない。フルートの教則本を事前に買っていたので、それを参考にしてアンブシュアを練習。
始めは誰でもすぐには音が出ないものなのだろうが、私の場合は割と早い時期に音が出たと思う。何せ毎日数時間かけてアンブシュアの練習をしていたので。

日増しにだんだん綺麗な音が出せるようになって、2オクターブ目や3オクターブ目まで出せるようになってからは、何か曲を演奏してみたいと思うようになった。これは自然な成り行きだろう。

ここで前回のギターの話になるが、ギターを諦める辺りの時期に偶然知ったのが、宗次郎の音楽だった。もう既に「大黄河」がヒットしてから数年経っていたので、世間のブームに乗って知ったのではなく、たまたまボーっと旅行関係の雑誌を読んでいたら、それにコンサートの紹介が載せられていて、
「え? オカリナの奏者なんて居たの? へー、数年前にヒットを飛ばして地位を築いた奏者なのか。なんだか面白そう」
と思って、じゃーアルバムを聴いてみようかという気になり、どのアルバムがいいのか解らなかったのでとりあえずベストアルバムを入手。んで聴いてみたら、ちょっとしたカルチャーショックを受け、一発で気に入ってしまった。

ピッコロの話に戻ろう。何かピッコロで演奏をと思った時、笛なので自然と宗次郎の音楽という図式ができていた。宗次郎はオカリナだけど、まーいいじゃん。オカリナで演奏しなきゃならないなんて決まりはないんだしさ。と、こういう風な考えは今でも変わっていない。
始めから「この音楽にはこの楽器じゃないといけない」なんて決めるのはツマラナイと思うし、変な先入観や偏見を持たずに、できるだけ柔軟性をもって取り組みたいという考えなので。

宗次郎の曲を耳コピーして吹く日々が続き、それなりに充実していた。ピッコロもだいぶ手になじんできた頃、自分の中で、何か漠然とした感覚があった。「何かが違う」という感覚だ。違うっていうのは本当の違いじゃなくて、自分が本当に求めている管楽器は本当にこのYPC62のような形のピッコロなのだろうか? もっと、YPC62以上に好きになれる管楽器があるんじゃないか? ・・・という感覚だった。
しかし、音色は綺麗に出せるし、好きな宗次郎を吹く日々がとりあえず続いていたので、まだ当時はそれほどの切迫感はなかったのだった。

そして思わぬ試練が・・・

この試練の時期は今でも忘れられない。

ある日、いつものように山に登り、ピッコロを吹こうとしたら、なんと音が全く出ない。これにはアセった。いくら息を吹き込んでも音が出ない。今までは何の問題もなく演奏ができていたのにも関わらず、ある日を境に音が出なくなってしまったのだった。

すぐに原因を考えた。楽器のタンポ(トーンホールを塞ぐための部品)が寿命で破損したために音が出ないのか、あるいはキーメカニズムそのものの故障か、はたまた頭管部の息の反射版の破損か、最悪の場合は木の管体が割れたのか・・・などなど、いろいろ考えた。
結局、自分では原因がわからないので楽器屋さんに持って行き、なぜいきなりピッコロの音が出なくなったのかを尋ねて、楽器のどこかが壊れているのかということも当然調べてもらった。

しかし、調べてもらってもどこにも不具合は見つからず、あろうことか、楽器屋さんの店員さんが試しに息を吹き込んでみたら、なんということだ、ちゃんと音が出るじゃないのさ。そのすぐ後に私が吹いても音は出なかったのだった。つまり、私のアンブシュアに原因があったのだ。

こんなことってあるんだろうか。今まで問題なくできていたアンブシュアがいきなり崩れるなんて。でも現実に音が出ないのだから、事実は事実だ、素直に認めよう。要するにヘタになってしまったということだ。
それで、アンブシュアを矯正するにはどう練習し直したらいいのかということを考えて、いろいろ本も買い、また教則ビデオも買って勉強した。あと、鏡を見ながら自分の唇の形を確認してアンブシュアのどこが悪いのかを調べた。

アマチュア判断だけで練習するのも危ないので、ここはひとつ、プロのレッスンに通ってみようと思ったが受講料が高いので諦め、仕方なく独学を続けることにした。

それ以後もいろんな観点から研究しては練習、研究しては練習の繰り返し。それと同時に、長い間完璧だったアンブシュアがある日を境に突然崩れるなんていうことが本当にあるんだから、よほどの原因があるに違いないと思い、音が全く出なくなった当時の状況をいろいろと思い出してみたが、皆目見当も付かない状態だった。原因が解らないから焦る、焦るからリキむ、リキむから尚更綺麗な音が出にくくなる、という悪循環だった

今こうして思い返してみると、もっと慎重に行動していればよかったものを、焦ったりするから余計に悪い結果にしかならないんだよなーとつくづく思う。でも当時はまだまだ精神的に余裕が無かったので、ただ焦るだけだった。

そして、焦ってリキみかえってムキになって息を吹き込んでいるうちに更にアンブシュアが固くなってしまい、1996年、ついに音自体が全く出なくなって撃沈。
ピッコロを諦めて、購入した宮地楽器さんに売却した。

無知ゆえの失敗だったとはいえ、この時の心の傷は本当に計り知れなく、一生忘れられない悲しい思い出となってしまう。
何せ、上手く吹けていた頃は、「この笛となら一生付き合っていける。それくらい大好きだ」と惚れ込んで生き甲斐にまでしていたのだから、その生き甲斐を失ってしまった心の傷と穴は想像以上のもので、半分寝たきり状態になっていたことさえあった。それくらいとんでもないショックを受けたのである。

(ちなみに、今になってよく思い出してみると、当時バンドを組んでいてドラムを叩きながら歌っていたのだが、歌う時に「怒っているように口にチカラを入れたチューをしたままずっと歌っていた」ことが最も良くなかったことに気付いた。あれによって上唇がリキむクセが付いてしまい、上唇がどんどん固くなっていったのだ。それにバンドの練習に夢中でピッコロの練習をサボり気味だったこともあり、二重の意味で自分をヘタにさせる要素があった。あれがいけなかったのだ。あれが、アンブシュアが固くなって崩れた原因だったのだ!)

 

ピッコロという生きがいを失って放心状態のまま、楽器そのものをやめるなんてできないと思い、次に手にしたのがハーモニカだった。トンボのブルースハープとクロマチックハーモニカだった。笛関係なんだからハーモニカはちょっと違うのではないかと思う人もいらっしゃるだろうが、自分としては、できるだけいろんな「息を使う楽器」を試してみたかったので。

値段はすごく安かったので、楽器屋さんで迷わず買うことができた。ブルースハープのキーはDとGmを1本ずつ、クロマチックは1本だけ買った。

ハーモニカをまず最初に選んだのは、どこにでも気楽に持って行ける・すぐに取り出して吹けるという理由からだった。持ち運びやすさは笛にも共通しているし、それに小さな楽器はなんとなく可愛いと思ったので。

ハーモニカを吹き始めてからは、それはそれで面白かったのだが、私にとっては、やはり「何かが違う」という印象だった。音色も綺麗だし小さいし、演奏もラクにできるのだけど、何か自分の好みとは違うような気がしていた。もっとも、買った時はそんな印象は受けず、実際にしばらくの期間吹いてみてから初めて感じることだった。

「うーーーん、やっぱり違うのかなー。他にもまだあるのかなー」という気持ちが湧いてきた。
でもこの時点では、ちょっと経済的に苦しくて、他の楽器を買うほどの余裕が無かったのだった。それで仕方なく、しばらくの間ハーモニカを吹いていた。ビブラートやベンドなども覚えてみたが、やはりイマイチ好みじゃないという印象だった。

そうこうしている内に、だんだん漠然とした不安を感じるようになってきた。
「やはりハーモニカはちょっと違ったか。それにしても、本当に安心できる楽器、しかも管楽器となると本当に見つけられるのだろうか」
という不安が、いつも胸をよぎっていた。不安な日々が続き、やりきれない気持ちになって落ち込んでいたのだった。

不安がたくさん溜まってくるとストレスもたくさん溜まるもので、これはマズイなーと思いながらも、ジリジリと日々が過ぎていった。

 

そんなある日、音楽関係の雑誌のバンド募集覧で知り合いになっていた人から久しぶりに電話があった。ギターをやっていた頃に知り合った人なので、もうずいぶん連絡がなかったことになる。
その人が突然、私にドラムを叩いてくれないかと言ってきた。なんでも、今までやってきたバンドのドラマーが突然抜けてしまって困っているとのこと。

当時私はドラムなんて叩いたこともなかったし、スティックだって触ったこともなかった。スティックの握り方さえ知らない状態だった。そんな人間にイキナリ叩けなんて言われてもロクに叩けるわけがない。そう返事をしたのだが、がんばって練習してくれればいいから叩いてくれと言われ、結局私は生まれてこのかた触ったことも興味を示したこともなかったドラムという楽器を始めることになったのだった。

ここで、「ギターの件で手首を痛めたことが解ったから、ドラムのスティックみたいに手首に負担がかかる楽器は大丈夫なのか?」と思う人もいらっしゃるだろう。私も始める時は同じことを心配した。
そこで思い付いたのが、「皮手袋をしてスティックを握る」という方法。皮手袋を付けて叩くと、素手で叩く時よりも数段手首への負担が少なく、ほとんど手首にチカラを入れずにバンバン叩けるのだ。手首への心配はこれで解消した。正しい方法ではないのだろうけど、これも自分の手首を守るためなので仕方がないこと・・・


ドラムを叩く時に使ってる皮手袋

待ち合わせをして、あるスタジオに到着。そこには以前見たことのある顔ぶれも居たが、知らない顔触れも居た。ドラムのことは何にも知らないので、スティックの握り方から教わった。
幸いなことにそのメンバーのベーシストがドラムの叩き方を知っていたのでそのベーシストに教わったのだった。基本的な構え方やら何やら一通り教わって、さーイキナリ演奏ときたもんだ。ちょっと待って! つい30分くらい前に生まれて初めてスティックを握った人間にもう演奏を要求するか! しかもビートルズの曲をやるだって? 待ってよー、難しすぎるー!

なんて言葉をよそに演奏は始まってしまい、ちゃんと叩けるハズがなく、バスドラやハイハットなんてメチャクチャなタイミングで入れてしまったのだった。それでも曲が終わると、「飲み込みが早い。もっと練習すればウマくなれるよ」とおだてられ、なしくずし的にそのバンドのドラマーになってしまった。こんなヘタクソでもいいんだろうかと思ったものだった。

今にして思えば、楽器探しをしていて見つからず、不安な日々を送っていた私にとっては、ドラムはいい出会いだったのかもしれない。気分転換させてくれるというか、不安な気持ちをスネアやタムやシンバルに叩き付けることによって、その暗い気持ちをふっ飛ばすような、そんな効果を与えてくれたような気がする。

個人的にやっていたのは相変わらずハーモニカだったが、その一方で、バンドのメンバーにまくしたてられドラムの猛練習に明け暮れる日々が続いた。リンゴ・スターのあのドラムをコピーせねばならないという強迫観念にも似た緊張感が、楽器が見つからないという不安な気持ちをどこかに消し去ってくれていたようだった。
結果的には私にとって、不安な気持ちは消えるし、思いも寄らないドラムという楽器を覚えるという、プラスになった出来事だった。

ビートルズの曲を数曲覚え、それから今度はあろうことか、ベンチャーズのコピーまでバンドでやるというし。あのメル・テーラーのドラムをコピーしてくれというのだ。
メル・テーラーをご存知の人はおわかりだろう。ズンズン地響きするようなバスドラ、マシンガンのようなスティックさばき、その他とにかくドラムプレイの何もかもが、ものすごく速い。あれを私に再現しろというのだ。ちょっと待ってよーってカンジだった。

やはりそんな叫びは届かず、メル・テーラーのドラムも覚える羽目になってしまったのだった。
しかし練習してある程度覚えてみるとこれが面白い。叩いていてとにかく爽快なのだった。単調なパターンが多いが、オブリガードなどはとにかく速くてパワフルに叩かなきゃならないので、かなり気合いが入るのだ。
ミスった時は悔しいが、うまくいった時はすごく爽快。練習の成果が顕著にダイレクトにプレイとして現れるので、その意味でも爽快だった。

こうして、プライベートでハーモニカを吹きながら楽器探しについて不安を感じていたものの、ドラムという意外な楽器のおかげで、その不安はだんだん心の奥底に隠れていったのだった。

ハーモニカを吹きながらドラムで気を紛らわす日々を送っていたものの、やはり心の奥底には不安があった。自分が求めている管楽器は一体何なのか、それが皆目見当も付かない状態で、暗中模索の不安な状態だった。

 

幸いにも経済的に余裕が出てきたので、さて次はどんな管楽器をやろうかと思っていたところ、某音楽雑誌の記事でサクソフォンを演奏している女の子がとてもカッコイイと思って、サクソフォンを始めてみようと思った。今考えれば安直だよなー。でも当時はピッコロを挫折した時の精神的ダメージが尾を引いていて、横笛は無理だと解っていたので、それなら縦向きに構える管楽器でアンブシュアで苦労しない管楽器に絞るしかないなーと思っていたからだ。

最初は、縦笛ならリコーダーもいいかなと考えたのだが、どうも外見的にリコーダーは好きになれない。外見で楽器を決めるなんて邪道かもしれないが、外見の好みを楽器選びの基準にする人も中には居るだろうし・・・

そして買ったのはジュピターのブラス仕上げのソプラノ・サクソフォンだった。13万くらいしたかな。痛い出費だったなー。

それでもしばらくの間はサクソフォンの練習に明け暮れていた。特に高音部で綺麗な音が出た時は嬉しかった。バンドのメンバーに見せて、バンドの練習でもサクソフォンで参加していた。
それなりに充実した日々だったのだが、やはり自分の中で「何かが違う」という気持ちが消えなかったのだった。

一体、具体的に私が求めている管楽器は、どんな種類の管楽器なのだろうか・・・という気持ちが強くなっていき、サクソフォンを始めてみて、それがますます解らなくなってきていたのだった。演奏テクは上達しても好きになれない楽器では本当の嬉しさは感じられないなと思うようになった。

それに始める前からわかっていたことだが、サクソフォンはキーメカニズムがあまりにも多くて、おまけに部品点数もかなり多くて、メンテナンスが大変。加えてなんといっても楽器が大きいので持ち運びが大変。私が好きなのはピッコロ並みに小さな管楽器なんだなーと認識したのだった。

しかし、それに該当する管楽器は見つけることができず、またまた焦りの気持ちが溜まっていった。

 

ここでちょっと視点を変えるというか、気分転換に、私の管楽器人生の原点である宗次郎に戻ってみようかと思うようになった。
そうなのだ。宗次郎はオカリナ奏者だ。だからオカリナを始めてみようかなという気持ちになってきたのだった。元々オカリナはほとんど興味がなかった楽器だけど、とりあえず原点の宗次郎に戻ってみようと思った。

こんな状態だったのだから、私の楽器探しはまだまだ終わらずに、ここで一休みすることになった。

しかし、人間どこでどうなるかわからないもので、そのオカリナを始めたおかげで、自分が求めている管楽器の「具体的な条件」というものに気づくことができたのだった。

そう、サクソフォンの次に目を向けた楽器がオカリナだった。サクソフォンをやっていて逆に私は自分の求めている管楽器が何なのかがわからなくなって混乱していた状態だったのだが、そこで視点を変えて、好きな音楽のことを考えてみようと思ったのだった。

思い返してみれば私の管楽器人生の原点となったのは宗次郎だったのだ。私が宗次郎の音楽にすごーく魅了されているのは今でも変わっていない。自分でロゴを作ってバッグに貼るほどで。


現在も使っているミニショルダーバッグ

しかしオカリナ自体にはほとんど興味がなく、始める前から「これは自分の楽器探しの内には入らないな」とわかっていた。それでも原点である宗次郎にまず近づいてみようと思い、オカリナを始めることにした。

買ったのは、アケタのG管とナイトのC管。両方合わせて2万円を少し超えるくらいの出費だったかな。意外と高いのよねーオカリナって。やはりあの制作過程でかなり手間がかかっているからだろうな。

楽器として触れてみるのではなく、あくまで好きな音楽を奏でる手段として割り切ってしばらく吹いてみようと思ったのだった。つまり楽器探しは一休みということで。

さて、手にした楽器はオカリナ、そして演奏するのは宗次郎の音楽。大好きな音楽だからもうそりゃーもう吹きまくった。毎日何時間も延々と宗次郎の音楽をコピーし続ける日々で、運指は基本的なことは楽器に付属していた運指表を見たのだが、あとは完全に独学でいろいろ試したりした。
そういう風にして月日が流れていった。

ここで、のちに私にとって非常に大事なテクニックの糧となる演奏方法をオカリナで編み出したのだ。それは半音運指のテクニックだ。
オカリナの基本通りのラクな(誰でも確実に半音を出せる)半音運指の方法はちゃんとあったのだが、私はあえてその基本に背き、指穴を半分だけ塞ぐという綱渡り的なワザを練習していた。
指穴を押さえる方法も、基本は指のハラで押さえるものなのだが、私はあえて指先で押さえて指先に神経を集中させて、その塞ぎ加減を微調整しながら吹くという方法をとっていた。

なぜこのようなことを練習していたのかというと、正直な話、オカリナの独特な運指を覚えるのがめんどくさかったのだ。以前やっていたピッコロやサクソフォンの運指を流用したくて、そうすると必然的に指穴を半分だけ塞ぐ方法をとらなければならなかった。
ここら辺のことは言葉では説明しにくいので省くが、とにかく今までの運指を流用するとどうしても「指穴を半分だけ塞ぐ半音運指のテクニック」が必要だったのだ。

そのテクニックの練習も兼ねて、G管とC管だけでいろんなキーの宗次郎の音楽を吹いていた。

この時期あたりからちょうど私は@nifty(当時のNIFTY-SERVE)のパソコン通信を始めていて、音楽関係のフォーラムやパティオなどに出入りしていた。その中で宗次郎に関する部屋がまったくないということに気づいて、「なんでないの? それなら自分で宗次郎の話題をメインにした部屋を作ってやる」と思って、宗次郎の話題がメインのパティオ(個人経営の会議室みたいなもの)を開設したのだった。

宗次郎パティオには少数だったが会員さんが集まり、その中で自然とオカリナの話題も出てきて、ある人のご厚意で都内のオカリナ同好会に参加させていただくことになり、以後私はその同好会に数回通った。オカリナの先生がいらしてレッスン形式で行う同好会だった。

もうこの時点で私は自分の演奏スタイルが定着してしまっていたし、今更基本の運指を覚えるのも辛かったので、自己流で通した。同好会が終わった後の打ち上げも楽しく、知り合いも増えてそれなりに楽しい日々だった。

 

さて、この時点で私がオカリナで得たものはいろんな人との出会いと、そして自分の半音運指のテクニックだったのだが、実はもう一つ、オカリナは私にすごく大切なことを気付かせてくれたのだった。

それはある日の昼間に森の中で一人でオカリナを吹いていて、演奏の合間に一休みしていた時に気付いたことだったのだが、自分が本当に好きになれる楽器の「具体的な条件」だったのだ。

その具体的な条件とは、「できるだけシンプルな作りの笛」というものだ。

オカリナはかなり作りがシンプルな笛だと思うのだが、そのシンプルな作りの笛を吹いてる自分が居て、そしてその音に自分でも知らず知らずの内に引き込まれていったという感じだった。
私が管楽器に求めている条件は「とにかくできるだけシンプルな作りの笛」だと気付き、目からウロコが落ちた状態。

誰も居ない静かでのどかな昼間の森の中で、オカリナは私に「それ」を教えてくれたような気がした。

なんだか今思うと、誰も居ない森の中でふと気付くなんて、恥ずかしくなるくらいハマってる情景だったなー(笑)

それから私が「楽器探し」を再開したのは言うまでもない。できるだけシンプルな作りの笛という条件を元に、さてこれからどういう方法でどんな楽器を探してみようか・・・と、やや不安があったとはいえ何だか楽器探しの旅の出口が僅かに見えたような気がした。

 

自分が好きになれる管楽器の条件として、オカリナが気付かせてくれたことは、「できるだけシンプルな作りの笛」だったが、オカリナと同じくらいの時期に買ったのがウインドシンセのAKAI EWI3020という機種。T-SQUAREの管楽器奏者やマイケル・ブレッカーでお馴染みの電子楽器だ。電子式のサクソフォンといえば解りやすいだろうか。

ウインドシンセを買ったのは、夜間の練習用管楽器としてだった。昼間はオカリナを吹き、夜間は近所迷惑なのでウインドシンセにヘッドフォンを繋げて演奏していた。

「できるだけシンプルな作りの笛」を探している間、正直言ってすごく不安な気持ちだった。世界中の楽器から自分の好きなものを見つける、というのは雲を掴むような話だから不安になるのは当然で、そんな不安を紛らわすためにもウインドシンセはいい楽器だった。

個人的に笛探しをする傍ら、スタジオでもウインドシンセは大いに活躍した。当時組んでいたフュージョンバンドにウインドシンセで参加して、いろんな曲を演奏した。もっぱら指を速く動かして、ギターでいう「速弾き」と同じことをしていた。何せキーに触るだけで音が出るので速いパッセージを吹きやすい。16分音符、32分音符なんてのは序の口で、速い演奏にはウインドシンセはうってつけだった。それでうっぷんを晴らしてたという事実もあるが・・・

 

ここで突然開いた突破口があった。
当時は、まだニフティのパソコン通信をやっていた時期で、世界中の楽器を扱う会議室を探していたら、FWBEATというフォーラムの16番会議室「世界の楽器から/プレイヤーズWトーク」という会議室を見つけて、そこに常駐するようになっていた。世界中のいろんな楽器(主に民族楽器)を扱う会議室だったので、とても興味深かったのだ。

その頃の私は、ウインドシンセのサンプル音源に入っているオーボエの音色が気に入って、その流れでダブルリード楽器の音色に興味を持ち、一時はダブルリード楽器というのも笛探しの条件に入っていた。
そこで、FWBEATの16番会議室に質問の書き込みをした。「世界中のダブルリード楽器は、どういうものがあるのでしょうか?」という具合に。そうしたら会議室の皆さんから温かいアドバイスのコメントをいただき、たくさんのダブルリード楽器があることを教えていただいた。

その時、ある人のコメントの、聞きなれない単語が目に入ってきた。

「ティンホイッスル」

ん? と思ってその人のコメントよく読んでみたら、ティンホイッスルのマウスピース部分を外して、管体にダブルリード楽器のリードを取りつけて、ティンホイッスルをダブルリード楽器として使えないか試行錯誤中、というような主旨のコメントだった。

ここで私が目を付けたのは、ダブルリード楽器にするということよりも、そもそも「ティンホイッスル」という楽器はどんな楽器なのだろうか、という点だった。
早速その会議室の過去ログを「ティンホイッスル」で検索したら、だいぶシンプルな縦笛ということがわかり、しかもアンブシュアが全く必要ない、つまりピッコロでアンブシュアが崩れて挫折した時のような心配は皆無だということもわかり、私の興味はティンホイッスルという名前の笛に向けられたのだった。

そうなのだ。まったくの成り行きな流れだったにも関わらず、こんな所で、楽器探しの意外な突破口が突然開いたのだ。

当時、映画「タイタニック」が流行っていた時期だったが、私はその映画のことはまったく知らず、見たこともなかったので、映画「タイタニック」でこの笛を知ったのではない。

まだインターネットは始めていなかった頃だったので、どこかのサイトを見て画像などで確認するということはできず、それならば、実際に売っている店を探して現物を見ようと思った。
この時点で私の胸の鼓動は激しく高まっていた。「一体、ティンホイッスルという笛は、どんな笛なんだろうか。早く現物を見たい!」という気持ちでいっぱいだった。

私は思い立ったらすぐ実行するタイプなので、翌日、忘れもしない1998年11月11日(水曜日)、近所にある大き目の楽器屋さんに行った。

いや、もちろん↓こんな女の子の姿で行ったんじゃないですよ(笑) 昔プライベートで描いていた、ティンホイッスルに出会った頃の漫画の一部を復活させてみました。セリフは一部消してあります。

その楽器屋さんはかつて私がウインドシンセを買ったお店だ。それでそこの店員さんに「ティンホイッスル」という笛を探していることを話した。そのお店には現物は置いていなかったのだが、とても親切な店員さんで、雑誌の広告に載っていた「ティンホイッスル」の写真を見せてくれた。

・・・私はその写真を見て、ものすごい衝撃を受けたのだった。

お店で見せてもらった「ティンホイッスル」と名前が添えられていた写真には、とても驚いた。あまり大きな写真ではなく細かい部分まではわかりにくかったが、全体的に見て「カッコイイ!! モロに好みの形じゃん!!」と直感した。とにかく何がなんでも実物を見たいと思った。

その写真広告が載っていた店名を改めて見ると、東京都の御茶ノ水「イシバシ楽器」と書いていた。その「イシバシ楽器」の電話番号を控えて、教えてもらった店員さんに深々とお礼を言い、私はとりあえず帰宅した。

そして自宅からその「イシバシ楽器」に電話で問い合わせてみて、どのような笛なのかをある程度教えてもらい、ますます興味が高まっていったた。扱っていたのはジェネレーションのニッケル管とブラス管で、色ではニッケル管が好みだった。

トーンホールを全部押さえてDの音が出る管はD管で、それがよく使われるキーの管だということはパソコン通信での予備知識で知っていたので、私は思わず、「明日買いに行きますから、D管のニッケル管を一本キープしておいてください!」と電話口で緊張気味に伝えた。

その瞬間、翌日のバイトはサボることに決めた。てやんでー、一日くらい構わないって。この大事な時にバイトなんかしてられますかって。

そして翌日、私は都内の御茶ノ水に向かって出かけて行ったのだった。それも始発電車ですよ始発電車。地元の駅から御茶ノ水までは1時間30分もあれば行けるし、お店は朝10:00からしか開いてないのに、何を血迷ったのか、私は朝5:00過ぎの始発電車で出かけたのだ、うはは。
えーもう、前の夜も興奮してあまり眠れなかったし、いてもたってもいられなくなっていたんだもん。とにかく一刻も早く御茶ノ水に行きたかったんだもん。

思ったとおり、御茶ノ水に着いたのは朝6:30過ぎ。いやー、バカだねー。まだ開店まで3時間以上あるわ。

でもまぁ、これでとりあえず現地には着いて一安心。駅を出て歩き、お店の場所を確認したところ、あった、「イシバシ楽器 ロックサイド」。当然シャッターは閉まってるけど間違いなくここだ。
ちなみに当時イシバシ楽器はウインドパルではなく、ロックサイドという店舗でこの笛を扱っていた。

さーてと、あとはお店が開くまでゆっくりと時間を潰せばいいやと思って、早朝の御茶ノ水の街をぶらぶらと歩き回ったり、ミスタードーナツで2時間、喫茶店ルノアールで1時間ねばったりした。我ながら何やってんだか、意味ないよなー、バカだよなー、でもこうして待っている間も何だか楽しいような気分だわ。なーんてことを思ったりしていた。

さぁ時間だ、店のシャッターが開いた。私が本日のお客第一号だ。

店内に入り、置いてある楽器を一通り眺めてみると、レジの斜め上のほうに「ティンホイッスル」かと思われる笛が何本も吊るしてあった。私は店員さんに話し掛けて、キープしておいてもらった実物を手に取った。

うわあ〜〜〜〜〜〜!!

ものすごいインパクトだった。目の前で見るジェネレーションのニッケルD管。その軽さ、美しいストレートの管体、何よりも極めてシンプルな作りに驚いた。ホントだ、指穴が6個しかないじゃん。管体の裏側は何もないじゃん。すっごいシンプル。信じらんない! ひゃー! もう一目ぼれ!


ジェネレーションのニッケルD管

で、今度はどういうカンジの音が出るのか気になって、「試しに吹いてみてもいいでしょうか?」と店員さんに尋ねたところ、「いえ、口につけるものですから吹くのでしたら買っていただかないと・・・」と言われた。アタリマエだよなー。たぶんその時の私はよっぽど舞い上がっていたのだろう。

すぐに会計を済ませて、早速その場で自分のオリジナル曲や、その他いろいろな曲を吹いてみた。

管楽器の経験を積んできて息使いのコントロールに慣れていたおかげで、1オクターブ目と2オクターブ目の出し方はすぐにコツが掴めて、おまけに3オクターブ目まで出せちゃったよ。思ったとおり、アンブシュアが全く要らない。オカリナやリコーダーと同じ安心感で吹ける=吹けば必ず音が出る、ということを体感したので、嬉しさと同時に多大なる安心感もやってきたのだった。

 

余談の笑い話だが、ティンホイッスルのことを何も知らなかった最初は、「ティンホイッスルでもC管にしよう」と思っていた。でも、よーく考えたら、最初に始めた管楽器のピッコロで、右手薬指を押さえた時がD、中指でE、左手薬指でG、中指でA、人差し指でBと、最初にそう覚えていたし、オカリナの時も同じ運指をしたいという理由でC管しか使わなかったし、で、いざティンホイッスルを買おうという時に、
「あれ? 変だぞ? まてよ? C管のティンホイッスルだと、今までの運指が流用できなくなる。そっか全音分間違えてた。ピッコロからの運指を流用できるティンホイッスルはD管だわ。私大ボケ」
と気づいたのだった。
で、最初はC管を買ったものの、追加で慌ててD管も買ったという次第だった。いやホントに最初は何も知らなかったので(笑)

そうなのだ。管楽器の何たるかもわからなかった時代に、ただ外見が可愛らしくて音色も好きだからという理由でピッコロを始めて、それでフルートのことも知って、ピッコロはフルートの持ち替え楽器で最低音のCがあるのと無いのとを除けば運指は同じということを知って、運指がそれらの運指(先述の指と絶対音との関係)にすっかり慣れちゃって、後から始めた管楽器にも「運指を流用したほうがラクだから」という怠け者の理由でキーを選んで、その運指の流れでティンホイッスルはD管を選んで、後になってから「ティンホイッスルにはいろいろキーがあるけど、D管が一般的」ということを知って、やっと「そうか、そういうことか」と納得してという、全くもって知識を得る順序がアベコベだった(笑) 我ながら何やってんだか。まぁ結果的には一般的なD管に落ち着いたからいいんだけど。

 

ティンホイッスルをリュックに大事にしまい、お店を出て、御茶ノ水から家まで帰る途中の私は、なんともいえない満足感と達成感と開放感でいっぱいだった。
遂に自分が好きになれる「極めてシンプルな笛」を見つけた。手に入れた。演奏もすぐにできたし、少なくともピッコロの時のようにアンブシュアで苦しむという心配は、この笛では皆無だ。外見やシンプルさや音色や演奏性、何もかもが気に入って、何もかもが安心できる、こういう笛を探していたんだよ。こんな笛があったなんて・・・

生きてきてこれほど感動的な出会いをしたのは、滅多にない。理想の笛に出会うまであと何年かかるのか、それよりもあと何年生きられるのか・・・などと思った時もあったりもしたが、当時はそれだけ落ち込んでいたのだろう。

なのでこの出会いは喜びもひとしおで、あまりに嬉しかったせいか、御茶ノ水から家まで帰る時の風景は殆ど覚えていない(笑)

こうして、楽器を始めてからというもの、何度も挫折を経験したけど、年月をかけてやっとの思いで「できるだけシンプルな作りの笛」を見つけたのだった。挫折しても一生懸命がんばったけど、それでもダメで絶望して放心状態の日々が続き、気持ち的には放浪生活を送っていたところで、突然突破口が開けてティンホイッスルに出会えたのだった。
今と比べると当時はまだまだネット上では楽器の情報が非常に少なく、ティンホイッスルの存在を知るまでに年月がかかってしまったけど、だからこそ出会えた時の感激もひとしおだった。それでティンホイッスルに対する今の只ならぬ思い入れがあるのだろう。

仮に今「楽器探し」を始めていたとしたら、割とすぐにティンホイッスルの存在を知ることができたのだろうが、それだとありがたみがなくなっちゃうというか、苦労して見つけたからこそ嬉しさも何倍にもなるというもので。
でも、「諦めないで苦労してがんばった私偉い。すごい」なんていう気持ちはカケラもなく、ただただ出会いに感謝しているだけだ。

それで、「こんなに素晴らしい笛なんだから、ぜひネットの皆さんにも知っていただきたい。一人でも多くの人にティンホイッスルの存在を伝えたい」と思って、ティンホイッスルの情報サイトを始めたのが2001年3月13日。

くどいようだが、ピッコロで音が出なくなったことへのショックが当時大変大きく、生きがいをなくして精神的にも肉体的にも廃人同様になり、絶望的な日々を送っていた身としては、「簡単に音が出ることのありがたさ」を本当に身に染みて感じていた。しかもそれがティンホイッスルという、外見・吹きやすさ・音色・手軽さ・耐久性など、全ての面において気に入る笛だということは、これ以上の救いは無いくらい嬉しいことだった。ティンホイッスルに初めて出会った時のあの衝撃的な感動を、いつまでも忘れないでいたい。

それにしても、モダンピッコロを挫折して別れを告げ、いろんな吹奏楽器を経て、巡り巡って最後にピッコロと同じ音域で同じくらいの長さ・小ささの笛ティンホイッスルと出会うなんて、当時はなんだか不思議な運命を感じた。別れを告げたピッコロが縦笛ティンホイッスルになって生まれ変わってきて巡り合ったような気さえした。

 

思い返してみれば、最初に行った近所の楽器屋さんの店員さん、親切に教えていただいて感謝しています。

そして何よりも、ニフティのFWBEATというフォーラムの16番会議室の存在には、言い尽くせない感謝の気持ちでいっぱいです。あの時16番会議室でお世話になった方々、この場を借りて、心からお礼を申し上げます。本当にありがとうございました。あの会議室は私の笛人生のターニング・ポイントでした。


はじめに

とっても長い紆余曲折の話(今見ているページ)

理想のピッコロに出会うまでの話

いろいろなミニ横笛についての考察

アンブシュアの試練の時

失われたアンブシュアを探して ――時は過ぎゆく――

アンブシュアの迷宮から、やっと脱出


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